三章(3)

 逃げるように、教室から出て行く浅倉。


 心臓が、痛い。


 まるで胸のあたりにネズミが居て、今にも食い破ろうとしているような。

 落ち着け。落ち着くんだ。

 浅倉がどこかに行った今、この教室に僕は一人だけだ。

 誰かに見られることはない。


「……ふっ、ふぅー、ふぅー」


 呼吸を整えろ。平常心でいろ。

 相田はともかく、他のクラスメイトに見られでもしたらどうするんだ。

 ただでさえ腫物扱いの僕が、それによって一種の平穏を得ている僕が、そんな僅かなきっかけで扱いが変化するかもしれないじゃないか。


 虐められるとか。


「……くっ……ふう、ふぅー」


 ネズミが大きく跳ねる。

 手が冷や汗でぐっしょりだ。

 落ち着け、落ち着け。クールダウン。


 汗をズボンで拭い、鞄に顔を沈める。静まってくれ。

 息苦しさと、真っ暗な視界が心を落ち着かせてくれる。


「…………」


 なんか、鞄から甘い匂いがする。

 香水を掛けた覚えなんかないし、買ってから一度も洗っていないのに。そもそも、洗える素材なのかこれ。それにしても、さっきの僕、なんか獣みたいだったな。威嚇してる犬みたいな。


「…………あれ」


 思ったより、落ち着いた?

 本当に駄目そうなら、もう帰ってしまおうと思ったのに。

 鞄セラピーとして売り出そうかな……うん、いつもの茶々入れも復活している。本当に大丈夫っぽい。


「……」


 少しだけ顔を上げてみる。

 目を力いっぱい抑えていたため、黒板に、天井に、カラフルなチカチカしたものが飛んでいる。


 浅倉も帰ってきていないし、相田も、秋野も居ない。


「……そっか」


 自分でも何かよく分からないけど、物足りない気分になって、また顔を埋める。

 甘い匂い。

 ああ、これ、あれか……。


 ――ガラガラガラ。


「おはよう」


 タイミングよく扉が開いて、秋野が入ってくる。


「……うん」


 もっと気の利いた返事はないのかよ、とつくづく思う。うん、はないだろう。おはよう、ってそのまま返せばいいだろ。オウムでも出来るぞ。


「元気ないの? 早く来ちゃって眠いとか?」


 教科書をテキパキしまいながら、こちらを見もしないで言う。

 言葉だけで分かるのか。いつからそこまでの間柄になったっけ?


「そうでもないけど、まあ、嫌なことがあったというか」


 いや、嫌なことなのか? 誘い自体は嬉しい、というか、こんなこと思うのも失礼だな……自惚れすぎか?


「…………」


「またやってる。変だよ、それ」


 まあ、格好良くはないだろうけど。反射的なものなんだ、許してくれ。

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