ゆるい指導
本課が検査に行くまで太陽環境の現状を保全して置くようにと産対課の宮越主幹から伊刈に指示があった。最終処分場の監督権限は本課にあったため従わざるをえず、伊刈のチームは毎日状況確認だけを行った。
一週間後、ようやく御園専務に立ち会いを求め、産対課と環境事務所が合同で太陽環境を検査する日程が決まった。産対課の宮越主幹と江ノ島技師の二人とは現地で合流することになった。江ノ島は産対課唯一人の土木技師で最終処分場と残土処分場の構造審査や竣工検査を担当していた。
森井町の西の外れ、旧朝陽市との境界に沿った未舗装の農道を進むと左手に太陽環境最終処分場が見えてきた。谷津を縁取っていた細長い森が伐採され整地を終えた斜面に黒い遮水シートが貼られていた。土地の裂け目のような落差五十メートルの急斜面が何百メートルも続いていた。もともとあったV字の谷津をさらに掘り下げたのだ。地下水や農地への影響を無視すれば産廃を埋めるには適地だった。開発価値がない傾斜地が処分場を建設すれば金のなる穴に変わるのだ。
「でっかいな」伊刈は隣の遠鐘を見た。
「そりゃあ三百万リューベですから」
「もとの谷津のままのほうがよかったとは思うけど」
「県が許可した処分場ですからね。市としてはどうしようもないですよ」
「市なら受け付けなかったかな」
「三条市長は女性ですし環境派として当選しましたからね。それを見越して犬咬に所管が移る直前に県が許可したんですよ」
「政治がらみ?」
「たぶん」
「センセの名前わかる?」
「さあ県議だと思いますけど僕みたいなペーペーの技師には無縁ですからねえ」
「県庁に聞いてみるか。ちょっと最終処分場にも興味が出てきたから」
「県庁に行かれるんなら僕も行っていいですか」喜多が割りこんできた。
「喜多さんも関心あるの?」
「うちの父がいくつか最終処分場の税務もやってるんです」
「なるほど将来のお客様ってことか」
「そういうことじゃないですけど」
「いいよ一緒に行こう。だけど親父さんの話はなしだよ。顧客情報の秘守義務があるだろう」
「もちろんわかってますよ」喜多はちょっと頬を紅潮させて答えた。
プレハブの事務所の前で社長の倅の御園創が検査チームの到着を待っていた。御園は見栄えのいい紳士だった。オーダーメードの高級スーツに長靴を履いているのがちょっと滑稽な感じがした。社長の椅子が約束された二世なのに処分場には関心がなさそうな素振りをちらちらと見せた。産廃なんかやりたくないのに渋々やっているのだと言いたげだった。逆立ちしても一生社長になれる望みを持てない者からすれば贅沢なことである。
「ご苦労様でございます。どんな検査にも対応できるように作業員も重機も揃えてございます」最終処分場なのだから掘削に必要な機材があるのは当然なのに御園は慇懃に頭を下げながらわざわざ検査のために機材を準備したようなことを言った。
「社長はどうされたんですか」宮越が尋ねた。
「海外に視察に行っております。来週には戻りますので」
「なるほどそれじゃ仕方がないですね」
「さっそくですが現場を見せてください」伊刈がじれったそうに言った。これほど重大な違反行為をしたなら海外視察は切りあげるべきだろうと思った。
「それではどうぞこちらへ。あの失礼ながら伊刈さん」
「なんですか」
「お革が汚れます。長靴に履き替えられますか。視察用の長靴をご用意しております」
「どうぞおかまいなく。どうせ泥靴ですから」伊刈は平気な顔で調査チームの先頭に立って搬入路を降りていった。
「余計なことを申しました」御園は恐縮して沈黙した。
チームの中で伊刈だけがスーツを着ていた。着心地の悪い厚手の混紡生地のスーツだった。二年間現場で着続けているのに敗れもしないければ色あせもせず、すっかりお気に入りの一着になっていた。工場長の永塚が伊刈のすぐ後ろにつき従うように処分場の底へと案内した。オープン一年目の処分場なので埋め立てはほとんど進んでおらず、事務所脇の道路から落差五十メートルの崖が続いていた。
「大きな処分場ですね」大きさは先刻承知のはずなのに宮越が意味のない社交辞令を言った。
「そうでもございません。一期は七十万立米ですからそれだけでは犬咬ではむしろ小さいほうでございます」御園が謙遜して答えた。
「建設費はどれくらいでしたか」これも申請書の資金計画でわかっていることだった。
「当初は三十五億円の予定でした。許可をいただくのが長期化したものですから五十億近くかかってしまいました」
「仮処分やら訴訟やらで時間がかかったせいでしょう」
「ある程度の反対は予想しておりました。住民投票までやるとは思いませんでした。それでもようやくオープンにこぎつけられてほっとしておるところでございます」
うねった谷津を堰堤でせきとめた処分場の底はダム工事の前の川底のような感じだった。安定型処分場なので重機で削り取っただけの軟弱な地層がむきだしで下から見上げると今にも崖が崩れそうに見えた。
「地層がいくらか北に傾斜していますね。見たところ透水層もありません。安定した地盤のようです」それまで沈黙していた遠鐘がさりげなく指摘した。
「土に詳しいのですね」御園が感心したように振り返った。
「これが専門なんです。透水層があればそこから水が吹き出してやっかいです。よかったですね」
「処分場のすぐ下に不透水層があるそうです」
「地下水層に汚染物質を拡散しないのでいいことです。ただし処分場に水が溜まりやすくなるので上手の水抜きをしないと堤体が決壊する恐れがありますね」
「さすがですね。コンサルからも維持管理上の留意点として指摘されております」
「当然それくらいの配慮はしてるでしょう」土木技師の江ノ島が憮然として言った。
「事務所が確認した穴はあれですね」宮越が伊刈が見つけた深穴を指差した。穴の方向から硫化水素臭が漂ってきた。
「どんなものでしょうか」御園が心配そうな顔で宮越の顔色を見た。
「正直言って何が問題なのか僕にはよくわからないですね。最終処分場なんだから穴を掘ってゴミを埋めることに問題はないでしょう」
「全くごもっともでございます」厳しい指導を予想していた御園は予想外のゆるい言葉に安堵の表情を漏らした。
「ここを掘ってみてもらえますか」御園と宮越の会話を無視して伊刈はユキエから提出された深穴の写真を思い浮かべながら、まだ処分が始まっていないはずの最上流部の掘削を指示した。
「いいですよ」
オペレータの新藤が躊躇せずにざっくりと処分場の底を大型ユンボのバケットでえぐった。するとないはずの廃棄物がごっそりと出てきた。ここにも深穴が掘られていたのだ。最終処分場の場内といっても無許可で構造を変更すれば事実上の不法投棄である。新藤はしばらくゴミの層を掘り続けた。アームが届く限界の六メートルの深さでやっと地山が見えてきた。
「これはどうしたんですか」宮越が伊刈を押し退けるようにして御園に尋ねた。
「不法投棄された産廃があったんですよ」見え透いた口実だった。
「不法投棄? いつのことですか?」
「処分場を造成する以前に棄てられたものですよ」
「それは造成工事の際に撤去したはずではないですか」
「いくらか取り残していたんじゃないでしょうかねえ」
「不法投棄物が残っていたら検査が通らないですよね」宮越が江ノ島を見た。江ノ島は無言だった。
「でもですね不法投棄物があったってことは事実なんですよ。それは処分場を着工するとき県のご担当にも見ていただいていることなんですから」御園は反発するような表情を見せた。
「事務所が確認した深穴はどう説明されますか」伊刈が二人の会話に割り込んだ。
「いちいち図面を見て掘ってるわけじゃないですから間違って掘ってしまうこともありますよ」
「うっかり掘ったと」
「そうですよ、作業員もまだ慣れていないですから」御園はミスだったと言い張った。
伊刈は御園の弁明に取り合わず新藤に直接指示して上流から下流まで五か所の掘削検査を行い、場内全体が掘り下げられていることを確認した。改変の深さは最大で六メートルだった。古い不法投棄物の取り残しという説明も、たまたま間違って掘り下げたという説明も通用しなくなった。
「本課のご指示は」
「処分場の構造が許可後に変更されているようです。改変の状況を測量して報告してください」江ノ島がやっと技師らしい指示を出した。
「測量したらどうなるんですか」
「処分場の容量が変更されているなら変更届けが必要になります。一割以上なら変更許可になります」江ノ島が事務的に説明した。深穴を掘ったことが不法投棄になるという認識は江ノ島にはない様子だった。
「許可が必要になるんですね」御園が恐る恐るという様子で尋ねた。
「軽微変更ならいいですけど変更許可になると簡単には出ません。事前協議やアセスメントが必要になる場合もあります」
「無許可容量変更は許可取消し対象の違反じゃないんですか。後から許可を出せるんですか」伊刈がゆるい指導に呆れたように話に割って入った。
「まだ埋め始めたばかりだし、深くした分高さを低くすれば容量は変りませんよ」江ノ島が伊刈を無視して御園に説明した。許可を取消すつもりは毛頭ないことがいよいよはっきりした。
「それっておかしくないか」伊刈は納得できない様子だった。
「いったいどうすればいいですか」御園が二人の顔を見比べながら尋ねた。
「とにかく測量が先決ですね。それから改善計画書を出してください。許可後に掘った部分は埋め戻してもらいます。それができない場合は深くした分、最終仕上高を下げてもらうかもしれません」江ノ島が念を押すように説明した。
「わかりました」
「改善の方針が決まるまで搬入は中止してもらいます」宮越が言い添えた。
「お手柔らかに頼みますよ」御園は苦い顔で宮越を見た。最終処分場の監督権限は本課にあったので伊刈は二人の指導にそれ以上異を唱えられなかった。
翌日、太陽環境の委託を受けた測量士の袴田が環境事務所を訪れた。
「あのう、太陽環境の測量の件で伺ったんですが、監視班と保全班とどちらにご相談すればよろしいでしょうか」測量士の袴田は長身の腰を低く折りながら室内を見回した。
「太陽環境だったら本課が担当ですよ」伊刈が立ち上がりながら答えた。
「産対課の江ノ島さんから測量については事務所の指導を仰ぐようにというので」
「聞いてないなあ」
「そうですか」
「いいですよ、監視班で対応します。でも事務所に土木技師はいませんよ」
「現場にお立会いいただければいいだけですから」
「まあこちらへ」伊刈は面接コーナーへと袴田を誘導した。
袴田はテーブルにA1サイズの図面を広げた。
「処分場の形状がこの設計図面と違うので測量せよというご指導をいただいたのです。現状を測量すればいいのですか」
「いくつか検査のために穴を掘ってGL(グランドレベル)を出してあります。それをつなぎ合わせて廃棄物を入れる前の高さを出してください。それと現状を比較して廃棄物の厚さを出してください」
「廃棄物はごく一部に入っているだけだとお聞きしています。着工前の現場に農業系ビニールなどの不法投棄物があったんで、それを出すために掘り下げたものですから部分的に形が変わってしまったと聞いておるんです」
「出したのではなく入れたんですよ」
「はあ、そうですか」
「竣工検査には立ち会われたのですか」
「許可の図面は私どもで引いたものではございません」袴田が持参した図面を見ると確かに袴田測量とは別の測量業者の社名が記されていた。
「この図面と処分場の形が違っていたということなんです。竣工前から違っていたのか、竣工後に変えたのかはわかりません」
「さようですか」袴田は大きく頷いた。
「竣工前なら設計図面を差し替えないと検査が通らないはずじゃないですか」
「それが申し上げにくいんですが通ったんだそうです」袴田は言葉を濁した。
「どうして?」
「検査の際に測量までやりませんでしたのでしょうね」
「おかしいですね。測量はしてるはずですよ。そのために土木技師がわざわざ産対課にいるんですから。一センチでも図面と高さが違っていれば工事をやり直させているはずです」
「検査が通ったのは確かなんです。ご指摘があればもちろん図面は差し替えたんでしょうが、とくにご指導がなかったのでそのままにしたんだそうですよ」袴田の口ぶりは行政の検査の不手際なのだと言いたげだった。
処分場が深くなったことに気付かないで完成検査を合格させたとすれば処分場の無許可改変を問えなくなる。江ノ島の態度が煮え切らなかったのはそのせいなのだといまさらに思われた。
「それで今日はどんなご相談に」
「ですからどこまで測量すればいいのかと思いまして」
「さっきも言ったとおり産廃を入れる前の地山のレベルを測ってくれればいいんですよ」
伊刈はあたりまえの指示をしたつもりだったのに袴田は戸惑った顔をした。「ゴミが入ってしまっているのでGLは測れませんよ」
「ゴミの層はたかだか五、六メートルです。この間の検査で五か所掘ってあります。あと十か所掘ってください。それでだいたい三十メートルメッシュになるはずです」
「そんなにムリです」
「どうして」
「下の方は水が湧くかもしれないんで」
「やってみなければわからないでしょう」
「あの、あと五か所ではどうでしょうか」
「全部で十五か所が最低ですよ。そうでないとメッシュが切れません。ほんとうはボーリング調査もやりたいところです」
「そんなことしたら何千万円かかるかわかりません。とにかく持ち帰って検討させていただきます」袴田ははっきりとしない態度で帰って行った。食えないやつだと伊刈は思った。
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