鏡 (繭のなかの蝶と蛾)

a.私の秋は打ち寄せて、約束をします。流跡に触れる踵。

b.私は一九七八年の十月に生まれました。風のある日で、破り捨てられた手紙が光りながら飛んでいった。曾祖母が亡くなったのはそれからほんの三日後でした。父は私を白帆と名付け、それはあの手紙の印象に因んだものだったといいます。


a.枝々は一枚一枚、季節を落とし、形を脱ぎ、家に帰ろうと、振り向いて、忘却のなかに、自分の道を見出し、それをたどる。

b.四歳か、五歳の頃、シャボン玉のなかにある水族館に迷い込んだことがあります。泡のなかにひとつ、とても奇妙な、この世界のものではない光を映しているものがあって、それを覗き込むと、水族館でした。王冠を被った樹木や、うず高く積み上げられた綿埃が、水槽に囲われて、微笑んでいました。順路に沿ってめぐると、最後の水槽にいたのは私でした。私は彼女を置いて、出口から家の庭に戻ってきました。シャボン玉が、さっと風に攫われて、一つ一つ弾けてゆきました。一つ残らず。


a.あなたはどうしてここに来たの?

b.高校受験の冬。友達がオートバイに跳ねられて死にました。茶色いマフラーが雪のなかで動かなかったのを覚えています。彼女の体は人形みたいで、彼女のマフラーが死骸みたいでした。


a.どうしてここに?

b.大学生のとき、恋人と幸せになりたくて、沖縄にダイビングに行ったり、そのためのアルバイトをしたりしました。恋人は髭がもじゃもじゃになって、船で連れて行かれ、私は一人で幸せになる方法を探さなくちゃいけませんでした。手許に残ったのは、エアコンのリモコンくらい。


a.石が歌うには消え去るだけでいい。すべて忘れられたものの歌を聴くため、耳を澄ますだけで。

b.小さな印刷会社に就職して、忘れなくてはいけないことは忘れられず、忘れてはいけないことは忘れ、革命があったのはその頃のこと、長谷川三日月と会ったのもその頃のこと。


a.欠片は集める。たくさんの火と、たくさんの蝶と蛾。すなわち、たくさんの婚約。

b.十月が終わり、火をよく見つめました。寒かった。強い酒ばかり三日月と飲みました。最高の酒ばかり。コートをいくつも焦がしました。片目がないことに慣れました。三日月はすぐに死ぬだろうと思っていましたが、なかなか、死にませんでした。


a.雪が、脱落し、冬が、その肋骨を晒す。風が戯れる。陽光を食う。

b.煙のなかに歌はとけてゆきました。たくさんの顔や、鉄や畑。みんな空に昇っていった、国といっしょに。三日月は、前にも増して、遺跡の話をよくするようになりました。それは遺跡といっても、建造物ではなく、泉や、光、嵐、影、などのかたちをとって、人間の前に現れるのだそうです。その話をしている間、三日月の顔は樹木のようになりました。声は深いうろから、闇に冒されて、這い出してくるのでした。


a.正しいことをみんな記しました。夕陽や霧や葉脈のひとつひとつに、私は正解を書き込んだ。正しい失い方。ひとつひとつの螺旋や、歴史のきれはしが、それを学ぶことがある。

b.あの日、夕島一尉を殺すと、三日月は私の名を何度も呼びながら、遺跡に近づいていった。それが遺跡であることは間違いなかった。遺跡は大きな黒と黄の翼を広げ、上下に何度か揺すると、また閉じた。遺跡はこちらを見ていた。三日月の背中を三回撃つことは、想像していたよりも簡単だった。鹿みたいだった。私は三日月を踏んで、遺跡へと向かった。あのうろに。


a.思い出した?

b.迷路には、たくさんの分かれ道と行き止まり、回り道がなくてはいけません。そのなかで時間も記憶も運動も、すべてが尽きて終わるように。そうして残ったものだけが、最後の場所に辿り着けるように。そして思い出す。


a.全てははじまるためのもの。私も。あなたも。

b.私はきれぎれの手紙が飛んでゆくこと。そのために。ひとつの罅。私はあなたを見る。一九七八年の十月、あなたが生まれる。


a.はじめるのは、またはじめるため。過去も、未来も、新しいものは、新しくなくてはいけない。

b.そのため、私があなたのなかに、あなたが私のなかに、卵を産み付ける。私の秋が打ち寄せて、約束を履行し、そしてまた約束を交わす。流跡にまた、踵をつける。


a.そこでは、忘れることは、思い出すことと、おなじこと。

b.そこでは、忘れることは、思い出すことと、おなじこと。

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