黒い川
太陽環境の改善工事が進む中、住民団体代表の大累がグループの仲間数人を連れて環境事務所に不正を訴えにやってきた。安垣所長が対応することになり仙道と伊刈が所長室に呼ばれた。大累は三十代の痩身の男で無精ひげを生やしており、ちょっと見には芸術家の風貌もあった。
「太陽環境の下流に黒い川が出現しているのをご存知ですか」大累は開口一番に言った。
「それは初耳だな。現場は確認しているか」仙道が伊刈を見た。
「いいえ」伊刈は首を振った。
「これが写真ですよ」大累が示した写真には確かに不気味な黒い小川が写っていた。
「水が黒いんじゃなく何か黒い沈殿物があるみたいですね」伊刈が写真を手に取りながら言った。
「なるほど」仙道も伊刈が取り上げた写真に注目した。「これは調査してみないといかんな」
「処分場の中ではどんな工事を行っているんですか。住民にはなんの説明もありません」
「処分場の構造変更があったので是正措置をしているんです」伊刈が説明した。
「どんな構造変更ですか」
「もともとの構造より深く掘ったということです」
「それは許可取消しの理由にならないんですか」
「軽微変更になると本課からは聞いています。十パーセント未満の容量変更なら届出をさせればいいんです。今回は事後届出を認めずに元の形状への是正措置を指導したということです」
「なるほど。でも軽微な変更というにしてはずいぶん大工事になっているようじゃないですか。住民は立ち入りを拒否されているんです。これは公開義務違反になりませんか」その点については既に住民から苦情があったと本課に聞かされていた。
「維持管理記録の公開義務のことですね。今は改善工事中なので安全も考えて立ち入り禁止にしているのだと思います」
「記録の公開じゃなく処分場そのものを住民に公開する義務があるでしょう」
「工事が終って搬入が再開すれば公開されると思います」
「約束できますか」
「公開義務があるのは処分場です。拒否されたら指導しますよ」
「そうですか」大累は憮然としながら一呼吸置いた。
「所長さん、ちょっといいですか」大累に同行してきた年配の住民が自分の発言の順番を待っていたように安垣所長を見た。
「なんですか」
「太陽環境は安定型ですよね」
「そうです」
「それじゃなんでカラスがたかるんですか。生ゴミが入ってる証拠じゃないですか」
「どうかね」所長が伊刈を見た。
「生ゴミが付着した廃プラスチックは確かに混入しています。問題になるレベルじゃありません」
「問題になるレベルとはどういうレベルですか」
「内容物が入ったままの容器包装は安定型にはダメです」
「使用済みなら生ゴミが付着していてもいいってことですか」
「程度によりますね」
「程度とは何か基準があるんですか」
「いちおいう熱釈減量5パーセントという目安があります」
「調査したんですか」
「いいえ」
「それじゃ憶測だけで問題ないと言ってるんですね」
「それは調査してもらうってことでいいんじゃないですか」大累が間に入った。
「いいでしょう調査しましょう」仙道が締めくくった。
「それより所長さん」大累が安垣を見た。「県の管轄だった頃は市長は住民の反対運動に同調していたのに、市の管轄になったとたん市長も業者寄りになったでしょう。政治ってのはそういうものなんですか。何か裏があるんですか」
「市長が業者寄りとかそれこそ憶測で申されても困ります」安垣が少しむっとしたように言った。
「そもそもどうして市に管轄が移る直前に県は許可を出したんですか。市なら許可しなかったからですか。それとも県と市で何か裏取引があったんじゃありませんか」
「なんのための裏取引だというんですか」
「市長は表向き反対表明してるから市の管轄になったら許可は難しい。しかし県が許可してしまったら市としてはもう文句が言えない。市にはどうしようもないってことで住民に説明できる。そういうことで話がついたんでしょう」
「なんのためにそんなことをする必要があるんですか」
「そこまでおっしゃるのなら言いますが市と県の幹部に実弾がまかれたって噂はご存知でしょう」
「冗談じゃない。そんなバカな話にお付き合いできません」安垣は呆れたように首を振った。
「ここは出先の事務所だから知らないだけですよ」大累が炊きつけるように言った。
「県庁がどうしてどたんばで許可したのか詳しい経過は知らないんですよ。むしろ大累さんの方がお詳しいんじゃないでしょうか」いつもは興奮しやすい仙道が冷静に言った。
「太陽環境の前身のアーバンフロンティアが県に事前協議の申請をしてから十年です。それからずっと運動してますからね」
「もう十年にもなるんですなあ」仙道が感慨深そうに相槌を打った。
「そうですよ。反対運動がようやく実を結ぼうという時に県から市に所管が移ることになって、市になれば地元の意向がもっと反映されることになると喜んでいたら急転直下許可になってしまった。騙された心境ですよ。訴訟を起こしたものの裁判所は我々の主張を認めてくれなかった。しかもオープンしてからの太陽環境の状況は心配していたとおりです。ヤクザに乗っ取られたともっぱらの評判です。それもご存知ないですか」
「暴力団は欠格条項に抵触します。処分場の経営はできません」
「そんなの建前だけでしょう。金を出して背後で操るだけならわからないでしょう。許可が出るまで時間がかかったんで借金が増えてしまって悪い資金に手を出したんじゃないですか。それでなんでもかんでも受け入れているってことでしょう」大累の言葉にはなんでも知っているぞという迫力があった。
「ご忠告は参考にさせていただきます」安垣が落ちつきを取り戻して言った。
「参考じゃなくぜひ許可を取消してください」大累は自分の言いたいことを言い終えると住民を引きつれて帰っていった。住民の情報力には感心するところがあった。
伊刈は保全班長の大室に協力を求めて太陽環境の下流に出現したという黒い川の調査に向かった。事務所には挨拶せず長城と呼ばれる鋼鉄の万能塀に沿って谷津を降りていった。処分場を囲む起伏に富んだ地形に合わせて灰色の塀が延々と連なる様子は確かに遠目には万里の長城のジオラマのように見えなくもなかった。処分場の最下流は谷津に囲まれた田んぼになっていた。その縁を流れる幅五十センチほどの水路へと徒歩で降りてみると写真で見たとおりの黒い川が出現していた。化学技師の大室は興味深そうに沈殿物の前にしゃがみこんだ。汚水の一部が休耕田に流れ込んで田んぼ一枚がすっかり黒く染まっていた。
「黒い水の下に白い沈殿物もありますね」大室が沈殿物を素手でまくりながら言った。
「ほんとだ、黒白ツートンだ」喜多が感動したように言った。
「沈殿物と水を採取して検査してみます。でも大体わかりましたよ」
「なんですか」監視班のメンバーが大室に注目した。
「黒いほうは硫黄の酸化物でしょうね。マッチの燃えカスと同じようなものです。白いほうはカルシウムでしょうね」
「硫黄とカルシウムですか。どうしてそんなものが」伊刈が大室を見た。
「もともとの物質は硫酸カルシウムつまり石膏ですよ」
「それじゃ汚染源は太陽環境に埋め立てられた石膏ボードですか」遠鐘が言った。
「間違いなさそうですね」大室が断言した。「でもまずどこから流れ出ているか確認しましょう」
大室を先頭に小川を遡った。太陽環境との敷地境界にある二メートル四方のコンクリート枡が黒く染まっていた。そこから汚染物質が流出しているのだ。枡はフェンスの内側にあって立ち入ることができなかった。管理者がいる許可処分場なので、さすがに不法投棄現場のようにフェンスを乗り越えるわけにもいかなかった。
「なんで枡でしょうね」伊刈が大室を見た。
「安定型は場内の汚染水の排水処理はしませんから、これは通過排水の枡ですね」
「通過排水というと」
「処分場が谷津を堰止めてしまったで上流の沢筋から来る水を下流に放流するためにボックスカルバートを埋けてあるんですよ」大室は太陽環境の縦横断構造図を持ってきていた。
「それじゃ上流の汚染てことも考えられますか」念のために伊刈が聞いた。
「それはないでしょうね。これだけの汚染物質が上流にあるとは思えません。ボックスカルバートの接続部かマンホールにクラックが入って場内の汚染水が侵出したんじゃないですか」
「クラックってもしかして深堀りの是正工事が原因じゃないですか」喜多の推理がどうやら正しそうだと居合わせた全員が頷いた。
監視チームはそのまま太陽環境の事務所に立ち入った。改善工事の監督だったオペレータの新藤が新工場長として出迎えに出てきた。前工場長の永塚は不始末の責任を負わされて解雇になった。
「大室さんまでお揃いでどうしたんですか。今日の作業はもう上がるところですよ」
「下流の黒い川を見に来たんですよ」伊刈が言った。
「ああ、とうとう見つかっちゃいましたか」新藤は平然と答えた。
「知ってたんですか」
「処分場にはよくあるんですよ。住民がちくったんでしょう」新藤は何もかもお見通しで今日あたり調査があると覚悟していた様子だった。
「専務はどこですか」
「今日はおりませんよ。というかいつもおりません」
「技術管理者になってるんですから常駐してもらわないといけませんよ。呼んでもらえますか」
「ムリですよ。夕方になるともう電話に出てもらえません。携帯は三つも持ってるのにどれにも出ませんよ」
「どうして」
「さあね、どうせコレかコレでしょう。仕事の電話してたんじゃ約束に遅れるからじゃないですか」新藤は意味ありげに指を二度立てた。
「とりあえず場内を見せて」
「わかりました」
伊刈と大室を先頭に場内に降りる坂道に向かった。新藤も後からついてきた。
「思ったより臭いな」大室が言った。
坂道を降りるにつれて硫黄臭がどんどんきつくなった。無風の日なので場内にガスがこもっているようだった。
「石膏ボードはだいぶ入ってるの」大室が尋ねた。
「掘り出してみると結構入ってましたねえ」新藤は思わせぶりに答えた。「埋めたままにしておけばそんなに臭いもきつくないけど掘り上げてしまうとひどいんですよ。今日の作業を上がりにしたのもみんな目が痛いって言い出したもんでね」
処分場の底が近付くと硫黄臭が我慢できないレベルになった。
「これ以上行くのやめとこうか」不気味な静けさに殺気を感じて大室は搬入路の坂の途中で足を止め新藤を振り返った。
「そうですね、あの辺はおやめになった方が」新藤がまじめに答えた。覆土のヘコ溜まりが乳白色の不気味な池になっていた。
「まるで五色沼ですね」喜多が言った。
「水が抜けていないんだね。それでプールになってるんだ」大室が言った。
「とても水が抜けにくい処分場です」新藤が大室の指摘に答えた。
「不透水層のせいですね」遠鐘が言った。
「あのマンホールは」伊刈は処分場の真ん中を指差した。
「通過排水のマンホールです」
「やっぱり」大室が言った。
「ガスは白い池じゃなくあそこから出てるんじゃないですか」伊刈が言った。
「そのとおりです」
「あれはデスホールだよ」大室が言った。「近付かないほうがいいね。硫化水素は空気よりも重いから中に入ったら即死ですよ」実際、福岡県の最終処分場ホーサン興業のマンホールで作業員三人が死亡するという事故が起きたばかりだった。死因は石膏ボード由来の硫化水素中毒だと推定されていた。
「わかってます、わかってます」新藤が大きく二度頷いた。
「単純な埋め直しだけじゃだめそうだ。ボックスカルバートを補修し、石膏ボードは埋め戻さずに除去してもらいたいですね」大室が言った。
「それは専務に言ってもらえませんか」
「専務に指示します」伊刈が言った。
「応急措置として汚染されてる通過排水をポンプで場内に戻してもらえますか」大室が言った。
「場内がますますプールになっちゃいますけどいいんですか」
「田んぼに流れ出るよりいいですよ」
「まあそうですかね」
「専務とはほんとに連絡とれないの。連絡するなら早いほうがいいんだけど」伊刈が言った。
「ムリですって。処分場がこの有様なのに社長も専務もこんなじゃもうこの会社はダメだね。俺はね、こう見えたっていろんな処分場でオペを四十年もやってきたんだ。潰れる会社もあればでっかくなる会社もありましたよ。今はまともな顔してるとこもさ、昔を言えば悪さをしていない会社はなかったけど、ここはほんとにだめだ」新藤は首を振りながら坂道を事務所に向かって戻り始めた。
「どうだめですか」伊刈が新藤を追いながら言った。
「なんていうかな、一つのいいところもないね。でっかくなる会社はね、社長がどんな道楽者でもね、仕事ではよそに負けないって夢中なところがあるんだ。会社でも人でも負けを認めたらそれで終りなんだよ。これだけの処分場がせっかくあるのにもったいないことだね」新藤はばっさりと切って捨てるように言った。
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