密談
安座間が二人だけで相談したいことがあると耳打ちしてきたので、伊刈はいったん事務所に帰ったあとで犬咬ホテルのロビーで待ち合わせることにした。オフシーズンになったホテルはがらがらだった。安座間は運転手役の若い衆をロビーに残して伊刈を最上階のラウンジに誘った。
「こんな田舎でベルギーフェアをやってるのね」灯台が点滅する岬を一望にできる窓際の席に着くと安座間は愉快そうにメニューを見ながら言った。「白ビールって美味しいのよ。ヒューガルテン・ホワイトとブランシュ・ド・ブリュッセルがあるのね」
「僕はコーヒーでいいですよ」
「そうよね」安座間は肩をすくめながら自分だけブランシュ・ド・ブリュッセル(小便小僧のラベルが有名なビール)を頼んだ。
「ご相談てなんですか」
「そうだったわよねえ。いろいろあるんだけど、その前に黒田が処分場の脇に作った事務所にかかってる社名って笑えるわよ」きれいに泡立ったビールをおいしそうに飲みながら安座間はタメ口で言った。「驚かないでね。太陽環境っていうのよ」
「え」
「やっぱり笑えるしょう。でも冗談じゃないのよね。登記もちゃんとあるれっきとした会社なのよ」
「そんなことできるんですか」
「太陽環境の本店登記は都内なのよ。犬咬には処分場があるだけで登記はないわ。それで黒田はちゃっかり犬咬に太陽環境という会社を登記したのよ。営業妨害は明白だから訴訟を起こせば会社法違反だろうけど、弁護士費用もかかるしそこまでやらないでしょう」
「なるほど根津商会と一緒だ」
「あらまあ。黒田が太陽環境のすぐ隣に事務所を立てた理由わかるでしょう。社名だけじゃなく住所まで処分場と同じにしたかったのよ」
「紛らわしいですね」
「それが狙いなのよ。犬咬市の太陽環境という登記簿を見せられたらみんな信用しちゃうでしょう。それに黒田の会社の宝塚興業だって紛らわしい社名でしょう」
「西のフロントっぽいですよね」
「でしょう。ところが全然関係ないからね」
「黒田のほんとうの狙いってなんですか」
「たぶん黒田の本意じゃないわ。目ざとい男だけどそこまで一人でやる度胸はないわよ。やらせてるのは」
「サンチョーの調所ですね」
「そういうことよ。やっぱりさすがねえ」
「黒田はどっちに付いてるんですか」
「どっちって調所か狐澤かってこと」
「ええ」
「どうなのかしらねえ。あの男の魂胆はわからない。意外と大したことは考えてないのかもよ。小銭を稼げるんならどっちだっていいのよ。御園も狐澤も相手にしてくれないから調所についたのかもね。でも調所だって黒田を信用してないわよ」
「狐澤さんが太陽環境の株を買ったっていうのはほんとうですか」
「嘘に決まってるでしょう。あの人ほんとのヤクザなのよ。どうして処分場のオーナーになれるの」
「ですよね。聞いていいかどうかわかりませんが安座間さんは狐澤さんにどういう関わり方をしてるんですか」
「昔馴染みっていうかな、ヤンキーしてた頃にはよく遊んでもらったのよ。あの人ももうちょっとスマートだったしね。ほんとは幹部候補だったんだけどいろいろあって犬咬でくすぶってんの」犬咬には知り合いがいないと言ったことはすっかり忘れている様子だった。
「つまりヤクザのエリート崩れってことですか」
「そういうことかもね」安座間はベルギービールが気に入ったらしくギャルソンを呼び止めてお代わりを頼んだ。
「ところでねえ伊刈さん、折り入ってお願いがあるんだけど」
「なんですか」
「太陽環境の許可を取消してよ」
「え、どうして」
「だってあそこはひどいことになるわよ。許可なんて形だけでなんでもありでしょう。百万トンの不法投棄現場になっちゃうわよ。いいえ二百万トンかもしれない」
「それはそうかもですね」
「だから取消すのが一番よ」
「いろいろあってそれはそれで難しそうですよ」
「裏も表も全部あたしが教えてあげるわ」
「なんでそこまで」
「なんででしょうね。ゴミに飽きたからかしらね」
「大丈夫なんですか、そんなことして」
「何を心配してるの。狐澤のことなら心配ないわ。あたしには手を出せない」
「それもありますが」
「あたしが伊刈さんのお手伝いをするのは会長公認だからね」
「会長ですか。ずっと以前ですが川上さんという会長と電話でお話したことがありましたね」
「ああ茨城のおじきね」
「ご存知ですか」
「変なおじいさんだったでしょう」
「会ってはいないので」
「あたしの言ってる会長は栃木の会長よ」
「川上さんが栃木の親分の話をされてましたよ」
「なんとなく誰のことかわかるわ。会長はその上ね」
「上には上があるってことですね。名前は聞いてもムダですよね」
「聞かないほうがいいと思うよ」
「わかりました。だけどネタが揃っても太陽環境の許可を取消せるかどうか約束はできませんよ」
「それともう一社レーベルも潰してよ」
「ああなるほど」伊刈はなんと答えていいかわからなかった。
「最悪の会社よね。ご存知と思うけど何百万トン不法投棄したか知れないくらいだわ」
「犬咬の会社じゃないから取消す権限がないですよ」
「伊刈さんならできるわ。権限なんか要らないでしょう」
「まあそうですねえ。やれないことはない」
「楽しみにしてるわ」
「そろそろ僕は帰ります。一緒に出ない方がいいでしょう」
「それはそうね。酔った女とラウンジにいるだけでも目立つわね」
「それじゃお先に」伊刈は伝票をつかんで立ち上がった。
「あ、それは」
「前にも言ったでしょう。僕がご馳走する分には問題ない。安座間さんが払うとコーヒー一杯でもまずいんですよ」
「わかったわ」ビール程度で酔うはずもないのに安座間は妖艶な笑みを浮かべて伊刈を見送った。
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