第一章第四話
「見えてきたぞ」
ジルが指さす先に見えたのは牧場だった。
(懐かしい)
ハヅキは幼少期に一度訪れたことがあった。その時のことを思い出す。
(学校の課外授業で、羊の毛刈り体験したんだっけ)
そのときも季節は今時分と同じころで春だった。奥に見える山の頂にはうっすらと溶け残った雪が見えているのに対し、牧場付近の木々は青々とした葉をつけている。地面には葉っぱと同じく色づいた草が生えていたが、場所によっては禿げて地面がむき出しの場所もある。しかし、概ねどこもくるぶしを隠す程度の長さで生え揃っていた。
そこにいた羊たちは思い思いの草を食んでいた。白い柵の根元に生えた一輪の黄色い野花を容赦なく食べてしまう羊も。ココはジルの肩から降り、羊たちのほうに走っていく。
「あ、こら。待ちなさい」とパトリが言ったときだった。
「ゴルァッ!」
地を揺らすような怒声。ビリビリと肌が震える音圧にハヅキですら耳をふさいでしまう。聴力の優れたココはなおさらだろう。彼女は耳を押さえて地面に蹲っていた。
ザザザッと風を切りながら草木を倒し、彼女たちに突進してきたのは羊だった。体長三メートルはあろうかという巨体。毛量が多く、丸々と太った体で体当たりをかましてくる。
「ヨッシャ来い!」
ジルはそのタックルを受け止め、相手の角を掴んで押し返す。しかし、体格差か、ジルの足元はえぐれていき、踏ん張りも虚しくすこしずつ後退していった。
ココがピッピッピと笛で三三七拍子を奏でてジルを応援する。
「なにこれ。モンスター?」
「アンゴラ羊」とパトリが言った。
「南方の固有種で、高級品なのよ」
凶暴だけど、と彼女は笑いながらジルの活躍を見ていた。
「一本一本の毛が細長くて、保温性が高いの。一頭から取れる量がカシミヤより断然多いから、なんちゃってカシミヤなんて言われることもあるけど、品質では負けてないんだから」
パトリはまるで自分が育てたかのように、その羊毛の品質を褒めそやしていた。
「アンゴラっていうのは、原産国かなにか?」
「ああ、鳴き声よ。アァンッとかゴルァッとか、メンチ切るヤンキーみたいな声出すのよ」
へえ、と言いながらハヅキはその豆知識よりも、愛らしい容姿や声で羊を真似るパトリに意識が持っていかれ、思わず笑ってしまいそうになるのを堪えていた。
「こりゃあっ」大声を出しながら、牧場から走ってくる老人が一人。「勝手に逃げよってからに、こやつは」
「ごきげんよう、おじさま」とパトリ。
「ああ、あんたらかい。怪我ぁしとらんか?」
「ええ、おかげさまで」とパトリは取っ組み合いを続けるジルに目をやる。
「丈夫さが取り柄ですので」
ならよかったわい、と頷く牧場主。
「ご依頼は今年もアンゴラ羊たちの毛刈りですか?」
「ああ」と老人は言ったあと、しばらく思案するように黙った。
「いや、普通の羊たちも頼んで構わんかのお」
「ええ、もちろん」とパトリが言った。
「けれど、いつもはご家族だけでやっていらっしゃるのでしょう?」
「ああ、いや、今年は人手不足でね」
「あら。奥様、どこか悪くされたんですか?」
「いや、恥ずかしい話なんだがね。昨日娘とくだらんことで喧嘩しちまって。家出したまま帰ってこんのだよ」
心配ですね、とパトリは頬に手を添え首をかしげる。
「腹ぁ減ったら帰ってくるじゃろう。それより、今日は頼んだよ」
「ええ、まあ」パトリは釈然としないようすで戻り行く老人の背中を見つめた。
「帰ってこない家出……」とハヅキが呟いた。
(最近、団長たちがかかりきりになってる事件に似てる)
「さ。アンゴラ羊は数も多くないし、全部ジルに任せましょう」とパトリが言った。
「わたしたちは普通の羊担当。ハヅキは毛刈り、やったことある?」
「小学生のとき、体験学習でやったくらいかな」
「上等よ。見ながら思い出していってね」
(まあ、考え過ぎだよね)
ハヅキは一人頷き、先に行くパトリとココの後を追った。
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