エピローグ第一話
ハヅキが目を覚ますと、そこはギルドの医務室だった。窓の外は暗く、廊下は物音ひとつなく静か。どれほどの時間眠っていたのか、枕もとのテーブルにはお見舞いの品が並んでいた。そんな中で、ハヅキはひとつの影を見た。
「アルミラさん」
はっきりと視認したわけでもないのに、それがアルミラであると彼女は確信していた。カーテン越しにあった影は呼び声に応じて布をめくり、内側に入ってきた。
「起こした?」
ハヅキは不安げに問うアルミラに穏やかな微笑みを向け、首を横に振った。
「こんな時間にどうしたの?」
「ハヅキと、話がしたかった」
アルミラは近くにあった椅子を引きよせ、ハヅキのそばに座る。
「ごめんなさい」アルミラが言った。「先代のこと、私のせいだ」
「助けようとしてくれてたんでしょ?」
アルミラはうつむき、黙ってしまった。寡黙な彼女。ハヅキは彼女が何を考えているのかが分からなかった。だから、知りたがった。
「どうして、守ってくれるの?」
命をかけてまで、組織を裏切ってまで。
「私、どれだけ考えてもアルミラさんにそこまでしてもらえる理由が思いつかないの」
パトリのようにマーロウへの恩をハヅキで返そうとしたのか、彼と死の際に約束したのか。しかし、答えはハヅキの想定とは異なっていた。
「カーネーション」とアルミラは言った。「収穫祭のとき、花紙でカーネーションの作り方を教えてくれた」
「それだけ?」
たったそれだけのことで、命を投げ出してもいいと思った?
「嘘でしょう? だって、釣り合わない」
「私の手は人殺しの手だった。目的もなく、ただボスの命令だからというだけで、殺してきた。人殺ししかできない手だった」
そういう手だと思い込んでいた。
「けれど、そうじゃなかった。ハヅキが教えてくれた。私の手でも、なにかを作れるってことを。人殺ししかできない手じゃないってことを」
彼女はそれだけで十分だったと言い切った。それだけのことで、自分の命を投げ出してでもハヅキを守りたいと思ったと。新たな生き方を教えてくれたということは、生まれ変わらせてくれたということ。彼女にとってハヅキは母のように感じられた。だから、守るのだ。
「言ってくれたらよかったのに」
「いま言わないと言えなくなるから、言っただけ。本当はずっと、隠しておきたかった」
「どこかに行ってしまうの?」
「怪我は」とアルミラは質問に答えてくれない。「右目の怪我、治った?」
ハヅキは頭を振った。傷はふさがっていたが、また何かのはずみで開いてしまうかもしれない程度の治癒。傷跡も当然残っている。
「包帯、外して」
「ダメ。こんなの、見せられないよ」
ハヅキは顔まで布団をかぶって傷を隠した。しかし、
「大丈夫だから」
アルミラは優しく言い、ハヅキの包帯を取っていく。
(ああ、嫌だな)
ハヅキは思った。アルミラが最後に見る自分の顔が、傷物になった醜いものだなんて、と。彼女の思い出の中だけでも、綺麗な自分でいたかった。
すこしずつ露わになる傷。右眉から頬にかけて三本の爪痕が深く刻まれている。
「一生消えないかもって」
ハヅキは震える声を抑え、アルミラに心配かけまいと微笑んだ。
アルミラは枕もとに手をつき、ハヅキに覆いかぶさるように顔を近づけた。そして、傷口に沿って落ちる涙を親指で拭う。アルミラがさらに顔を近づけ、彼女以外なにも見えなくなる。
ハヅキは目を閉じ、アルミラを待った。ぬらっと傷を這う生暖かい感触。左目を開けてみると、アルミラがハヅキの傷跡を舐めていた。頬からすこしずつ、隆起した肌をなぞって目に近づいていく。多量の唾液がとどまることもできず、涙のようにハヅキの顎を伝ってシーツに滴り落ちていく。
「笑って」
舐め終え、顔を離したアルミラが言った。
「あなたの笑顔を守ることができた、と。そのことを私の誇りにさせてほしい」
だから笑って、と言ったアルミラの表情は柔らかく、穏やかな日の光に似た笑みを浮かべていた。ハヅキはそれを目に焼きつけておきたいと願い、癒着して開かなくなった右目も開こうと意識した。
すると、見えた。今まで閉ざされていた右目に光が。アルミラの笑顔を眺める邪魔をするものはなにもない。手で触れてみると、傷がない。隆起した痕も、熱く走る痛みも。
そんな驚きさえ、いまはどうでもいい。この美しい顔を、いつもでも見ていたい。ハヅキはアルミラにつられ、頬をほころばせた。
アルミラの顔がまた近づいてくる。ハヅキは彼女の視線から、今度はなにが起きるのかを察する。アルミラの瞳は近づくたび下に移り、ハヅキの眼ではなく、彼女の唇を見ていた。息がかかるほど近づいたときには瞼が閉じられており、ハヅキもそれに応える。
唇の感触を覚えておこうと思う間もなく遠退いていく意識。
(待って! もう少しだけ、このまま)
思いとは裏腹に襲い掛かってくる眠気に沈み込んでいくなか、ハヅキはひとつの声を聴いた。
――待っていて。
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