序「ある少女の、ある日の日記」2




 よく言われる言葉に、「自分が個性的だと思っている奴ほど、ありきたりでつまらない人間だ」という意味のものがある。私もそれに賛成だ。だってそれは、まるっきり、うちの家族に当てはまる言葉だから。


 ……これは、まだ、誰にも話せていないことだ。


(話したとしても、私がまだ中学生だから、妄想と思われるに決まっている。どれだけ言葉を論理的に揃えたとしてもだ。同年代の子達が感情に任せてみっともなく暴れ、大仰に「将来」とまではいかなくても、容易に想像できる数分先の未来のことも考えようともせず大人にべったり甘え、迷惑を振りまいている限り、きっと信じてなんてもらえない。)


(それに他人のせいにしなくても、まだただのガキである私には、これを論理的に話せるだけの知識も、教養もないのだから)


(でも、今の所の知識を使って、とにかく言葉に表してみようと思う)



 うちの家族は、「他の誰かを生贄にして活力を得る」という人間の集まりだ。



 証拠はたくさんある。例えば私は、小さい頃からピアノを習っている……否、「習わされて」いる。そして、父と母は、近所の夫婦と会うたびに、そのことを持ち出す。それくらいなら、まあ、責められるようなことは何もないのだろう。

 けれど、私の父と母は、それをなんども繰り返す。

 なんども。なんども。

 ……夫婦仲が良いけれどお金がなくて、子供に習い事をさせる余裕のないご近所の夫婦にとって、それはどれほどの苦痛だったのだろう。悪意を持って執拗に繰り返される近所の夫婦の冷たい言葉、それは、ただでさえ不安の多い夫婦に、どれほどの苦しみを与えたのだろう。表面上はニコニコと穏やかだけれど、家に帰って我が子を見た時、どんな思いだっただろう。

 もちろん私だって、そんな事情を知りながら、やりたくもないピアノをさせられるのは、楽しいことではなかった。人目が気になって、音楽に心を委ねることなんて、いっときだってできはしなかった。



 そうして、ある日、近所の夫婦は……壊れた。



 言わずもがな私も詳しい事情が気になったけれど、子供である私には常に両親の目が光っているので、知りたくても知ることができないうちに、ことは収束してしまった。でも、その夫婦の子供が、親に続いて精神に混乱をきたし、ノイローゼになって遠くの精神病院に送られていったことだけは、しばらくあとに食卓の席で知らされた。その時も、私の父と母は、まるで調子を変えることはなかった。近所の人から旅行土産をもらった時や、流行の服や観光地について語る時と、まるで同じ調子だった。

 ……明るく、人ごとで。

 まるで、仕事ビジネス上の会話のような。

 


 本当のことを書くと、私が日記をつけ始めたのは、そのことがあったから。



 私にはどうしても忘れられないのだ。あの幸せそうだったご近所の夫婦と、無邪気に笑う、その娘さんのことが。何より、私は寂しかった。私は親からあまりろくな教育を受けていないので、わざわざ先生にマナーを確認してから、失礼をしないようにして、たまに遊びに行ったりもしていたのだ。


 今だってしっかり覚えている。


 確かに、生活資金は豊富ではなかったかもしれない。

 でも明らかに、あの夫婦の家庭には、私の家にはありえない「ぬくもり」があった。「幸せ」というものがあった。それは、何も繕わなくていい、何も競争しなくていい、そんな世界だ。


(もし、そんな世界を知らなかったら、私は、きっととっくに自殺をしていただろう)



 けれど、その「幸せ」には、一つだけ落とし穴がある。

 それは、「幸せ」を作り出せるのは、はじめから「幸せ」を知っている人間か、意識的に「不幸」を避けられる人間、ということだ。そして前者は、自分たちと正反対の人間の存在を予期できない。天使が悪魔の存在を心底信じないように、幸福を生まれ持った人間は、そうでない人間の心を、文字通り知ることができないのだ。

 「幸せ」を恨み、壊そうとする者の、あまりにも非人間的な執着心や悪意を、ふつうの人間は理解できない。

 だから、すぐにやられてしまうのだ。あの夫婦のように。


(もちろん私は、あの夫婦と娘は、いつかはまた回復すると信じているけれど。信じなければいられない。私は、祈ることで、それが本当になることを信じている。

 不幸な記憶を思い起こさせる危険のある私には、祈ることしかできない。

 私がどんな人間であれ、あの家族にとってはまだきっと、私という存在がそこにいるだけで、苦痛でしかないだろうから)


 


 だから、私は、あくまで前を向くことに決めた。

 また同じことが起きないようにすると決めた。

 

 そのためならたとえ、自分が犠牲になっても平気だ。

 だって……あれよりひどいことなんて、絶対に起こらない。






 —————。







 ……もう、誰にも、壊れて欲しくない。








 誰かが壊れるくらいなら、私が、壊れた方が、ずうっとましだ。







 そのぶん、楽をしているとさえ、思えるくらいだ。









 そして今日に至る。そう、今日のことを書こう。

 あののことを、書こう。

 

 



  

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