第62話あの日……。

 あの日、調査会社の人と別れた私はいつもの喫茶店を出てすぐに通りかかったタクシーに乗りました。

 タクシーが環七通りを抜け甲州街道に差し掛かった時にそれは起きる。

 信号待ちをしていた交差点が赤から青に変わり、タクシーはゆっくりと私を気遣うように走り出す。いかにもベテランのドライバーさんらしい丁寧な運転だなと感心していると、思惑に反し急ブレーキがかけられた。

 私の体は助手席のシートに叩き付けられたが、スピードが出ていなかった事が幸いして特に痛みは感じなかった。

 慎重な滑り出しで発進したタクシーが、なぜ急にブレーキをかけたのか気になり前方を見ると、歩行者用の信号機は赤にも関わらず、一人の少年が路上に飛び出していました。


 危ないなぁ、と思いながらその少年を見ると、少年は片手をこちらに向けて止まれのようなハンドサインをしています。

 何かを落として探しているのだろうか?

 少年の足元に視線を投げた時、私の視界は暗転した。


 次に私の視界に飛び込んできたのは、今までいたコンクリートに囲まれた都市ではなく、辺り一面が鬱蒼と茂った森の中だった。

 タクシーは丁度、木々の間に挟まれる形で停車していて、助手席と運転席を挟み込んでいました。


「ここは――」


「すみません、私にも何がなにやらさっぱりでして……」


 私が困惑気味に尋ねると、ドライバーさんも理解出来ないといった風の口調で車内から周囲を見渡しています。

 何が起きているのか分からない段階で、外に出るのは危険と判断し、私たちはしばらく様子を窺います。でもそれが間違いであったと気づくのに時間はかかりませんでした。


 頭に角を生やした緑の生き物が3人、突然タクシーに襲いかかってきたのです。

 私はその生き物に見覚えがありました。お兄様が最近よく見ている動画に出てきていたゴブリンと呼ばれる生き物だったのですから。

 ゴブリンはフロントガラスに木でできた槍を突き刺しますが、窓ガラスは思いの外頑丈で木で貫く事はできません。車内にいれば安全かと思われましたが、ゴブリンの一人が持っている斧であっさり破壊され、ドライバーさんの体に槍が突き立てられました。

 ドライバーさんは死の直前で、後部座席側のドアを開けてくれました。


 最後に逃げて――と言い残して。


 私は恐ろしくなって、ゴブリンが現れた方と逆の方へ逃げました。

 柔らかい土に何度も足をすくわれ、何度も転びました。それでも必死で逃げました。

 どの位走ったのか、私の体力が限界を迎え何度目かの転倒をした時、背後から奇声を上げながら追いかけてきている存在に気づきました。


 あぁ、助けてお兄様、こんな場所で死にたくない。

 私は神に祈るように、手を胸元で組むことしかできませんでした。


 そこに現れたのが3人の武装した男性でした。

 彼らは私を背に庇うように立ち回りながら、あっさりとゴブリンを倒していました。

 私は命が助かったのだと、この時、ホッと胸を撫で下ろします。


「◇▲□〇◇▼●」


 彼らは私に何か話しかけてきますが、言葉が全く分かりませんでした。

 きっと大丈夫だったか?

 怪我はないかといった様なことを聞いてくれているんだと思いました。

 私はただ、彼らに繰り返し何度もお辞儀をしていました。


 彼らに守られるように森を出た私は、彼らの馬車に乗せられ、大きな中世風の街にたどり着きます。

 3人は、門番の守衛さんにも私の代わりに対処してくれて、私は言葉が交わせなくて不安はありましたが、身の危険を感じることはなくなりました。


 私は彼らの案内で、宿と思われる場所に着き、味は薄味ですが、素材のうまみが良く染みこんだ料理をいただき、部屋へと案内されます。部屋は10畳くらいの部屋で、中にはベッドが3つ置いてありました。

 私は案内されるままに部屋に入ると、それまで優しかった男性たちが豹変ひょうへんしました。

 彼らはにやけ顔で、私を強引にベッドに座らせると、二人が私の両手を押さえ、もう一人は服を脱ぎ始めます。


 私の今日の格好は動きやすいレディース用のロングパンツでした。

 裸になった男は私のそれを脱がしにかかります。

 私は必死に抵抗しますが、男性2人に押さえつけられれば、どうする事も――。

 命を助けてもらった事には感謝していますが、それとこれは話が違います。


「イヤッ! 止めてください!」


 必死にお願いしますが、男たちは下卑た視線を浮かべるだけ。

 言葉が通じない事で意思が伝わらないのであれば、態度で示すしかありません。


 私は以前、おばあさまから教えてもらった作戦を行動に移します。

 裸の男が私にキスしようと顔を近づけた時に、私は自分の舌を思いっきり噛みました。私の口から溢れ出す尋常ではない量の血を見て、男たちは慌てます。


 そうです。

 私が実行したのは自らの舌を噛みちぎること。

 おばあさまは、昔はこれで死ねると思われていたのよ。でもね、本当はこんな事では人は死なないの。自分の意思に反して襲われそうになったら実践してごらん。力ずくで女をモノにしようとする輩なんて驚いてすぐ逃げ出すわ。

 私は薄れ行く意識の中で、おばあさまに言葉をおくります。私、やったわよと――。


 男たちは慌てふためいて、私をお医者さんの所に運んでくれました。

 それからの事は良く覚えていませんが、私が意識を回復させると周りには同年代の少女たちで溢れていました。

 私は何とかして彼女たちから情報を集めようと考えますが、それは不可能でした。


 ――私は言葉を喋ることができなくなっていたから。


 舌を噛みちぎった誤算は、ここが地球ではなかった事。

 医療の整った国であれば縫合手術で簡単に治るはずでした。

 でも、ここは剣と魔法の世界。

 魔法師が治療魔法を施してくれたようですが、ちぎれた舌は元に戻りませんでした。

 あれから3人の男たちとは合っていません。

 私は訳も分からず、ただ同年代の子たちと一緒に食事を取り、一緒に寝る生活を繰り返し、今日を迎えました。薄いネグリジェのような服を着て、ステージに立っていました。

 ステージの下に大勢の人がいるのは分かりましたが、これはこの世界のファッションショーのようなものと考えていました。

 50人近い少女たちは皆美しく、モデルのようだったから。

 でもそれも間違いだと気づいたのは、ステージの下から太った男性が下卑た面持ちを浮かべて私に近づき、腕を掴んだ時でした。


 もう噛む舌もありません。

 私は必死に逃げます。

 でも、鍛えてきたわけでもない私に為す術はありません。

 私が必死に抵抗していると、男は私を殴りつけました。


 これまで誰にも殴られた事などなかったのに――。


 私の体はステージからはじき飛ばされ、床の上に転がり落ちます。

 打ち付けた腰が痛い、そして恐らくは腫れている目も痛い。

 私は最後の抵抗とばかりにステージ上の太った男を睨みます。

 すると、それまで椅子に座っていた男性が、私の腰に手を回してきました。


 もうやめて。

 私に触れないで――。


 私は、咄嗟にその男性の頬を平手打ちします。

 視線をあげて平手打ちした男性を見据えると、彼は驚いた面持ちで私を見つめていました。

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