一章(7)

「まぐろ」


 後ろに立った僕に気付いたのか、秋野が急に呟いた。

 鮪?

 腹でも減ったか?


「この子の名前。まぐろ」


「ああ……変な名前だな。秋野がつけたのか?」


「いや。近所の子供が呼んでるのを聞いたの」


 秋野がすくっと立ち上がる。黒猫はその場に寝転んで毛繕いを始めた。


「ふうん。真っ黒だからかな」


「もしくは、ツナが好きなのかもね」


 今度あげてみようかな、と秋野。

 何でも良いけど。


「なあ、手帳取るなら早くしないか」


 さっきの相田のことも有って、なんか人目が気になる。


「私と居る所、見られたら嫌?」


「嫌って……」


 何だろうこいつ。どこでフラグが立ったのだろうか。昨日からでここまでになるか?

 人の機微が分からない僕ではあるけど、それしたって異常だ。


「うそうそ。冗談。じゃあ取りに行こうか」


「そうしてくれ、っていうか直ぐそこだけどな」


 少し先のアパートを指差す。外壁は藍のような、紫のような奇妙な色をしているのだが、この時間だとさらに判別は困難だ。


「良い家だね?」


 何で疑問系なんだ。


「確かに一人で住むには広いな」


「……一人?」


「ああ、一人暮らし」


 喋りながら歩いているが、距離が短いため、既に敷地内に入っていた。

 僕は入り口から直ぐのところにあるエレベーターを呼び出す。ボタンが鈍く光り、くぐもった音が聞こえる。


「何か悪いこと聞いた?」


「いや、別に」


 トラウマに成る様なエピソードが有る訳でも無いし、その反応は過剰すぎる。こっちが申し訳なくなってくるくらいだ。

 レンジの様な音がして、エレベーターの扉が開く。まず僕、ついで秋野が遠慮がちに入って扉が閉まる。僕がボタンを押すと、今度は七という表示が光る。


「最上階なんだ?」


「そんな良いもんじゃないけどね」


 秋野が眼を輝かせているが、偶々そこしか開いて無かっただけだ。自殺のためですらない。

 ぐいぐいと体が持ち上げられるような感触がして、一気に七階まで辿り着く。下に行きたい誰かが他の階で待ってることも無かった。あれは結構びびる。

 扉が再び開くまで、二人して黙っていた。こいつも疲れたのかもしれない。まあ、敢えて話題を振るような場面でもないか。沈黙を破ることなく歩き、自分の部屋の前まで来たところで、荷物を持ったままポケットの鍵を探る。この時だけでも持ってくれたらいいのに、秋野は何も言わない。

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