第2話:がんが治る?

「いやー、がんだってさ、がん。参ったねー」


 病室で親父はいつもの調子で笑う。

 体にはチューブが刺さり、なにかの薬液を点滴している。面会時間も五分と言われた。

 真っ白な病室には同じ色の死が満ちる。人の匂いはしない。刺激的な消毒液の臭いが人の存在感を漂白してゆく。


 なのに親父は変わらない。


「実は、実はさ、もうすぐ大事なお客さんが来る予定なんだよね。東京から」

 しかもだよ。親父はベッドから身を乗り出す。


「すっげえ美少女なの、美少女。楽しみだろ?」

「親父!」

 それどころじゃないだろ! と言おうとして声が詰まった。視界がにじむ。手の甲で目をこすると少し濡れていた。


 ピッ、ピッ、ピッ。

 医療機器の電子音が時を刻む。おれと親父のあいだでしばし言葉が途切れた。

 おれの胸にこれまでの日々が去来する。こみ上げる。

 一方、親父はあくまで能天気だ。理由が明かされた。


「まあ、アレだ。俺がなんで落ち着いてるか教えてやろうか?」


 親父は予想外のことを言い出した。

「実はな。治るんだよ。がんが。モンスターの肉で」

「え? 治る? がんが? ほんとに?」

「治る」


 えええ!

 それを早く言えよ、と思わず文句が出そうになった。


「んでだ。おまえには東京から来るお客さんといっしょにモンスターを狩ってもらいたい」

「狩りたいのは山々だけど、おれ、戦えないよ?」

「退魔で必要な人材はなにも戦士だけじゃねえ」


 いいか。親父は説明する。

「日本だと仏さまにお供え物をするのが珍しくないだろ?」

「うん、まあ」

「仏さまってのは入力と出力を担う端末なんだな。で、それにお供え物をするといろいろ返ってくるわけだ。おまえは得意の料理で後方から支援しろ。難しい話じゃないだろ?」

「まあ、だいたいわかったような」

「詳しい話は東京から来るお客さんに聞いてくれ」


 安心しろ。凄腕の退魔師だからよ。親父は笑う。

 おれはと言えば、これからの退魔を思うと緊張が出てきて笑うどころじゃない。


 説明が終わったタイミングで背後に人が立った。看護師だ。時間です。事務的な口調で言い渡された。

 不満はあったが、おれはおとなしく看護師に従う。

 廊下に出るともう夕方になっていた。


 窓辺に立って町の景色に目をやる。

 夕日を浴びた最上川もがみがわが美しい。キラキラと川面で光が遊ぶ。

 かつてこの町は最上川の水運で栄えていたらしい。おれが生まれるはるかむかしの話だ。その後、町にふたたび活気が戻ることなく現在に至る。

 最上川だけがむかしから変わらない。


 しかし、しかしだ。モンスターを退治していけば、この町だって復活の糸口がつかめるかもしれない。


 しかも親父は言っていた。

(治る。がんが。モンスターの肉で)

 一時は絶望しかけたが、希望はあった。

 退魔だ。やるぞ。


 となると、いっしょに戦う相手が気にかかる。


「どんな子なんだろうな」

 すげえ美少女だぞ、と親父は言っていたけど。


 そうやって考え事をしていると、足元でうーうーと鳴く声があった。

「ん?」


 妙な生き物が、いる。

 おれの足にじゃれついてんだけど。


「なにこれ?」

 ウサギ……なんだろうけど、顔が濃い。劇画タッチというやつだ。ものすごく背景から浮いている。


「なんかキモいな」


 そう言いつつ、おれはウサギに手を伸ばす。が、ウサギはするりとかわして逃げてしまった。む。意外とすばやい。

「おい、待てよ」

 おれはウサギを追いかけて走り出す。そうして曲がり角に飛び出すと。


 ポヨン。

 見知った人物とぶつかった。


「いたた。あ、古宇こうじゃない。もう、気をつけてよ」


 抗議の声を上げるのは多島みかね。近所に住むお姉さんだ。むかしから良くしてくれている。おれは親しみを込めてみか姉と呼ぶ。


「ああ、ごめん」

 謝りながらおれはみか姉の一部分に注目。曲がり角からシルエットが出てくるとき、まず胸からというのだから相当なボリュームだ。さっきのポヨンというのは胸がクッションになったせい。


 中学生のころを思い出す。

 たしか帰省中のみか姉が勉強を見てくれたことがあった。みか姉の胸が机に押しつぶされて形を変えてゆく。ときどき触れ合う体から体温が伝わってきて。

 あったかくて柔らかい。それがみか姉に対するおれのイメージだ。


 以上、ピンク色の回想でした。


 それはさておき。

「ねえ、みか姉。ウサギ見なかった?」


 さっきの顔の濃いウサギが見当たらない。

 ウサギ? みか姉もいっしょにあたりを見渡す。


「いないけど」

 それよりさ。みか姉が真剣な顔になる。


「おじさんの具合はどう?」

「うん、それが」


 おれは親父ががんであることを打ち明けた。あわせて、モンスターの肉で治るという親父の話も。

 みか姉に笑顔が戻る。


「良かった、治るんだね」

 良かった、良かった。みか姉はくり返す。アタシにできることならなんでも協力するよ、とも言ってくれた。ありがたい。おれはみか姉に感謝を伝える。


「送ってくよ。乗って」

 みか姉の申し出を受けておれは車に乗せてもらうことにした。


 ボ、ボボン、ボッボッボッ。

 中古の軽自動車が咳き込むようにエンジン音を響かせる。乗っててちょっと心配。

助手席の車窓から見える町はだんだんと暗くなっていった。


 車内で雑談が咲く。

 おれたちはとりとめのない話に夢中になった。いや、夢中になったのはおれだけかも。

 親父が倒れたという報から一転、退魔の世界に飛び込むことになった。興奮がおれにあるらしい。ついしゃべりすぎてしまう。みか姉は邪険にせず聞いてくれた。


 みか姉はいま、おれが通う高校の先生。みか姉がいる、と思うだけで登校する足が軽やかに。

 みか姉はよく笑う人だ。

 どこでも笑顔の中心にはみか姉がいる。

 そういう意味でもおれはみか姉にあこがれていたりする。


「おっそいなあ」


 赤信号を前にみか姉がぼやいた。トントン、トントントン。ハンドルを指で叩く。

 おれは助手席から信号を見た。たしかにさっきから赤のままだ。車は停車を余儀なくされている。

 道の先は暗い。未加工の闇がよどむ。


 このあたりはかつて広大な水田だった。いまは耕作が放棄されて荒れるに任せている。いわゆる耕作放棄地。担い手不足というやつだ。この町では珍しくない。


「あ、そうだ」

 みか姉は思い出したようにオシャレな小袋を取り出す。はい、これ。渡された。


「これ、なに?」

 開けてみると焼けた小麦粉の香りが広がる。クッキーだ。かなり美味しそう。

 みか姉が得意げに笑う。


「これ、今日の調理実習で作ったの。好評だったんだよ。家に帰ったら食べてね」


 うん、ありがとう、とポケットにしまった。

 それと同時に。


 ドガン!

 人が、車のボンネットに人が、落下してきた。


 フロントガラスに派手なヒビが走る。


「え、え、ひとおおお!」

 みか姉はパニック。

 おれは言葉が出てこない。ボンネットの人をただ凝視する。


 セーラー服の少女だ。長い髪がボンネットの上に広がる。おれとみか姉が見つめるなか、ズルズルと道路に転がり落ちていった。


 ど、ど、どげすっぺ。みか姉は混乱のあまり地元の言葉に戻っていた。


ひど、ひいぢまっだ」

 一応、車は停車していたが、人をひいたことになるかも。報道次第で。

 交通事故。報道。失職。みか姉が青い顔で不穏な言葉を続ける。


 が、みか姉にかまっている状況じゃない。


「大丈夫ですか!」

 おれは助手席から車外に飛び出した。

 少女に駆け寄ろうとする。

 むくり。少女が何事もなかったように立ち上がった。大丈夫です。手でおれを制す。たしかに大丈夫そうだ。


 おれは少女を改めて見る。

 セーラー服は白と紺というオーソドックスなタイプの夏服。首元にはチョーカーに吊るされた逆十字が光る。


 なにより。

 手にぶら下げた手斧が異様に目立つ。


 夜、手斧を持った少女が車にぶつかってきた。状況はかなりホラー。少女が整った顔立ちなのもホラー要素だろう。

だけど、だけどおれは、恐怖を感じていない。

(この女の子……)


 何年か前、親父の食堂で一度だけ会った少女が、美しく成長して、おれの前にいる。

 そう確信した。


 よみがえる。

 過去が。少女と出会った夏の日が。



 からりと晴れた夏のある日、おれはひとりの女の子と出会った。


 当時おれは小学生。長い夏休みにかなりダレていた。

「飽きた」

 そう言って宿題を投げ出すと、おれはトテトテと母屋から抜け出し、店に足を運ぶ。店はおれの遊び場の延長上にあった。


 特別な店ではない。親父が経営するのは小さくてボロい大衆食堂。

壁には水着のお姉さんのポスターが貼ってある。ずいぶん古い。タバコのヤニで真っ黄色だ。


 店にはいろいろな客がやってきた。

 小さな町のちょっとした社交場。いつも人の匂いが感じられた。

楽しい雰囲気には力がある。子どもだったおれはその力に当てられたんだと思う。


(今日もなにかお話、聞けるといいな)


 漠然とした期待を抱きながら食堂に入ったとき。

 少女が、いた。初めて見る子だった。歳はおれと同じくらいだろうか。


 きれい、だった。


 たぶん両親にでも連れてこられたんだと思う。はっきりと思い出せない。それくらい視線は少女に固定されていた。


「きれいだ」

 同じ感想をくり返す。

 長い髪が濡れたように光る。暗黒めいた黒髪のなかで星々がまたたく。

 彼女は大人用の椅子にちょこんと座って親父の料理を待っていた。待つ姿はすごく大人びて見えた。


 ときおりメタリックな色彩の瞳がこちらに向けられる。そのたびにドキドキした。

 ある意味で、おれは盲目になっていたかもしれない。彼女以外、目に入らないという意味で。


 息苦しい時間が加速してゆく。

 彼女に言葉をかけることがためらわれた。いま自分が抱く気持ちの名前も知らなかったと思う。初めての感情だった。


 だから親父が現れたとき、正直ホッとした。

 テーブルに載せられたのはカレーライスだ。小麦粉の粘りと香りが強いやつ。カレールゥと白米のコントラストが実に食欲を誘う。


「いただきます」


 少女はまず手を合わせてから食べ始めた。一口、口に運んだ瞬間、少女の顔が生気を表す。

「おいしい、おいしい」

 勢いよく料理をがっつく。食べる姿は子供っぽくて愛らしい。あっという間に完食。いい食べっぷりだった。


「ごちそうさまでした」

 食べ終えた少女はまた手を合わせた。律儀だ。

 食事に感謝できる女の子。それがわかったことでさらに惹かれてゆくのがわかった。

 魂が星の引力につかまる。逃げられない。落下する。恋に落ちてゆく。


「あ、あの」

 おれはありったけの勇気を振り絞って少女に話しかけた。

 一体なにを話したっけ?

 結局、少女と仲良くなったわけじゃなかった。まあ、よくある話。少年と少女が出会ったっていきなり物語が始まるわけじゃない。


 一方で、おれの進む方向が明確に定まった出来事でもあった。

 料理っていいなあ。そう思えた。親父の店を継ごうと決めたのはこのときだ。


 人と人が出会う。同じ時間を共有する。

この店はそれを提供する場所だ。黄ばんだポスターが輝いて見えた。


 人を笑顔にする料理を作りたい。

 これがおれの原点になった。



 そして数年後、おれは少女と再会した。


 手斧を持って自動車にぶつかってくるという謎な感じで少女がまた現れたわけだけど。

 夜の闇でも鮮やかな黒髪。そのなかで見た星のきらめきを、おれはまだ覚えている。

「君は……」

 少女に呼びかけようとしたとき、なにかがおれたちの横をものすごい勢いでよぎった。

 え、なに? それを目で追ってあ然とする。


 マグロの大群が空を飛んでいた。

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