11 : Punish
(グラハムの野郎俺を置き去りにしやがって……)
触り心地が良さそうな白い素足のミドルキックの軌道を見て両腕でガードを選択した。
だが、ベルは脳天にショックを受けた。股関節の曲がりで蹴り足を途中から垂直に振り下ろす事で不意打ちを決め、イザベルは頭頂部を押さえる敵の姿へと百八十度回転、後ろ蹴りを胸に決めた。
枕程もあるイモ類の葉の茂みに突っ込み、間もなく千数百度まで急激に熱せられた空気が生きた緑をたちまち炎に化かす。
「俺をカルアポークにする気か」
「いいや、もっと焼いて肥料にする」
立って苦い煤が絡んだ唾を吐き捨て、気管支炎患者の気分を味わうベル。鼻の下の無精髭を落ち着かないように撫で、向かい合うはにんまり笑う若女、細い指先を組み、鳴らす。
「悔い残したかねえ、全力でいかせて貰おう」
肩を上下したまま乳酸の残る肉体に鞭打ち、ほぼ半身の回転だけで繰り出す左フック──上体を後方に傾けたイザベルの鼻先五センチメートルの空気を虚しく殴る。
ショートヘアを揺らす女性は後ろ足の反発を合わせてスウェーカウンターを決めようとした。
ボンッ!――風船が張り裂ける如き突風がイザベルを押し返し、互いの距離三メートル。
「切り札は最後まで取っておくもんだが、出し惜しみし過ぎたなこりゃ」
音速を超える拳打で生じる衝撃波を一方向にレンズのように纏めたのか──攻めっ気が失せた一瞬の思考の隙に右拳を真っ直ぐ。
ボフッ──赤いショートヘアーが大きく揺れ、耳の奥深くまで届く不快な痛み。
しかし所詮は空気の振動だ──両足で踏ん張った女性は歯ぎしりと同時に右拳。
分かってんだよ──疎密の繰り返しで空気の壁を作り、華奢な拳骨が潰れた。驚いて瞼が大きく開くのを視界の中央に据え、右肩を前へ。
「うガッ!」
「あつァッ!」
片や最短距離かつ最適のフォームで放たれるストレートを、片や一瞬の加熱で感覚神経が焼けるのを、それぞれ受けた二人。
痛み分けに額を抑えつつも一矢報えたとイザベルはニヤける。一方でベルは手首から先をさすり、すっかり笑みが消えている。
自然発火したツタの火が、男の赤く腫れた手を示している。ジワジワと蝕む痛みを余所にベルは、鼻柱を折らんと迫るアッパーを無事な方の手先で掴んだ。
威力を殺し切れず鼻が痛いが下に引き寄せる。そして彼は口を開いた。
「おあぁっっっっっ!!!!!」
至近距離におけるジェット機の騒音の数倍にも匹敵する大声が頭蓋骨どころか背骨まで震わせた。
「うるさいっ!」
鼓膜を無理矢理シェイクさせる低音に対し音源を強く見据え、掌底でガパリと開いた口を強引に閉じる。両足で蹴って強制的に距離を作り、月夜に不揃いな相手の歯並びが浮かんだ。
「おいおい歯が抜けちまったぞ、インプラント手術代賠償してくれよ」
「セクハラの罰が当たったんだよ。死刑執行してあげよっか?」
「じゃあ俺のロックを聴きな。ロックは死んだ」
そう吐いた黒髭はゴツゴツした傷だらけの手を前に――見えない輝きが彼の周囲を覆う。
本能でイザベルは前へ――斜め四十五度両側から共鳴する音波の挟撃を背に受け、ダッシュ。来るな、とばかりに翳されている手を見て足を前に体を沈め、スライディング。
突き上げるような地震がイザベルを黒土から浮かす。それを見越したように宙で前に一回転、弧を作る足先が鼻先に近付いてくる。
この中年オヤジが操る音波というものは、秒速三百四十メートルを超えるトランセンド・マンにとっては遅く、音単体では並みの人間さえ気絶させる程度の威力しか無く、顕微鏡の世界を緻密に操る事も出来ない。
精々クジラと会話出来るだけだろ、と同僚からからかわれた事もある。敵艦隊のちょっかい掛けからトランセンド・マンの小娘一人の足止め要員にされる程度にしか上層部に期待されていないとも勘付いている。
だが、コンサートホールの反響を考える建築士と同様、ジェフ・ベルは音という物理現象を扱うにかけては誰にも負けぬというプライドがある。
今までの攻撃は外れたが、計算通り。音は条件さえ整えば流体中でも反射が出来るし、エネルギーを司る素粒子の力を借りればその条件を好きなだけ作れる。この女は攻めっ気が強いと想定して今までの音波が反転し、ベル自身の一メートル手前に来た所で全て重なる布石を置いておいた。
音波は合成次第で威力を増す。暴動鎮圧用圧縮空気砲を軽く超える事は実証済み。超能力者であれども聴覚器官への著しい損傷は免れまい――掛かった!
ボゴン!――ベルは浮遊感を覚えた。予定に無い音に彼の誇りと自信は崩れ落ちた。彼が得意とする音は一斉にガジュマル林や崖の如く広がる溶岩の起伏に吸収された。
足元が熱い。俯くと、泥と熱せられた水蒸気が顔面に襲い掛かる。
火傷に触覚を潰し、気化によって体積を一千倍にされた水分子の群れで目を潰され、思考が止まる。その頭蓋を目覚まし時計のようにイザベルの靴底が押し落とした。
縦回転踵落としを決めた赤毛の女性は土下座ならぬ土下寝した中年男を見下し、焦げ茶に染まった顔面がそれを物悲しげに見上げる。
「畜生、結婚しないまま死ぬのか俺は……」
「このまま生き続けても無理だと思う」
イザベルの出すアルトボイスが更に一オクターブ低くなった。左手を腰を手に当て、右掌を跪く中年男性へとゴミを見る眼差しと共に差し伸べる。
熱帯性の森の一端は炭素と水素と酸素の結びつきが朱に染める。未熟なスパイスの実が花火さながら橙色に弾け、火柱の中心で人影が跪いた。
周囲のシダやポトスどころか、足元の濡れた落ち葉までもが酸素と化合し、黒煙となって湿った空気に消える。
力ない悲鳴は燃焼にかき消されてしまう。熱はとうとう服をも燃料に変え、無慈悲に肌を焦がす。鈍く重い激痛が全身を回り始めた。
「お前の……セクシーな足を、拝めたのを……冥途、の土産に……する、ぜ……」
橙色のオーラの向こうにニヤついた白い歯が輝く。炎に照って赤毛が陽のような女性はそれをムスッと睨みつけ、断末魔の叫びは次第に薄れていく。とうとう火の音だけしか聞こえなくなり、うずくまる黒い人影はピクリとも動かなくなった。
三十六時間に渡る睨めっこが終わり、やっと一息。見下ろすと、タンクトップどころかデニムのショートパンツ、そしてハワイの日差しにも負けぬ白い手足まで、緑っぽい泥にまみれている。
人の形骸はすっかり消えた。炭が多くどことなく暗い焚き火は一変、バーナーのような高さ一メートルもの火柱を産んだ。朝日の如く鮮やかな燈赤の炎色がイザベルの小さな森林を包む。雨露に冷えた袖無しの体が遠赤外線に温もる。
ザッ――九十度切り替え、身構えた。
「うわあ待って待って!」
そこのバニヤンの後ろから姿を出した人影は、素っ頓狂に両手を広げて敵意が無い事を示した。
薄暗くなりつつある焚き火によってオレンジに染め上げられた金髪が見える。エメラルドグリーンの目は丸っこく、背もイザベル自身と比べ数二、三インチは高いが平均男性よりは劣るだろう。
細い、という印象は見受けられないが、彼女の周りの男に見慣れたからなのか、黒系統の戦闘スーツが彼の身を引き締めているのか、少なくとも彼には戦士としての威圧感がまるで感じられない。
しかし、背格好からはみ出る大きな折り畳み式ライフルが彼をただ者ではないと証している。彼こそあの時敵援軍をこの大筒で、しかもたった一撃で斃したに違いない。
「僕が手伝うまでもなかったかな……」
「そうでもないよ」
少なくともこの少年……もしくは女々しい青年は二人を仕留めた筈だが、不快さを与えぬニコニコした形相からは血生臭さなど一切無い。巨大な槍の如き筒とのギャップに焚き火で温まった顔が冷えていく気がした。
今度は自身を見下ろす。視線は茶色の染みが付いたタンクトップを押し上げる胸の膨らみを超え、腹斜筋のラインがウエストを細く見せる腹や大腿筋の凹凸がヒップラインを押し上げる脚が焦げ茶の泥に汚されているのが見える。
熱で水気を飛ばして固まった泥を手で払っていき、塵埃まで分解された土は大地に還った。見渡し、近くにそびえ立つ苔むした火山岩にもたれると、ウエストポーチに手を突っ込み、現れたのはウエットティッシュ。
やがて炎も弱まり、残ったカルシウムの白い灰はジャングルの土壌と化した。空間熱操作での冷却も念入りに行い、燻った炭火を完璧に止めた。保全林が再び燃える心配もなかろう。火事の建物内の熱を一気に奪う消火活動を普段から行う彼女にとっては朝飯前だった。
「怪我は無いですか?」
「ん?……まああたしは大丈夫だけど」
「なら良かった。疲れてませんか?」
再び自身を観察するが、切り傷は既に塞がっており、打撲跡も白い皮膚に戻っている。除菌シートで粉状に残った土を拭き取って、露出している丸い肩を数回回し、ストレッチが終わった所でようやく答えた。
「平気、さっさと行こ。あと敬語使わなくていいよ、何てか苦手だし」
今度は電解質ミネラル補給ゼリー飲料の飲み口を咥え、握力で潰して一気に押し込む。癖のないブドウ味の人工甘味料が舌の上で拡散し、暗闇に霞む目が視力を取り戻す。空腹に唆られたカイルもキノコが生えた倒木に腰掛け、持参のプロテインバーを一囓り。
「その代わり……さっきは助けてくれてありがと」
「ハンさんに頼まれただけだよ。それに僕も一応助けられちゃったし。こちらこそありがとう」
「ハンの奴かあ……いつもお節介なんだから。親父かっての」
「面倒見が良いんだよきっと」
照れたようにそっぽを向きながらの感謝に、早速砕けた口調で穏やかな愛想笑いをカイルは向ける。普段からの丁寧な言い方は流石に抜けきれないが。
「……そういえば今敵の動きはどう?」
「殆どを西海岸に追い詰めてるけど、遊兵での奇襲を繰り返しているね。もっと貫通力のある武器が欲しいかな……」
「だったらあたしに任せてよ。建物ごと燻製にしたげる。一応透視も得意だから」
「ありがとう。でも民間人も混じっているから気をつけて。僕が区別を手伝うよ」
得意げに腕に力こぶを作るスペイン系女性は尖りのある目線をにんまり、丸っこい目が特徴的な中性的童顔にも笑顔は伝染した。
「そういや、名前は?」
「カイル・ウィリアムズ。君はイザベル・イグレシアでしょ?」
「あたしを知ってるの?」
「データベースの情報くらいはね。味方くらいは知っておきたいよ」
当たり前のように喋られてイザベルは「見た事ないや」とポカンと口を開いていたが、対する青年は温和な表情のまま気にする素振りも無い。
微かな羞恥心を払うよう、自分の顔を掌でピシャリとひっぱたき、仄かな冷たい風で頭を冷やす。
「カイル、ハワイは初めて?」
「だね。あまり知らない事が多いな……」
気を取り直して質問。フレンドリーな笑顔は変動無しだが、明らかに自信を失った声。
「何か困ったらあたしを頼ってよ。ここなら五年くらいも居るからさ。恩返しくらいさせて」
「頼もしいな。恩返しは僕の方こそだよ。レディファーストも兼ねてね」
得意げなイザベルは胸元に手を当てる。談笑を重ねている内に二人の口元は綻んでいった。
イザベル・イグレシアこの女はトランセンド・マンとして、戦士として生きてきた。花を摘むより野球をする方が好きだとも自覚している。
兵士として扱われる事は慣れている。彼女に優しい人物も少なくはないが、それは友人や同僚としての付き合いだ。
が、レディ呼ばわりされた事は記憶の限り今回が初めてだった。だから彼女は驚いていた。
自分の事は自分で──それが彼女のモットー。戦闘で要請を受ける事は多々あり、能力の特性上誰かを援護する役柄が多い。護身の為に柔術やボクシングも身に付けた。
故に、遥か離れた狙撃とはいえ、「守られる」という体験も、彼女の実戦経験がまだ浅いからか滅多に無かった。ましてやこれら二つの要因が絡むとなれば。
一方、目つき口元を緩やかなUの字に変えているシャープな女性を見てカイルは頭上にクエスチョンマークを浮かべていた。それを知った赤毛の女性は何故かニッコリし、
「……ふーん、それってあたしを女だと甘く見てるって事?」
「い、いや……そういう訳じゃあ……」
「分かってるって。でもありがと」
裏腹を知る由もなく、金髪の青年は萎縮してしまった。反応を見て吹き出す赤毛の女性だが、嬉しさが溢れんばかりの笑顔の理由を青年が知る事はなかった。
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