ラブコメは始まらない

 華奢な制服姿。さらりと風がそよぐ後ろ髪。

 間違いない、彼女だ。


 横断歩道の信号が青に変わり、彼女が急ぎ足で歩き出した。学校は横断歩道を渡ってすぐだ。校内に入られたらやっかいなので、俺は置いていかれないよう、彼女の背中に声をかけた。


藍見あいみさん! すみません!」


 横断歩道の真ん中で、彼女が振り返った。そして呼んだのが俺だと気づくと、彼女は「あれ、どうしたんだろう」という表情を浮かべ、そして持ち前の愛想の良さを発揮して、健気にも右手を振ってくれた。


 そして、彼女は誘拐された。


 言葉にすれば、あまりにもあっけないと思う。けれど、突然起きたその出来事は、本当に、それくらいあっけなく起きて、そしてあっけなく終わったのだ。


 彼女は横断歩道の真ん中に突っ立っていた。俺が呼んだからだ。藍見さん、と俺が彼女の背中に向かって言って、それに応えるために彼女は立ち止まったのだ。


 そして、その次の瞬間だった。


 真っ黒な高級外車が、立ち止まった彼女の脇に停まった。そしてその車の中から、2メートルはゆうに超える大きな体の生き物が出てきた、——と認識した時には、その生き物は藍見さんの体を持ち上げて、車に押し込んでいた。

 きっと彼女も、何が起きているのか理解できていなかっただろう。扉が閉まる瞬間、彼女の大きく見開かれた目が、俺を見た。バタンと扉が閉まり、車は走り出した。


 一瞬だった。

 俺は、ただ見ていることしかできなかった。


 車が走り去って行った横断歩道は、つい先ほどと何も変わらない日常が続いている。もしかしたら、俺が彼女のことを知らなければ、人が一人いなくなったことも気づかず、日常を送っていたかもしれない。


「ゆうにゃん!」


 リコが俺の腕をぐいぐいと引っ張った。


「ゆうにゃん、さっきの人が! 誘拐されちゃったよ!」

「……誘拐?」


 リコの言葉で、ようやく事態を理解する。


「やっぱり、そうなのか」

「そうだよ! どうするの!?」


 ——どうするって。


 どうするもこうするもない。助けにいかなければならない。

 けれど俺は、動けなかった。こんなことが起きるとは、思ってもみなかったのだ。


 助けに行くと言ったところで、中肉中背の、ただの人間である俺が、あんな化物みたいな奴ら相手に何ができるというのだろう。


 相手は、物凄い武器を持っているかもしれない。

 腕力だってすごいに違いない。

 あれだけ手慣れた様子だ。容赦なく殺されるかもしれない。


「ゆうにゃん」


 不安が顔に出ていたのかもしれない。リコの口調は力強かった。


「大丈夫だよ。ゆうにゃんは主人公だもん。きっとうまくいくよ!」


 ピンク色の大きな目が、真っ直ぐにこちらを見ている。


「ね、ゆうにゃん。それに、このリコにゃんだってついてるんだよ? どんとこいだよ!」

「それが一番心配なんだけどな」

「ええっ!?」


 そんなことを言いながら、俺はリコに感謝していた。

 リコの言葉で、俺の心の中にあった不安は少なからず和らいでいたのだ。


 ——大丈夫だよ。ゆうにゃんは主人公だもん。


 震える息を吐いた。覚悟を決めた。


「そうだな。助けに行こう」

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