第二章第六話

「あった! 見てこれ。やっぱりココの笛だわ」

 しかし、ハヅキは返事をしなかった。目の前の光景に意識を奪われていた。

「なに、これ」

 ハヅキの目の前には、広大な空間が広がっていた。水路の壁をくり抜かれたその場所は町の半分はあろうかという広さ。床には血が染みついていた。

「どうしたってのよ」パトリは眉をしかめる。「なにかあるの?」

 ハヅキと同じ方向を見ながら、彼女は開けた場所に驚かない。

「ここ、アジトじゃない?」

「はあ? ただの壁じゃない」そう言ってパトリはなにもない場所に触れる。さながらパントマイム。彼女にはそこに壁が見えているようだった。

「おいおい、まさか」ジルが言った。「ヘクセの秘術か?」

 人体に作用するヘクセの秘術。なかには視覚に訴えかけ、幻覚を見せるものもあるという。

「なんで、ハヅキには効いてないのよ。その術」

「わからんが、耐性ががあるんじゃねーのか?」

「つまりこの壁は幻覚なのね」

 じゃあ行くわよ、とパトリが壁を押した瞬間、ハヅキは人の気配を感じて振り返った。背後にいたジルが首をかしげる。そのさらに後ろ。丁字路の左折した先に一人の少年がいた。

(どこかで見たような……?)

 ハヅキがジルとパトリを見るも、ふたりとも彼に気づいたようすはない。少年は左手で空を撫でた。そのとき、彼の紅い瞳が暗闇で光る。

(なにか、やばい!)

 ハヅキはパトリを振り返りざまに抱きしめ、ともに水路に飛び込んだ。水に沈んだ直後、頭上では石がぶつかりあう鈍い音が響いた。

「ぷはぁっ! なに?」

 水上に顔を出したパトリは髪をかきあげ、顔の水を払った。そして、頭上のせり出した石壁を見てギョッとする。一瞬遅ければ、飛び出した岩と壁に体を押し潰されていた、と悟ったのだろう。

「ジル! 後ろにヘクセ!」ハヅキが叫ぶと、ジルは確認もせずに飛び出した。

「どこだ!」彼は地面に踵落としを決め、ようやく訊いた。

「ここだよ」少年が言い、指を鳴らした。ジルが身構える。秘術が解かれ、姿が見えたのだろう。

「ジル? 随分でかくなったなァ、おい」

「てめえ、まさか」とジル。「ジェイ、か?」

「知り合い?」

 ハヅキは聞きながら、足場に手をつく。陸に上がるには隙を見せねばならない。しかし、水中に居続けることもできない。なにせ、足がつかない。立ち泳ぎにも限界がある。

「ヘクセプトの一員、だろ?」

「もちろん」

 ジェイはジルの問いに笑って答える。ヘクセ族のみで構成された犯罪集団、ヘクセプト。自分と同じ年代の子供までもが組みしているのか、とハヅキは驚いた。

「見た目はあてにならんぜ」ジルはハヅキたちをかばうようにジリジリと動く。「どうせ、五〇超えたジジイとかなんだろ?」

「そんなにはいってないさ」とジェイはまたも手を動かす。ジルの真横にある石がグラグラと揺れる。

「危ない!」

 ハヅキが叫んだ瞬間、水路の壁がそこにいる人すべてを押し潰さんばかりに飛び出し、彼に迫った。しかし、壁は音もなく止まる。術が解かれたわけではない。揺れは収まっておらず、何かに阻まれているように、止まりながらも力をかけていた。

「純粋な魔術じゃないわね、これ」

 パトリが言い、水面に手をついた。彼女は水を押し、体を引き抜く。水は固まったように彼女の手を沈ませない。パトリは体を一回転させ、水面に降り立った。

「ほら」

 ハヅキをも引き上げ、水の上に立たせる。

「エルフが魔術使っていいのかよ」

 パトリは答えず、壁を押しかえす。かろうじて見えたのは、埃を舞いあげる風。風属性の防御魔術だった。

「どこまで保つかねえ」

 ジェイが手を動かすと、反対の壁もせり出し、三人を押しつぶそうとする。床がせり上がって水が干上がる。もう水中には逃げられない。

「くっ」

 パトリは両サイドから迫る壁を阻むものの、そこに力を使っているのか、逃げることも反撃もしなかった。

「潰れるのを待つと思うか?」

 暗い色の霧がジェイを包む。秘術を使うつもりだ。

「させっかよ!」

 ジルが彼を殴るも、空振り。ジルは辺りを見回す。姿を見失った。

 しかし、ハヅキは見失わなかった。彼はニヤつきながら緩やかな歩みでパトリに近づいてくる。見つめるハヅキの視線に気づくこともなく、腰に下げていた短刀を引き抜いた。パトリは険しい表情であたりに視線を走らせ、ジェイを探している。彼はすぐそばにいるのに。その様子が滑稽に思えたのか、ジェイは口を押さえて小さく笑った。

 ――今だ。

 ハヅキは腰に下げた剣を鞘に収めたまま、ジェイに叩きつけるように振るった。

「!」ジェイが飛び退り、ハヅキを睨んだ。「なんだぁ、おまえ」

「そこか!」

 ジルが裏拳をかます。かわしたジェイは彼女たちから遠ざかるように、身を翻して広大な空間に逃げ込んだ。彼は相変わらずハヅキを睨み続けていた。なにか、品定めでもするかのように。

「来いよ。そんな狭いところじゃあ戦えないだろ」

 彼はそう言い、術を解いた。壁の幻覚は消え、せり出す石塊は動きを止める。

「罠だ。入れば思うつぼだぜ」

 ジルがハヅキとパトリの進行を妨げるように手をかざす。

「だったらなに?」パトリはジルを押しのけ、敵のアジトに足を踏み入れた。「ココにひどいことしたやつを許せると思う? ――否、否、否!」

 パトリは大きく息を吸い、

「全員ぶっ殺すに決まってンでしょうがッ!」

 パトリの叫びとともに、拓けた地下空間を埋め尽くすほど大きな魔方陣が浮かび上がった。赤い輝きで部屋を満たした魔術の源は目を潰さんとする勢いで発光する。

「火の上級魔術(イグニス)・火炎(イグニス)!」

 パトリが唱えると、魔方陣から火柱が立ち上がった。部屋にあるものを無差別に燃やし尽くす炎。

「熱っ!」

 ハヅキは飛び散る火花から肌を守るため、両腕で顔をかばった。火柱が部屋の空気を消費する速度は凄まじく、失われた分を補填するように水路内の空気が一気に押し寄せ、部屋の中に上昇気流を生み出した。

「やめろパトリ! 地下道が崩れんぞ!」

「知らないわよンなこと!」

 アジトの外にいても感じられる熱が、息を吸うたびに喉を焼くようだった。このままでは呼吸器系がやられて窒息するかもしれない。

 ――息が。

 ハヅキの体がよろけたとき、突如として火柱が消失した。煤が焦げ付いた部屋の中心には、依然としてジェイが平気な顔で立っている。

「嘘でしょ」

 パトリが言った。魔術にそれほど自信があったのだろう。目を見開く彼女は現実を受け止められないというように首を振った。

「ヘクセにはそれぞれ固有の秘術ってやつがあってな」ジェイが静かに言った。「血統ごとにそれは違うんだが」

 彼の場合。

「魔術を無効化できるんだよ。どうやら、魔術開発者の血筋らしくてね」

 自分で作ったもんに殺されてたら世話ねえからな、と彼は笑った。

「どうする? ハーフエルフ」

「魔術だけだと思う?」

「いや」臨戦態勢だったパトリを止めたのはジルだった。「俺がやる。こいつには因縁があるんでね」

「ちょっと。わたしはやれるわ」

「ココの救助が最優先だろ。こんなやつに構ってる場合か?」

 パトリは息を詰まらせ、やがて溜息を吐いた。

「行くわよ、ハヅキ」

「行かせると思うか?」

「俺のセリフだぜ!」

 ジルがパトリの前に立ちふさがったジェイに殴りかかった。その隙に、二人はアジトの奥に駆けていく。

「無茶しないでよ!」

 ハヅキは走りながらジルに言った。

「おう!」

 振り返らずに答えたジルの背中から目を離し、ハヅキはパトリを追う。

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