第9話:母へのトラウマ

 このままだと一之瀬いちのせさんが死ぬ。会長はそう言った。


「ど、どういうことですか?」

 おれは会長の説明を待つ。

 いきなり「一之瀬さんが死ぬ」と言われて正直ついていけなかった。

 一方で一之瀬さんがなにか体調に問題を抱えていることも薄々気付いてもいた。


 会長は、動揺するおれを眺めて楽しげに笑った。

 カチンときた。

「なに笑ってんですか」

「いや、すまない。君の反応が初々しくてね。むかしを思い出した」


 話を戻そう。会長は真面目な表情になった。

「君は大きなルールについては知っているかな? 『カロリーがもらえると仕事ができる』『仕事をするとカロリーがもらえる』というものだ」

「ええ、まあ」

「仕事にはいろいろあるが、異能もそのひとつだ。そして使用することでカロリーを消費する。ここまではいいね?」

「ええ、まあ、そうでしょうね。わかります」

「しかしだ。一之瀬君は異能によるカロリー消費量が大きすぎるのさ。ゆえに強力。ゆえに危険。本人にとってもね」

「そんなこと言われたって」


 おれは続く言葉を飲み込んだ。話のスケールが大きすぎる。正直、おれの手には負えない。一之瀬さんが死ぬ? そんなこと言われたって。


 瞬間、脳裏に閃く光景。

 急激に衰えてゆく母さん。食べても食べてもやせてゆく。口いっぱいに食べ物をほおばる母さんのまわりにはゴミ、ゴミ、ゴミ。大量のゴミ。ハエがたかる。

 もっと。もっと。母さんは満足を知らなかった。

 頭のなかにあるのは食べ物のことだけ。もうおれが息子ということもわからなくなっていた。


 口、大きな口が、おれの記憶にはっきりと刻まれた。汚れた唇が。食べ物をかみ切る歯が。口のまわりをなめようとうごめく舌が。

 母さんが母さんでなくなった姿が。


 息子の前では完璧な人だった。

 おれが自分の息子だとわかっているあいだは。


 おれは逃げ出した。


「そもそもカロリーってなんなんですか? おれのイメージしてたものとだいぶちがうんですが」

 やっとのことで疑問を口にした。そのときにはだいぶ時間が経っていた。


 会長が答える前にみか姉が戻ってきた。さあ、早く。

 促されておれは生徒会室を出た。

 ――このままでは一之瀬さんが死ぬ。

 会長の言葉が呪いのように尾を引いていた。



 小学校のグラウンドには、すでに大小のテントや調理器具などが設置されていた。手際の良いことである。生徒会メンバーによるものらしい。

 すでにあたり一帯の避難は終わっていて、子どもの声などは聞こえない。静かなものだ。


「しっかし暑いな」

 おれはペットボトルの水を飲みながらぼやく。

 夕暮れが近いというのに気温はまだ30度を超えている。

 アスファルトの臭いが強烈な真夏日だ。


 風が吹いているのがせめてものの救いかも。川沿いだけあって風の通りはいいらしい。

 周囲に高い建物はなく、この小学校がもっとも見晴らしがいい。すでに生徒会メンバーの一部が狙撃銃を持って屋上に展開した。このあたり一帯はいわゆるオープンフィールドとでも言おうか、狙撃銃にとって格好の舞台だ。


 モンスター・シイタケオはまだ動き出してはいないらしい。もし実際に進軍するとすれば、この小学校へまっすぐやってくるという。この風に乗って胞子があちこちに飛んでゆくことも考えられる。

 つまり。

(おれの料理が鍵ってわけか)

 責任重大である。


「なーに緊張してんの!」

 いつの間にか背後に回り込んだみか姉がおれの肩をもんだ。

 ひゃうっ? 反射的に変な声が出た。

 もみもみもみ。みか姉の手が絶妙な加減でツボを刺激してゆく。

「やっ、やめ、やめて……!」

「肩に力が入ってるよー、ほらほらほら」

「やめてー」

 みか姉のセクハラ攻撃はしばらく続いた。


「んで、みか姉は一体なにが言いたかったの?」

 おれ、涙目である。

 んー、みか姉は口元に指を当てて少し考えてみせる。

「特に深い意味は?」

「ないのかよ」

 ああ、もう。怒るだけ損だ。


 おれとみか姉がだべっているあいだにも本陣には資材が次々と運ばれてくる。食材も充分。座席の設置もさっき終わった。

(さて)

 おれはエプロンを着ける。おれの戦いを始めよう。


 クーラーボックスにはたくさんの食材が詰まっている。

「みか姉。酸っぱい物を作ればいいんだよね?」

「そうそう。目に異常が表れたときはかんが弱っているんだね。それで酸味がいいってわけ」


 ふーむ。おれは食材を眺める。

(酸味、酸味と)

 そういう観点で言うと、果物のなかで目立つのはレモンとグレープフルーツ。

(野菜で言ったら)

 うーん。どれだ?

 みか姉が背後からアドバイスする。

「あんまりギッツク考える必要はないよ。肝ってのはね、血を蓄える働きがあると言われてるの。だから肝が弱ると、イライラとか自律神経に不調が出るんだね」

 たとえば、とみか姉は身近なところで例を出す。

「調子が悪いなーって思ったとき、グレープフルーツを食べるとシャッキリしたりするでしょ? そういう感じだよ」

「そういう感じ……」


 考えていると、再鉄さいてつがひょこっと顔を出した。

「おお? なにつぐっか決まったべか?」

 見れば、生徒会メンバーも興味津々と言った表情でこちらを見ている。

 こんなにたくさんの人たちがおれの料理を待っているんだ。


 かつて、おれは自分の料理を試さずに逃げ出してしまったけれど。

 もう、あのときに戻るのは嫌だ。


(よし)

 メニューは決まった。

 みか姉、と呼びかける。

「まずはグレープフルーツのサラダで行くよ」

「いいね、酸味の王子さまって感じ」


 まずはグレープフルーツとレモンを絞る。そこへ砂糖、オリーブオイル、酢、粒マスタードを加えてと。

 そこへ続くのがかば焼きの缶詰。このタレが決め手だ。

 あとはレタス、トマト、パプリカを刻んで投入。缶詰の大豆もあわせて混ぜる。


「完成!」

 かば焼き入りのグレープフルーツサラダだ。

 盛り付けてテーブルに並べる。

「け」

 食べてください。


 おお。再鉄たちは目を輝かせた。

 それぞれテント内のパイプ椅子に着く。

 いただきます。いただきます。唱和して再鉄たちは一口、口に入れる。

 おれとしては緊張の一瞬だ。


 再鉄が一番早く反応した。

「美味いッ」

 うんめえ、うんめえ。再鉄はガツガツ食う。

 生徒会メンバーも好反応だ。

 みか姉も味見した。

「ソースが抜群に美味いね。かば焼きのタレがベースになって、グレープフルーツの酸味がいい具合に効いてる。そして大豆。大豆の優しい味がいい。箸休めじゃないけど、ワンポイント変わった味が混ざってるから飽きないよ」


(よっしゃ)


 みんなが喜んでくれるなか、ふっと一之瀬さんのことが思い出された。

 ――このままでは一之瀬さんが死ぬ。

 それだけじゃない。次第におれの知らない世界が明らかになりつつある。


 不意に風が強くなってきた。

 おれの不安は風に乗って空の高みへ。


 すでに夕暮れになっていた。茜色あかねいろの空が美しい。

 一筋の飛行機雲だけが鮮やかな白さを保っていた。

 飛行機が抱く大量の燃料、そこに含まれる水蒸気がよく冷やされたのだろう。今日の飛行機雲は一層きれいだ。残酷にすら感じる。


 巨大だ。空は巨大だ。

 おれはたったひとりで巨大さと相対あいたいしている。


 ぶるっ、と体が震えた。


 不意に手が温かいなにかに包まれた。

 みか姉の手だ。みか姉がおれの手を握ってくれていた。

「古宇」

 優しい目でおれを見る。

「古宇はいま、いい方向を向いてるよ。自信を持って」

「う、うん」

「カロリーってのはね、なりたい自分になる力だよ。ほら見て」


 おれの料理を食べる再鉄たちは実にいい顔で笑う。彼らがこれから向うのは戦場。

 ひとりひとりの顔を見る。

 みんな、戦士の顔だ。リラックスしながらも即応できるだけの態勢を維持している。


「アタシは知ってる。ここに集まってる子たちはむかし、戦いなんかとは縁がなかった。体を鍛えて、よく食べて。そうやってなりたい自分になっていたんだよ」


 じゃあ。おれは疑問を口にする。

「モンスターの肉でがんが治るってのは?」

「病気に打ち勝つ自分だって、なりたい自分のひとつだよね」


 だから、とみか姉は微笑む。

「みんなさ、なりたい自分があるから仕事をがんばるんじゃない? 少なくともアタシはそう。古宇の料理はね、その手助けができるんだよ。だって美味しいんだもの」


 再鉄たちが次々と皿を突き出してきた。どの皿もきれいに完食だった。

「おかわり!」

 いま、おれの料理はたしかに人を笑顔にしている。


 みか姉はまだおれの手を握ってくれている。

 おれは手に感じるぬくもりを握り返す。

 もう一度。もう一度、夢を見たっていいんじゃないか。


 ある日、母さんがおかしくなった。

 食べることをやめられなくなる病気だという。食べても食べても満足を知らないという。

「おれの料理の出番だ!」

 幼心おさなごころにそう思った。


 決意はしかし、母さんの姿を見て粉々に砕けることになる。すっかり変わってしまった母さん。いや、母さんの残骸を前におれは逃げ出すしかなかった。

 結局、母さんのために作った料理は、おれ自身の手によって捨てられた。


 いまだ思う。

 あの料理を食べさせたら、なにかが変わったのではないか、と。

 一方で思う。

 なにも変わるはずがない、とも。


 迷いは料理への姿勢にも表れていた。

 料理を一生の仕事にしていいのか。ずっと決められなかった。

 近づいては離れ。

 くり返す日々。


 おれは。思う。おれは料理を作ることが好きだ。食べる人に喜んでもらいたい。

 それだけでいい。それだけでいいんだ。


「みか姉、おれ」


 そのときだった。

 急報。

 山形派に属する生徒たちがシイタケオへの攻撃を開始した。

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