1「窮鳥と天才、あるいは安物なのにウザいくらいしっかりしたロープ」⑹
医者にかかったところ、現代医学では「原因不明の病」である、と告げられた。そう聞いたときはすごいことのように思えたが、医学の世界では原因不明の病などさほど珍しくもなく、俺のこれは、他に比べれば全く大したことがない部類に入るらしかった。大まかに分類するなら、「心因性の頭痛」……なんらかの心理的ストレスによって、特定の神経に過大な負荷がかかるために痛みが生じる病気。
が、そのなんらかの心理的ストレスというのがわからない。
要は、いつ痛み出すかわからない、常に頭痛を警戒していなくてはいけない、ということだった。
記憶障害なども疑われたが、記憶能力には特に問題はないらしい。既往歴も尋ねられたが、小さい頃に親が離婚し、母方の祖母に引き取られ、家庭がゴタゴタした時に情緒不安定になって、何回か精神科医に診てもらったことがあるくらいで、あとは予防接種を受けに行ったりするくらいの普通のものだ……いや、本当はそのあたりに問題があるのだろう。そこ以外に思い当たる節がない。
でも、子供の頃のことを思い出そうにも、そんなに細かに思い出せない。ひどく辛くて数日泣いていた、程度のことしかわからないレベルだ。医者も「思い出せないことは無理に思い出さない方がいい」と言われているし、「嫌な思い出を自然に忘れていくのは正常なことだ」とも言われた。
確かにまあ、忘却作用というのか。
それがあるおかげで、人間は、記憶のパンクを起こさずに生きていけるのだろう。
でも、本来自分楽にしてくれるはずの機能に苦しめられているのなら……本末転倒だ。そう思わずにはいられない。
「痛い……」
リュックを引き寄せ、中から頭痛薬を取り出す。効果は薄いが、飲まないよりましかと思って買っている市販薬だ。三錠取り出し、テーブルの上に置いていたミネラルウォーターで流し込む。
本当は、すぐにでも祖父母に伝えるべきなんだろうと思っているのだが、なかなか言い出せなかった。悩んでいたら、無意識にフラフラ遠出してしまい、知らない土地でビジネスホテルに泊まっているという、そんな具合だった。紐は、ホームセンターで買った。人は錯乱すると、本当に、とことん意味不明なことをするらしい。
「……」
親の離婚の原因を、祖父母に尋ねたこともあった。それも、数回ほど。遠慮はあったが、気になっていたし、俺にもそれくらいの権利はあると思った。
でも結局、詳しいことは聞けなかった。
ただ、その話題になると決まって、「二人とも人が良すぎたせいだ」と二人は言う。そして、両親を責めるようなことも一度も言わなかった。それでも、そのことを語るときはいつも悲しそうな顔になるので、いつも気が重かった。
「人が良すぎると、損をする。世の中というのはそういうものなんだ」
「なら、俺は……良い人になんてなりたくない」
いつか、そう言って祖父に怒られた。中学生くらいのことだったか。
でもその時でさえ、どうしてダメなのか、なんて理屈っぽいことは聞けなかった。自分を叱った祖父の顔は、すでに悲しそうに歪んでいたのに、それ以上、追い詰めるようなことがどうして言えただろう。
ダメと言われたのだから、それはきっと、ダメなことなのだ。
俺は……何一つ秀でたところなどない、凡人の俺は、そうやって生きてきた。
「……」
それなのに、こんな意味不明な病気になって、本当に俺は、何がしたいのだろう。
俺という人間は。どれだけ迷惑をかければ気が済むのだろう。
……ああ、ダメだ。
この頭痛が出ると、いつも暗い考えに取り憑かれてしまう。この状態になったら、もう半日は動けない。
支離滅裂で否定的な言葉が頭の中を巡り、気分が悪くなる。
『どうせ友達も女もいなくて、それしかすることがなかっただけだろ』
『壊れてる、こいつ』
『壊れた人間は、一生壊れたままで生きていかなくちゃいけないんだよ』
『かわいそう』
『でも、自業自得よね』
『どうせこいつも、数学しかやることがなかっただけなんだ』
「でも、現に、あなたは私の意見に対して、のらりくらりと逃げるだけで、反論をなさらない。それが、あなたのコミュニケーション能力が不十分だという証拠です」
まだ言っている。
虚ろな目で、テレビの画面を見た。いつからか、どうしてか、俺はいつだって世界を他人事のように見ている。
「……反論ですか」
教授は、もう苦笑いをしていなかった。
「ええ。私は、あなたの本心が聞きたいんです」
「でも、私が今反論をしたら、あなたはもうそれ以上反論をできなくなると思いますが、それでも良いんですか?」
「は?」
「ある種の人間は、特定の行動をすることで、この世のあらゆるしがらみから自由になれる。私の場合、それが数学です。それはある意味で恐ろしいまでの自由です。それは、孤独である、というのとほぼ同じです。もし私と同じ土俵に上がろうと思うのなら、あなたもそれくらい怖い所においでいただかなくてはいけなくなる。私はそれが嫌なので、反論をしないんです。あなたは一人でここへお越しになれますか?」
つらつらと、言葉が脳内に流れていく。空気が変わり、少しずつ冷えていくのがわかった。
「あなたは私だけでなく、数学という学問を馬鹿にしている。私という人間のことならいくら侮辱してもらってもいい。ですが数学を誤解させるような発言を、大勢が目にする場所でこれ以上することは、謹んでいただきたい」
そこに熱は感じられなかった。
ただ淡々と、事実を口にする医者のように、人を突き放す冷たい口調だった。
「……」
「反論は?」
問い返す言葉も、ごくごくつまらなそうだった。反論などできないことをわかっている、あるいは反論してきても、これ以上ろくに相手などしたくもない、そんな軽い失望と拒絶の意思が、その冷静な目にはありありと浮かんでいた。
それに、たとえ反論したところで、お前は私の話なんて聞かないだろう? そうせせら笑うような、そんな目だった。
やがて、教授は立ち上がり、てきぱきと居住まいを正し始めた。
「申し訳ありませんが、気分が悪いので、私はこれで失礼させていただきます」
「えっ」司会が戸惑った声を上げた。
「『年を取りすぎてはだめなのだ』」
「はい?」
「『数学では、観察や熟考だけでなく創造性が重要だ。創造する力や創造しようという意欲を失った者は、数学からさしたる慰めを得られない。しかも数学者は、創造力をかなり早くに失うことが多い』」
「あの……日理教授?」
「ある数学者の言葉です。若いのなら人と意見を戦わせるべきだ、という意見も一理あるでしょう。ですが、歳を取ってからでは遅すぎるということも現実には存在します。なので僕は、明日からも普通に数学をすることにしましょう」
「しかし……」
「僕には確かに、他人の気持ちはよくわかりません。わかろうと努力はしていますが、本当のところ、全く理解できないと言っても過言ではありません。だから、基本的に数学をやっています。数学には人の感情など不要だからです。もし僕が人を助けようと……その人の問題を解こうと思ったら」
日理教授はそこで言葉を切り、発言した男の方を見ると、口元に薄くからかうような笑みを浮かべた。
「……間違えて数字を消すように斜線を引いてしまうかもしれませんが、それでも構いませんか?」
そう言って、数学教授は悠々とその場を去って行った。
スタジオ内は、数学者の突然の奇行と退場のせいで、再びぎこちない静寂に包まれた。俺はそこでようやく、テレビの電源を消した。
テレビと同じように静まり返った部屋で、思わず呟いていた。
「なんだ、それ」
頭痛と同時に頭痛薬の眠気が襲ってきて、倒れこむようにベッドに横になってまどろみながら、俺は思っていた。
『——斜線を引いてしまうかもしれませんが、それでも構いませんか?』
俺には、あの意味不明な言葉がなぜか、こんな風に聞こえたのだ。
『もしそれでもいいのなら、救ってやることができる』と。
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