三章(12)

 何かが溢れ出るのを感じた。心、とでも言うべきか。心臓なのか、脳味噌なのか。体全身かもしれない。体が焼けるように熱い。極度に緊張したとき、心臓をお湯につけられたような、不快な熱さを感じることがあるが、それが全身にまとわりついている。


 自分でも分からない。何が不愉快だったのか。


「大丈夫だよ」


 気が付いたときには、秋野に抱き着いていた。いや、そんなに美しいものじゃない。しがみついた、と言った方が正しい。秋野の血が、僕にもべっとりと付着する。二人の体が倒れる前、秋野の人差し指が弾いたタバコが、綺麗に流し台に落ちるのを見た。


 優等生なんだ、ほんとに。


「大丈夫あの、それと、ごめんね。勝手に大人になっちゃって」


「いや、うん。そうだね」


 煙草如きで大人になったのかとか、そんなこと僕には関係ないとか、いつものやつが出そうになって、慌てて飲みこんだ。いきなり背中から倒された秋野は、相当痛かっただろうに、僕なんかの心配をしている。


「許してほしいの」


「いやだ。絶対に許さない」


 そして何故か主導権が僕にある。

 何だろう、楽しい、嬉しい。そんな言葉しか出ない。人付き合いが苦手だと、感情を表す言葉すら出ないのだろうか。


 それでもいい。


「これから大人になるときは、一緒じゃないと許さない。勝手に大人になるなんて、そんなの絶対に許さない」


「分かったの。有川君……いや、敬」


「……敬、敬ね」


 違和感が消えた。僕は、そうだ、俺は敬だったんだ。

 今までも、そしてこれからもずっと、そうなんだけど、なにかすっと受け入れられた気がする。


「嫌なの?」


「いいや、敬だよ。出席簿にも、書いてあっただろ」


 いつもの口調が戻ってきて、それでやっと正気になれた気がする。煙草の匂いと、秋野の匂いと、僕の部屋の匂いが混ざって、なんだかもうよく分からない。


「浅倉さんも言ってたしね」


「おい、やめろ。他の女の名前出すんじゃない」


「そういうのって私が言うものだと思うの」


 煙草の灯の消えた、薄暗い部屋に二人の笑い声が響く。変な話だが、今、僕は生まれたような気がする。そんな晴れやかな気持ち。他に何も要らないと思えた、あの時の自分にようやく帰ってきたような。


「敬がこんなに情熱的だったとは、思わなかったの」


 しがみついたままの僕に、されるがままの秋野が告げる。


「自分でもびっくりだ」


「それでも離さないんだね」


 当たり前だ、誰が、もう二度と、離すものか。


「それでそれで? 煙草はもうやめるのかな? あ! 私がお手本を見せるから、吸うところを見せてあげるの」




 こいつ、煙草が吸いたいだけなのでは?

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灯のないところで 石嶺 経 @ishiminekei

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