2「千客万来、百鬼夜行」(4)



 無くしたことに気づいたのは、午後、研究室で先輩講師の話に退屈し始めていたときだった。僕は大学を出ていないので、ある有名大学の出身という先輩講師が、大学生活がいかに良いかを話すのを聞いていたのだが(入りたいとはこれっぽっちも思わなかった)、鞄に入れていた携帯に着信があり、鞄を開けたときに、違和感を覚えた。なにか足りない。少し考えてわかった。脇のポケットに、例の手帳が入っていなかったのだ。


 内容を読み返すことなど滅多になくなっていたとはいえ、今まで一度たりとも無くしたことがなかったものを無くすと、やっぱり人は動揺するらしい。


 僕はしばらく、彫刻にでもなったかのようにぽかんと固まってしまった。先輩講師に肩を叩かれてようやく気を取り戻し、笑顔を作って「なんでしたっけ?」と返すと、彼は安心した様子で続きを話し始めた。僕には大学生時代の自由さだの、先生の性格が個性的だの、そんなことはこれっぽっちも興味がなく、どうでもよかった。ただ機械的に相づちを打ちながら思っていたのは、なくした手帳のことばかりだった。


 なんとか仕事を済ませ、キャンパスから帰るとなったときも、脳内は手帳のことで占められていた。いや、もしかすると今まで手帳という「物」があったおかげで意識していなかっただけで、僕の頭の中は実はあの日からずっと、父のことでいっぱいだったのかもしれない。

 とにかくとても頭がぼうっとして(ただでさえ昨夜の数独のおかげで寝不足だったというのに)、柄にもなく涙まで出そうになる始末だった。教務課に遺失届を出し、キャンパス内の遺失物保管所を回ったが、見つからない。まあまだ永遠に戻ってこないと決まったわけではないのだから、と自分に言い聞かせながら、キャンパス内のコーヒーショップでカフェオレを買って飲んでいると、弱り目にたたり目というやつで、苦手な教授に声をかけられた。名前は高橋だったか、田中だったか。

 大学生時代、「夏目漱石」について書いた論文を高く評価され、課外活動でも高い功績を修め、教員揃いの家族を持ち、甘いルックスを持ち、あらゆる分野で何不足なく認められてこの新設大学の教授のポジションを勝ち取った文学科の彼は、ろくに大学も出ていないくせにのうのうと数学教授をやっている僕が、目の上のたんこぶとばかりに気に入らないのだ。

「テレビに出られたそうですね」

 彼はブラックコーヒーを片手に隣に座った。「ええ」と僕が答えると、彼は大仰に頷いた。

「僕も出ました。別の番組ですが。同じ局ならご一緒できたかもしれないのに、残念です」

「はあ」

 彼はそこでもったいつけてコーヒーを啜った。僕もカフェオレを啜りながら、ここから逃げ出すうまい口実を考えていた。

「でも、やっぱり違いますね……独学で学ばれている方っていうのは。天才っていうのかな、どこか人と違いますよね」

 始まった、と心の中で苦々しく思う。できることなら、その場でため息もつきたい思いだった。いつもこれだ。褒め殺し。天然で話し下手なのであれば怒りもしないが、こいつのこれは確信犯だ。テレビに出て、カメラの前で如才なくトークができるほどの男が、天然でこんなことを言うわけがない。

「その道だけを極めてるから、ああいった強気な発言もできるんですよね。すごいです」

「僕が気に入らないなら、そう素直におっしゃったらいいでしょう」

 言ってしまった後で、少しまずいかと思ったが、面倒だったし、あまりにも気分が悪かったのでそのまま続けることにした。いつも同じことを嫌味で言われ続けているのだから、どうにせよいつかは言っておかなくてはいけないと思っていたことだ。

「大学の出身でもないのに、一芸に秀でているってだけで僕が教授になんてなってしまったから、あなたにとっては疎ましいんでしょう? でもそれは逆恨みですよ。誰を雇うかなんて、大学側が決めることで、僕には何の責任もない。職を勧められたから、僕なりに頑張ってこなしてるだけで、いつ解職されるかも知れないんです。何もかも恵まれてらっしゃるあなたに因縁ふっかけられる筋合いはないと思うんですが。褒め殺しをなさる前に、やることは他にたくさんあるでしょう」

「どうして、日理先生はいつも僕に冷たいんです?」

 この傷ついたような反応もいつものことだった。僕はさらにげんなりとなる。こいつだって、本当は僕が客寄せパンダ並みの扱いしか受けていないことを知っているのだ。

「僕は日理先生と同年代の大学講師として、仲良くなりたいだけなのに」

「仲良くなりたいのなら、双方が心地よく話せるような話題を考えてから話しかける配慮をしていただきたいものですが」

 すると彼は、勢いよく両手で口元を覆った。

「えっ、すいません! 日理先生があのテレビのことを気にしているなんて、思わなくて……。テレビに出るなんて、すごいことじゃないですか!? 僕なんて、もう会う人会う人に自慢しまくりですもん!」

 人生はどうしてこう不公平なのだろうと、このときほど思ったことはないかもしれなかった。

 

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