法廷の綾

 地方裁判所のロビーで調所がじりじりしながら仮処分決定が出るのを待っていた。隣に座っている逢坂小百合は涼しい顔だった。裁判官室から先に出てきたのは太陽環境の鷺沼弁護士だった。五十代の小柄な男で人目をはばかるように山高帽を目深にかぶっている。調所と逢坂の姿が目に入っていたに違いないのに二人には目もくれずにロビーを通り過ぎていった。続いて昇山の宝月弁護士が現れた。恰幅のいい長身の紳士だった。宝塚の渋い表情を見ただけで結果が芳しくないことが察せられた。

 「先生どうでった」調所が不安そうに尋ねた。

 「申し訳ない。決定は出ませんでした」

 「どうしてでっか。うちの営業権は認めてくれはったんやないんでっか」

 「営業権譲渡契約書には処分場の容量を九十五万立方メートルと記載してあったでしょう」

 「確かにそうです」

 「ところがですね、太陽環境の許可証には九十七万立方メートルと書かれているんですよ」

 「そんなもの僅かなもんやないでっか。うちの権利が九十五万あるってことは動かんでしょう」

 「ですが搬入差止めの仮処分ですからね」

 「ほな向こうの権利が二万あるから差止められんと、こういうわけでっか」

 「お見込みのとおりでして」

 「おかしいやおまへんか。もうとっくに二万くらい埋まってしまってまんがな。それは言うてくれはりましたか」

 「言いました。しかし太陽環境としてはですね、今埋まってるのは昇山が運んだ分で二万はそっくり残っているという主張でして」

 「それはでたらめでんがな。毎日ダンプが何十台入ってるか、そのために調べさせてまんがな」

 「その資料は提出しました。残念ながら採用してもらえませんでした。昇山が一方的に作った資料ではだめだということで。むしろ容量はさらに変更許可申請をすれば増やせるのだという太陽環境側の主張が認められてしまいまして」

 「そんなあほな。ほなどないすればいいのでっか先生。次の審尋はいつでっか」

 「調所さん残念ですが仮処分の審尋は今日で終わりです。棄却ということで決まりました」

 「そうでっか。決まってしもうたもんはもうええわ。で、これからどうなるんで」

 「仮処分の棄却に対しては即時抗告ができます。それとも処分場明渡しの訴訟を起こすかです」

 「見込みとしてはどうなんでっか」

 「五十億円を即金で返してもらうか、それとも処分場を明け渡すかという争いをすれば勝訴率は高いと思われます」

 「先生がそないおっしゃるなら訴訟でいきまっか」

 「それがいいと思いますね」

 「わかりました。ほな、先生にお任せしましょう。なにかうまいものでも食いますか」

 「いえ私は次があるので。訴状ができましたらご連絡します」宝月弁護士は背中を丸めて立ち去った。

 「あの先生どう思う。ヤメケン(元検察官)いうから信用したけど、たいしたことないなあ」調所は厳しい表情で逢坂を見た。

 「まじめないい先生だと思うわよ」

 「おまえは甘いで」

 「先生変えるの」

 「どうするかやなあ。鷺沼いう弁護士やるもんやなあ。二万リュウベで九十五万リュウベ食われるとは思わんかったで。勉強になったわ」

 「伊刈さんもそれらしいこと言ってたわ」

 「あん、なんて言ってたんや」

 「独占的営業権じゃないと負けるかもしれないって。それにね、弁護士という仕事は平均したら勝率五割の仕事なんだって言ってた。だってどっちかは必ず負けるわけだから」

 「なるほどなあ。伊刈って役人なかなか使えるで。うまいことくえわえこんどけや」

 「わかりました」

 「ほな飯食いにいこか。どこがいい」

 「六本木がいいかな」

 「ええなあ、そこがええわ」調所は機嫌を直して歩き始めた。

 仮処分という緒戦の敗退が後の訴訟にとってどれほど大きなダメージになるか調所は気でいていなかった。もしもこの時、太陽環境は昇山に売却した容量と許可容量の差分を超えて廃棄物を搬入してはならないという内容の仮処分を申請していたら決定を受けることができ、その後の訴訟も有利に進めることができただろう。調所は決定的なチャンスを逃してしまった。

 二か月後、伊刈は東京地裁530号法廷の傍聴席に座っていた。太陽環境と昇山の裁判が始まったので仕事を休んで傍聴に来たのだ。法廷では太陽環境が昇山を営業妨害で訴えた損害賠償請求事件と昇山が債務不履行で太陽環境を訴えた最終処分場明渡請求事件の併合審理が行われていた。先に提訴した太陽環境の鷺沼弁護士が原告席に、遅れて提訴した昇山の宝月弁護士が被告席に座っていた。裁判所は合議体で三人の裁判官が法衣を着て裁判官席に座っていた。中央の裁判長が訴訟を指揮し、裁判長の左手の陪席判事がパソコンを打っていた。まだ三十歳くらいの女性で、彼女がこの事件の担当判事だった。裁判長の右手の陪席判事はとくに何もしている様子がなかった。

 部外者が民事訴訟を傍聴しても訴訟の内容はほとんどわからない。準備書面を交換するだけで刑事事件のように実際に書面の内容が陳述されるわけではないので、手元に書面がないと何を主張しているのかわからない。これは裁判公開の原則に反する。しかし民事訴訟は個人のプライバシーに関わる内容を含むので、そもそも公開すべきでないという意見もある。仕事を休んでまで無意味とわかっている口頭弁論の傍聴に来たのは双方の弁護士の顔を見ておきたかったからだった。どちらの弁護士にも目立った特長はない。二人とも伊刈の顔は知らないはずなのに鷺沼はちょっと伊刈を気にしているそぶりを見せた。傍聴席の二列目に目立たないスーツ姿の逢坂小百合が座っていた。伊刈はあえて離れた場所に座り目を合わさないようにしていた。彼女も伊刈を無視していた。傍聴席の最前列に御園の倅が座っていた。入口近くの最後列にいかにもやくざ風の男が二人、姿勢を崩して座っているのが目立った。狐澤の配下と思われた。当事者の御園と調所の姿だけが見えなかった。

 双方の準備書面の陳述(といっても読み上げない)の後、裁判長からいくつか証拠の補強についての指示があった。太陽環境側には埋立済み廃棄物の数量と排出事業者別の内訳が求められた。昇山側には処分場明渡しと契約金返還のどちらを主訴にするか明らかにするように求めていた。適切な訴訟指揮だと伊刈は思った。

 背後で傍聴席のドアが開く気配がした。振り向くと安座間彌香が入室してくるところだった。豪華な毛皮のコートが目立った。安座間はすぐに伊刈に気付いてわざわざ真後ろに座った。吐息を背中に感じるような気がしてくすぐったかった。

 次回は準備期日にすると裁判長が宣言し、期日の調整をして口頭弁論は終わった。逢坂はすかさず立ち上がって退廷する裁判官に一礼し宝月弁護士を迎えた。伊刈が傍聴席を離れようとしたとき、安座間から無言でメモを渡された。外に出てから見ると「東京駅丸の内地下中央口でお待ちします」とあった。携帯番号が書き添えられていた。

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