第一章第七話
牧場を南下するとその先は歴史的建造物が立ち並ぶ区域にたどり着くはずだった。
(懐かしい)
自分たちがクラス土地の歴史を調べよう、とハヅキが小等部の授業で見に行ったことがあった。
石積みの遺跡が森の中に隠れるように建っており、周囲には黄色と黒のロープが張られていた。学者をはじめとする、国から許可を得たものしか立ち居ることは許されなかったのだ。
当時のハヅキは、より深く知りたい、と郷土史の勉強に励むつもりでいたが、実際に高等部に進学してから選択したのは極東史だった。地元のこと以上に、自分の出自が気になりはじめた時期だったからだろう。
そんな見覚えのある道をしばらく走っていると、ココと羊が見つかった。互いに身を寄せ合って、身動きが取れずにいる。その原因。彼女たちの目の前には、巨大な白い虎が一頭立ちはだかっていた。ハヅキはその虎に見覚えがあった。
(討伐に失敗したやつだ!)
これからどうする? ハヅキは考えた。ここは風下。虎はまだハヅキに気づいていない。ジルはどこ? 私じゃあ勝てない。パトリを呼びに行く? ダメ、間に合わない。虎は涎を垂らしていて、なにかの弾みにココを襲ってしまいそうだった。
(なんとかしなくっちゃ)
そう思ったハヅキが一歩踏み出した瞬間、顔の傷に痛みが走った。嫌な記憶が蘇る。
剣や弓の腕に覚えがある者、森や山での活動に長けた狩人、魔法が使えるエルフなどが参加していた虎の討伐部隊。そこにただひとりド素人のハヅキ。
(なんで、いつもこんな任務を任されるんだろう)
討伐系の任務ではいつも躊躇いが生まれ、ヘマをする。素人だから、先代団長の孫だから、とメンバーは咎めることはなかったが、彼らがハヅキとともに行動することを快く思っていないことは彼女もわかっていた。
それでも、嫌な空気が伝播してしまわぬよう、ハヅキは剣の柄を握って配置についた。ハヅキが守るその道は池に通ずるもので、虎が逃げ場にするとは考えにくい、というメンバーの判断だった。
(あからさまに邪魔者扱いされてる。けど)
その日はいつもツーマンセルを組み、守ってくれるアルミラがいない。
(気を引き締めないと)
ハヅキは剣を正面に構える。虎の咆哮。遠くにいても聞こえてくる。そこを動くな、と言われ、ハヅキはひとりぽつんと佇んでいた。しかし、そこに草木を掻き分けて飛び出してくる虎。
「行ったぞ! 囲め!」
メンバーの声がした。ハヅキは身を固くし、切っ先を虎に向ける。がさがさと揺れる植物。包囲は完了している。ハヅキは何もしなくていい。はずだった。しかし、虎は辺りを見回し、
(目があった)
その瞬間、虎はハヅキが唯一突破可能な穴と判断したのか、剣を物ともぜずに突っ込んできた!
「……っ」
ハヅキは恐怖から剣を立ててしまい、切っ先が虎から逸れる。虎の一閃。剣が弾かれ、尻餅をつく。虎は低く喉を鳴らし、ゆっくりとハヅキに跨るように覆いかぶさった。涎がぼたぼたと見上げるハヅキの顔に落ちてくる。ハヅキが両腕で顔をガードしようとしたとき、虎はその腕を叩き落とすように前足を振るった。強靭な力の前に意味を成さない腕。ガードごと、そのうちにあった顔に鋭利な爪が当たる。
「っぁあ!」
視界が赤に染まる。虎はハヅキを逃がさぬよう、傷ついた顔を踏みつけにして押さえ込む。硬くザラッとしながらも弾力があり、妙なぬくもりを帯びた肉球で踏みにじられるたびに傷口の端がミチミチとすこしずつ切れて傷口を大きくしていった。切られたときよりも、むしろそうやって健全な組織が千切れていったときのほうが痛みは大きかったように思う。それはもう耐えがたく、意識が飛んでしまうことを願ってしまうほどに。
それが、恐怖から忘れていた怪我の一部始終であった。虎は噛みつく寸前に矢で射られ、獲物を置いて逃走したという。
ハヅキの足が震えた。開いた口が歯を打ち合わせてガチガチと音を鳴らし、体は身を守るように縮こまって筋肉が硬くなる。
(どうしよう、どうしよう)
虎が低く吠えた。ココが羊にしがみつく力を強めるのが見えた。
あのときの私と同じだ。恐怖で動けないんだ。なんとかしなくっちゃあ。
ハヅキは、もうこれ以上だれかに失望されたくなかった。役立たず、と居場所を追われたくなかった。ココに、自分と同じ目にあって欲しくなかった。
――だって、パトリは言ったんだ。Fクラスは家族なんだって。
(考えろ、私。なんとかして、ココから注意を逸らさないと)
右目の傷が疼いた。これは幻痛。傷は縫合され、虎がつけた怪我はもうまもなく治るのだ。そう、治る。いつまでも同じ恐怖に囚われているわけにはいかない。克服するんだ。
そう思い、ハヅキは深呼吸してから息を止めた。
そして、自らの手で顔面を思い切り殴りつけた。
熱い痛みが走り、ぬらりと包帯が湿り気を帯びる。傷口が開いた。思わず漏れ出そうになる叫びを飲み込み、その代わりに詠唱する。
「風の初級魔術(ヴァン)・操作(マニヒ)!」
ハヅキが唱えると、今まで彼女に吹きつけていた風が方向を変え、虎のほうに向かう。虎が面を上げてハヅキを見た。風が運んだものは、彼女の血の匂い。
(やっぱり。私の血の匂いを覚えてたんだ)
虎が体勢を変え、力を蓄え始める。
(どう? 逃がした魚は大きかった? 私って美味しそう? いま、猛烈に食べたくなったよね)
「GYAOOO!」
虎がココを飛び越え、まっすぐハヅキに向かって突進してきた。大口を開け、涎を撒き散らす。ここからどうする? ハヅキは風が吹く範囲を出来うる限り狭め、勢いを強くした。地面の砂をつかみ、風に乗るよう巻き上げる。狙うは虎の目。
「GYAA!」
虎が目を背け、顔を振って立ち止まる。
「ココ、アンゴラ羊呼んで!」ハヅキが叫ぶ。
「近くにジルといるはずなの!」
ハッとしたココは取り落としそうになりながら、首に下げた笛をくわえて音を出す。羊を呼び寄せた時と同じ、遠くまで響き渡る音。威嚇の声。草木が掻き分け、落ちた小枝を踏み折る小気味良い足音。
「ゴルァッ!」
木々の間から飛び出したアンゴラ羊は虎の横っ腹に体当たりをブチかました。
「なんだってんだよ、こいつぁ」
ジルはアンゴラ羊の背に乗ったまま、虎を見下ろしていた。いつ結んだのか、彼はアンゴラ羊の角に紐をつけ、それを手綱として羊を乗りこなしていた。
「よかった。来てくれて」
ハヅキが言うと、ジルは初めて気づいたように彼女を見た。
「大丈夫かよ」
ジルがアンゴラ羊の背中から飛び降りる。
「血ぃ出てんじゃねえか!」
「大丈夫だよ。自分でやったの」
「はあ?」
「アァンッ!」
巨虎はふらつきながらも立ち上がり、唸り声をあげていた。蓄えた毛を刈ったアンゴラ羊は軽快さと引き換えに、一撃で仕留める重さを失っていた。虎は草食動物の下克上に対して憤っているのか、眉間にしわを寄せて羊を睨む。
「走れるか?」ジルが言った。
「こいつに打撃は効かねえ。パトリ呼んでこい」
「でも、ひとりで平気なの?」
「守りに徹すりゃあ、なんとかなるだろ」
そう言ってにやっと笑うジルの瞳は闘争心に燃えていて、自分が仕留めると雄弁に語っていた。守りに入る気がまるでない。Cクラスが集団で仕留められなかった相手だ。一人では勝てるはずもない。
(急がないとみんなやられちゃう!)
ハヅキは踵を返し、牧場に向けて走り出した。そのとき、彼女とすれ違う黒い影、一筋の白。ハヅキが振り返ったとき、その影は虎に肉薄したかと思うと、飛び越えるように背後へ。着地の砂埃が舞うのと同時に、虎の首から夥しい量の血が噴き出し路傍の草木を赤く染めた。
崩れ落ちる虎。必死に前足を踏ん張っていたが、体の重さに耐えられない。影の人物は虎の耳をつかんで頭を持ち上げ、とどめを刺すのか、短刀を喉にあてがった。その青白い横顔は、ハヅキにとって見慣れたものだった。
「アルミラ、さん?」
真っ直ぐに伸びた黒い髪は、いまだ吹くハヅキの風にたなびいている。病的に白い顔色を隠すオフホワイトのマフラーは春真っ盛りであってもいまだ健在。細められた紅い瞳がハヅキを捉えた瞬間、カッと見開かれた。
「ハヅキ、それ」
アルミラは虎を打ち捨て、まっすぐハヅキのもとに駆け寄ってきた。
「どうしたの」
彼女の手がハヅキの傷に触れようと迫ってくる。ハヅキは、このまま触られたら痛いだろうな、と思いながら避けもせずにぼうっと突っ立っていた。
その近づく手を掴んで止める者がいた。ジルだった。
「なんだ、この手はよ」
ジルがアルミラの腕をひねり上げるようにぐいと持ち上げる。
「血でも舐めたくなったかい」
アルミラは腕を捕まれたまま、ジルを品定めするように冷めた目で睨めつける。ジルはその視線を不愉快そうに受け止め、空いていた拳を握った。羊とともにそばまで来たココが彼の腕にしがみつき、その拳が振るわれないように押さえつける。
「大丈夫だよ、ジル」
ハヅキが割って入る。
「Cクラスのとき、よくツーマンセル組んでた子なの。友達」
ふん、とアルミラは鼻を鳴らし、ジルの腕を振り払った。そして、ココとともにいた羊がくわえていたものをもぎ取る。それはキーホルダー。
「それって」
アルミラはハヅキが何か言う前にそのキーホルダーをしまう。ココが取り返そうと手を伸ばすと、彼女はその手を睨んで威圧する。ココは身をすくめ、ジルの後ろに隠れてしまった。
「これはAクラス案件。あなたたちFが知る必要はない」
「案件なんざどうでもいい」ジルが言った。
「ココのもんだろ。返しな」
「GYAOOO!」
二人がにらみ合いを続けていると、虎が悲鳴にも似た叫び声をあげ、起き上がった。全員が身構えると、虎は牧場とは反対の、道の奥へと血を撒き散らしながら駆けていった。
「チッ」
アルミラは舌打ちし、一度だけハヅキを振り返ってから虎を追っていた。
「あっ」
ハヅキは彼女を引き留めようと手を伸ばすが、それも届かない。すぐに見えなくなってしまった背中をいつまでも見ていた。
(お礼、言い損ねちゃった)
羊が弱々しく鳴いた。ココが不満げにジルを見上げている。
「そんな顔すんなって」とジル。
「ほら。ハヅキの手当もせにゃならんし」
一旦戻るぞ、とジルはココを持ち上げ、彼女をアンゴラ羊の背中に乗せた。
「お前も乗るか?」
ジルが言うと、ココが警戒するようにハヅキを見下ろしていた。しかし、彼女はハヅキが乗るスペースを開けるように、座る位置をずらした。
(これってもしかして、一歩前進?)
ハヅキはココの行動が、すこしだけ心を開いてくれた合図だと思って嬉しくなった。
「じゃあ、お願いしようかな」
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