プロローグ第3話

 アルミラは気配を殺し、夜の街を歩いていた。すれ違う人の姿はちらほらあるものの、あまり多くはない。彼女は背後を確かめた。

 ――ボスは追ってこない。

 アルミラは安堵のため息をついた。

(ボスを、ヘクセプトを裏切ってしまった)

アルミラはぼんやりと考えていた。

(これからどうすればいいのだろう。きっと、ギルドにも戻れない)

 いまのうちに街から出て行くしかない。それもいいとしながら、彼女はひとつだけ惜しんでいることがあった。

(最後に、ハヅキと話がしたかった)

 そのとき、大通りからやってくるハヅキが見えた。どこかで遊んでいたのだろう。帰宅予定時間よりすこし遅れていたことを気にしているのか、小走りであった。

 アルミラはヘクセの秘術を解かず、道の脇に寄った。

(ハヅキは私に気づかない)

 自分がこの街からいなくなったところで、彼女の生活は変わらないだろう。それは寂しいことであった。しかし、

 ――私は人殺しだから。

 そう思うことで、諦めようとした。今までが幸福過ぎたのだ。

(ありがとう、ハヅキ)

 ハヅキがアルミラの目の前を通り過ぎていく。ヘクセの秘術が発動している今、どんな人間であっても彼女を感知することはできない。一般人のハヅキならなおさらだ。

(待って――!)

 アルミラはハヅキを引き留めたい衝動に駆られた。離れていく背中。揺れているのは肩にかからない程度に切り揃えられた濃茶色の髪。丸みを帯びた柔らかな瞳。

(もう一度だけ私を見上げて)

 それだけのことで、彼女の笑顔を守ることができたのだ、と胸に誇りを抱いて生きていける気がした。

「あれ?」

とハヅキがふいに立ち止まり、振り返った。

「アルミラさん?」

 アルミラはなにも答えられなかった。ただ、自分の手を見て確かめる。

(秘術は解けてない)

 あたりを確かめても、すれ違う人はアルミラに気づいたようすもない。

「こんばんは」

ハヅキがアルミラのもとに来る。

「今帰り?」

 アルミラは小さく頷いた。秘術を破られた動揺から立ち直れない。いままでこんなことはなかったのに。術が乱れてしまうほど、自分がハヅキを渇望していたのだろうか。アルミラは体温の上昇を感じ、頬に差した朱色を見せまいとマフラーをあげて顔を半分隠した。

「そろそろマフラーは暑くない?」

「もう遅いから、早く帰ったほうがいい」

アルミラはそんなことが言いたいわけではないのに、とひとり焦りを覚えていた。

「大丈夫だよ。おじいさまもアルミラさんと一緒だったって言えば許してくれるし」

 だからもう少しだけお話しよ、と小首をかしげるハヅキ。今夜はマーロウの暗殺とギルド襲撃作戦の決行前夜。街に潜んでいるヘクセプトのメンバーといつ鉢合わせるかもわからないそんな状況で、悠長にしていることはできない。

(早く、団長のもとに帰すべきだ)

 そうして、今後の身の振り方について話し合ってもらわないと、今日彼女の家に行った意味がない。だというのに、アルミラはそう言うこともできず、ハヅキの他愛ない話に耳を傾けていた。

(なんて、耳に心地よい――)

 自分では決して体験することはできない日常。命のやり取りも、醜い人間の本性を垣間見ることもなければ教訓も学びもない、まさになんでもない話。それを聞くのが好きだった。

「――ッ!」

 突如、鼻を刺すような臭い、屍人の腐臭じみた気配を感じ、身を強張らせた。あたりを確かめるが、まだなにも見えない。

「?」

 ハヅキはなにもわかっていないようだった。嗅覚を刺激したのは幻臭。死を身近に感じたことのある者でなければ理解できない、化け物じみた重圧。カミラのものだった。

(いまさら追ってきた?)

 ともかく、ハヅキを見られるのはまずい。アルミラはハヅキの手を握り、自分の身に引き寄せて強く抱きしめた。

「アルミラさん? あの」

 ハヅキはアルミラの肩に口をうずめ、喋りづらそうにしながら彼女を見上げていた。

 ――少し痛いかもしれないけれど。

 アルミラはハヅキの後頭部を鷲掴みにし、自分の肩にハヅキの顔をいっそう押しつけつつさらに腰を抱き、できうる限り身を寄せ合った。

 ハヅキが身震いした。それは、彼女たちを包む冷たい霧が原因。全身を覆われて息苦しい閉塞感があり、それが頂点に達すると拘束が緩んで肌に湿り気が残る。アルミラが秘術にハヅキを巻き込んだのだった。数少ない通行人は、二人の少女が抱き合うという桃色じみた気恥ずかしい光景に目もくれない。ハヅキが何かを言おうとするたび、アルミラは抱く力を強めて彼女を黙らせた。ちらと周りを窺う。

 餓えた獣が獲物を探すようなギラギラとした瞳で、執拗に辺りを睨みつけながら歩いている。

 ――ボスだ。

 アルミラはカミラを観察する。彼女はなぜか片足だけ靴下を履いていない。額に張りついた髪は激しい運動を物語っている。嫌な予感がした。アルミラはハヅキを隠すように抱きなおし、術の精度を高めるように心を落ち着けた。そのおかげか、カミラは二人に気づくこともなく目の前を通過していく。アルミラはそれでも油断することなく、彼女の匂いが届かなくなるまで抱く腕の力を緩めなかった。

「んむっ」

 息苦しさからか、ハヅキの身動ぎが大きくなった。もう大丈夫だろう、と判断したアルミラは腕の拘束と術を解いた。

「どうしたの、急に」

 ハヅキは突然のことを咎めもせず、小首をかしげて微笑んだ。アルミラの口下手を知っているからこそ、彼女が意味もなくそんなことをするはずがない、と信じているのだろう。

「大丈夫だよ」

と今度はハヅキからアルミラを優しく抱き、あやすように背中を数度叩いた。彼女がなにか誤解しているらしい、と思ったアルミラは先ほどの緊張感との落差に自然と頬を綻ばせた。

「なんでもない」

 アルミラは答え、もうすこしだけ、と甘えるようにハヅキの抱擁に応じた。ちょうど鼻先にくるハヅキの頭部に顔をうずめ、息を大きく吸い込む。

「お勤めごくろーさま」

 アルミラが聞き覚えのある幼い声に顔をあげると、ハヅキの後ろにカミラが立っていた。ハヅキを抱いたまま、アルミラは飛び退ろうとしたが、カミラのほうが早かった。彼女はハヅキの首に腕を回して裸絞めを極め、アルミラからハヅキを奪い取った。

「あ……っ」

 カミラの背丈が低いために背を弓なりにしならせるハヅキは声を出すこともできず、抵抗するように絞めつける腕をつかむ。しかし、その弱々しい力ではなにも意味を成さない。

 アルミラは一瞬自分の腰に手をやるが、小刀は先の闘いで折られていることを思い出し、徒手でカミラに挑んだ。カミラは突き出された腕を軽くかわし、アルミラを白けたような目で見た。

「なんのつもり?」

 アルミラは一瞬手を引っ込めたが、カミラに怯んだ自分を恥じ、即座に臨戦態勢を取った。

「その人を離して」

「この子、処女?」

 カミラはハヅキの頸椎を押さえていた左手を解き、彼女のスカートをめくって下着の中に手を突っ込んで股間を弄った。

「やっ、やめて」

 カミラはアルミラのことばに手を止めた。もし、と前置きする。

「あんたが自分の手でこの子を殺すっていうのなら、今夜の失態は見逃してあげる」

 ついでに、とカミラが微笑んだ。

「内気(オド)も吸っていいわよ。本当はアタシが欲しいんだけれどね。特別。あんたの体内をこの子が駆け巡るのよ」

「そんなのは、いらない」

 水音。零れ落ちた雫が石畳で跳ねてぴちゃぴちゃと音をたてた。意識を失ったハヅキの失禁。黄色い水溜まりはじょじょに範囲を広げ、カミラの靴を浸していく。カミラは舌打ちして尿で濡れた手をハヅキの下着から引っこ抜き、付着した滴を振り払った。

「何で今夜はこう、いつになく汚れるのかしら」

「そこまでだ!」

鋭い声とともに半長靴の重たい足音を鳴らし、険しい表情の若い男が駆けつけてきた。「貴様、お嬢さんになにをしている」

 彼は青い開襟ジャケットの制服を身にまとっていた。肩についた階級章は彼が副団長である証。

「ずいぶんとくるのが早いのね。もうすこしのんびりしていてほしかったんだけど」

「団長の家から争いの音が聞こえると通報があった以上、急ぐのは当然だ」

副団長は剣に手をかけ、腰を落として抜剣の構えを取る。

「まさかヘクセプトのボスがお出ましとは思わなかったがね」

 副団長が視線だけ動かして辺りを窺う。

「気をつけたまえ、アルミラ君。彼女は常に姉妹で動いている。どこかにもうひとりが潜んでいるぞ」

 アルミラは眉をひそめた。

 ――ボスに姉妹がいるなんて、聞いたことない。

 彼女も警戒するように、神経を研ぎ澄ませて辺りを気にした。

「悠長なうえに無知ね」

カミラは可笑しそうに笑い、ナイフを取り出してハヅキの喉にあてた。

「あのジジイがいまどんな状態か、この子で再現してあげましょうか」

 にじりと副団長が半歩距離を詰めようとすると、それを見逃さないカミラがナイフをより強くハヅキの喉にあて、皮膚をゆがませた。少しでも刃を引けば、血を見ることになりそうだった。

「下がりなさいな」

 言われ、アルミラと副団長は後退る。

「なにが目的だ」

「言うと思う?」

「大方、昨年の報復だろう」

 さあね、とカミラは肩をすくめた。

 ――当たりだ。

 アルミラは内心で頷いた。この地域を拠点としていたヘクセプトは、昨年ギルドによる殲滅作戦によって大きく数を減らした。同胞に関心のないカミラをして、復讐を誓うほど見事な手際で実行された昨年からまだ半年。彼女が少ない人数でも襲撃を成功させるよう綿密に計画を練っていたことをアルミラは知っている。自身が、その作戦の要だったのだから。

「貴様如きの技量で、団長に敵うはずもない。諦めたらどうだ」

「あら、アタシたちの十八番を知らないわけじゃないでしょう?」

「十八番、か」

 副団長は嘲笑にも似た笑みを浮かべ、構えを解いた。カミラが訝しむように眉根を寄せ、団長を睨んだ。

「なによ」

「いや、気配を消すなどというものはなにも、ヘクセ族だけの専売特許ではないと知っておいたほうがいい」

「あ?」

 カミラが苛立たし気に口元を歪めた瞬間、ナイフを持っていた彼女の左手首が吹き飛んだ。左手は中に残っていた血液を放物線上にまき散らしながら飛翔し、地面に激突して二度跳ねてから動きを止めた。

「は?」

 カミラはなくなった手首から零れ落ちる血を眺めながら首をかしげている。

 キン、と鍔鳴りの音。足音もなく通り過ぎる影は猫。カミラたちに背を向けて立っていた長身の女性は刃渡り三尺はあろうかという打刀を鞘に納めた。彼女は頭に生えた猫耳をぴくりと動かし、ゆっくりと振り返る。副団長と同じ制服を身にまとった彼女は猫系の獣人族(レムレース)。そのしなやかでありながら力強さを窺わせる体つきは黒豹そのもの。夜の闇よりさらに暗い艶やかな黒髪がいっそうそれを思わせる。

 ――猫侍。

 アルミラは副団長補佐である彼女の名を知らなかった。ただその様相から皆がつけた綽名が猫侍であり、アルミラも便宜的にその呼称を使っていた。

「アタシが」

カミラが声を震わせ、涙し始める。

「なにしたって言うのよオオオォッ!」

 彼女はハヅキを打ち捨て、大口を開けて牙を剥き出しにし、猫侍に噛みつき肉を引き裂こうと獣の如く飛びかかる。

「クッ」

猫侍は表情を歪め、カミラをかわしざまに刀に手をかけた。崩れた体勢からの抜刀術。それでも刀は刃の煌めきを見せた瞬間にはもう鍔鳴りの音を響かせていた。

(抜いた瞬間が見えない……!)

 アルミラが見たのは、地面に落ちるカミラの首だった。猫侍とすれ違ったそのときにはもう体が崩れ落ち、膝をついた衝撃で頭と胴が分離した。倒れて痙攣するカミラの体。遠くに転がっていく頭部。猫侍は乱れた呼吸を整え、申し訳なさそうに俯いていた。

「とっさのことで、つい。申し訳ございません」

「いや、生捕りが望ましかったのは確かだが」

副団長は頭を振った。

「仕方がないさ」

「ハヅキ」

アルミラは倒れているハヅキを抱き起し、呼吸や脈を確かめた。

 ――生きてる。

 喉の奥からこみあげてくる喜びを一瞬押しとどめたが、アルミラはそれを安堵のため息として吐き出し、ハヅキを強く抱いて彼女に頭をこすりつけた。そのとき、指先に水気を感じた。

(温かい?)

 アルミラが見たのは、自分の指先に付着したハヅキの尿。

 アルミラは動悸を感じた。顔が熱くなり、指先から目が離せない。震える自分の手が少しずつ顔に向かってくる。自分の体であるはずなのに、意識とは無関係に動いている。

(尿も、もともとは血だ)

つまり。

(内気が、含まれている)

「副団長!」

猫侍が声を上げた。その声にハッとしたアルミラは慌てて手を拭き、副団長たちのほうを見た。

「死体が」

 三人が地面を見ると、先ほどまであったカミラの体がなくなっていた。滴り落ちていた血液は数歩先まで続いていたが、それも途中で消えて痕跡も残していなかった。

「あの状態でなお生きているのか、奴は」


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