10 : Impossible

 地面に掌底を突く反動でスライドした隣、敵はぬかるみに浅いクレーターを作ってうつ伏せに倒れていた。


「……な……何、を……」


 泥にまみれた顔は真っ青に瞼が開き、近くのガジュマルの根を手すり代わりに這い上がるも不安定さに震えている。まるで二足歩行の方法を忘れたようだ。ナイフを握る手も小刻みに震え、やがて腐葉土の上に落としてしまう。


 トランセンド・マンは自身をエネリオンのシールドで包み、外部からの物理・生理的苦痛を干渉するが、普通の人間が規格外のフラッシュや爆音によって感覚器官が一時的に麻痺するのと同様、超越者自身が普段扱う以上のエネリオン――出力可能なエネルギーの数秒分を撃ち込まれれば、感知・変換機能が一時的に低下する。


 カイル・ウィリアムズは自分が兵士としての義務を果たさなくてはないと考えているが、身体能力はトランセンド・マンの平均以下だと自覚している。だから、並外れた情報処理能力を以てスナイパーを特技とし、最小限の動きで敵を制する武術を覚えたが、単純に実力差のある相手には通用しないかもしれない。


 このトランセンド・マン無力化銃もそんな悲観から来たものだった。プログラムを自ら書き込み、ハードウェア開発を反乱軍技術部門の力を借り、完成させ、今こうして実戦を生き抜いた。


 近接か銃か――覚束ない足取りでバランスを取る相手を見て右ストレートを選択した。


 視界が白くなるような目眩と耳鳴り。堪え、震える拳を精一杯真っ直ぐに突こうとするが、カイルはそれを下へ引き、両拳を顔面へ連打。


 顎への肘フックが管理軍の人物をダウンさせる。記憶が飛ぶような激痛だが、ぬかるんだ土の上でガクガクの四肢を引きずって逃げようとする。金髪の青年は容赦なくそれをサッカーボールのように蹴飛ばした。


 成長したアカシアの幹に背中を体当たりされ、無慈悲にも追い掛けてくるのを壁にもたれかかったまま確認する。だが体が言う事を聞かない。滅多打ちに脳を四方八方へ揺らされ朦朧とする意識では腕のガードも上がらない。


 右フックの威力を無気力で受けたあまり、横に五メートル吹き飛んだ。横に伸びた何かの太い枝が後頭部を抉り、泥を跳ね散らかして伏した。


「おおっ……オオオオオッ!!!!!」


 叫びで苦痛を誤魔化す。痺れる五体を叱咤し、次の攻撃を防ごうと近くの蔦植物を引っ張って強引に二足歩行に戻した。


 距離は一メートル。殴り方を思い出しながら、踏み込んで肩甲骨もろとも大振りに拳を投げる。


 雑な打撃はカイルの頭半分を覆う肘の上で止まり、もう片腕で振り上げる肘アッパーが襲撃者を脳震盪にさせる。


 背後でバナナの木が倒れる事を許さず、一歩一歩追い詰める金髪の青年が嫌でも目に入る。歯ぎしりと同時に体幹の回旋で右フックを繰り出す。


 次の瞬間、目の前に居た筈の小柄な青年は消え、拳は湿った密林の空気を裂いた。ワンテンポ遅れて足元に痛みが襲う。


 屈んで肘打ちを膝関節に炸裂させたカイル。同じ体勢のままグラリと揺れる人体のもう片膝を踵で蹴り折り、跪いた所へ肘でフックを決める。


 だが決定打には至らず、手を着いて素早く立ち直った男は小柄な影を捉え、クラウチングスタート。


 質量八十一・九キログラム、秒速百九十六・三メートル──エネルギー量にして一五七七キロジュール、即ち歩兵小銃弾六百六発分以上。


 対処の余地も無く、片足を引き上げられつつ腰を狙う低いタックルはカイルをぬかるんだ大地に叩き付けた。


 今までの不満を爆発させ、左右の拳の雨を休まず降らす。


(三十秒が限界か……)


 試作兵器のマイナス評価を頭の片隅に両肘を掲げてマウントパンチの傘代わりにするが、柔らかい地面に体が沈むのを感じる。


 では──首を覆うように肘を突き出し、先端が拳骨の出鼻を挫く。暗闇でも瞼を見開いて動揺する動きが判った。


 拳のスコールが止んだ所で下の青年は真上の後頭部を両手で掴み、引き寄せて頭突き。堅い物体が凹む感覚がした。


 両手で力の限り押し飛ばす。斜め四十五度に放り出された敵に視線を合わせ、背中側のヒップホルスターに入ったグリップを握り、引っ張ったその時、


「あてっ!」


 身体を丸ごと揺らす低音、甲高く不快な高音、鼓膜や平衡感覚を狂わす超高波……異なる周波数の音が複数の方向から聞こえる。握る手が緩み、一度は手にしたショットガンは何処かへ消えた。


(音響能力か?)


 暗い熱帯林の景色が歪む所、思索を巡らせる――感覚を体の外へ引っ張り出す。見たいもの、感じたいもの――一定以上のエネルギーを持つ物体だけを念じ、他を排する。邪念を払う、といった所か。


 四キロメートル以上離れた密林で、エネリオンの弾丸を撃ち合う二人。その内動きの鈍い男性の方――以前のロサンゼルス襲撃においてこの音響能力者のデータは頭に叩き込んであったが、ここまで遠距離の戦闘に適しているとは……この距離で正確に狙えるのは賞賛に値するが、決定打には程遠い。


 だが愛用のライフルを失っている以上はこの空間を埋める術が無い。拳銃は二百十二・三度方向、七・六メートル先の木の根元。ライフルは更に遠く……会ったこともない仲間を信じるしか方法は無さそうだ。


 一方、しゃがみ込む相手の青年は耳元の通信に話し掛けていた。


『あんなヒョロっちい若造くらい倒せんのか』

「お陰で目が覚めたぜ、ベルだけにな」

『生憎だがこれ以上援護は出来そうにない』

「お前も小娘一人黙らせられねえのかよ」

『お互い様だ。達者でな』

「お前こそ痴漢で訴えられんようにな」


 息切れのある仲間――ジェフ・ベルの気弱な喝に、宵に彩度の消えた鼻血と充血した目を拭った。靴に手をやると、小ぶりなナイフが手の中に。


 一方、カイルは僅かに森の隙間を潜る月光が刃先で煌めいたのを見るなり、戦闘ズボンを支えるベルトを引き抜き、左右に金具を往復。


 煌めく先端を前にリーチの無い敵はたじろぐ。空振りを続け、今度は前進と合わせて円形を描く。


 不規則な円を描くバックルを瞳の中央に据え、得物を上に跳ね上げる──ナイフを中心に回り込んだ人工革紐の前半分が後頭部で鈍く鳴った。


 傷が軋む体を奮い立たせ、ナイフを一直線。しかし、腕は何故か途中で止まった。


 見下ろすと、小柄な青年の腹に辿り着く前にベルトが腕に絡みついている。仕方なく素手で応戦。


 だが、両腕ともベルトに封じられ、無防備な上半身に……やむを得ずハイキック。


 体勢を低く、蹴りを避けながら一歩踏み込む。カイルの体当たりは片足の襲撃者の正中線へ正確にヒットした。


 革紐と一緒に五メートル後ずさる男を確認するなり、反対方向へ走る。野生化したナンキョウの茂みに隠れた散弾銃を発見した。


 ふと、背後から高速の殺意──前に倒れて回避、掌で弾力の無い湿った黒土を踏むと同時に頭上で寒気がした。


 残り二・五六メートル。が、ここは振り向く。サブマシンガンの引き金を引く敵が居た。


 それでも足を止めず、銃を拾った。ククイの大木を盾に弾幕をやり過ごし、散弾銃を両手に、念ずる。


 湿った木屑の飛散音をバックグラウンドに、八千百立方センチメートルの体積を持つ人型のエネリオンの塊が残り三メートルを切った。


 木陰から一か八か――手のグリップがヤドリギの如く精気を吸い上げ、脳裏に照準を決め、後は……


 バチッ!――暗闇に揺らめく影の足元がオレンジ色に光った。


 中の肉までじっくり火を通さんとする熱気、水気の多い雑草による不完全燃焼の灯火、煤のツンと来る薫りが五感を現実に誘う。


 こちらに接近していたエネリオンの人型は射線に入る前に止まっていた。意味を成さない悲鳴も届く。


『さっきのお返しだよ!』


 突如低めの女性の声を鳴らす耳元の通信機。


 思索を伸ばすと、先程敵の音響合成を受けた方向、同じ所属の女性――手を差し出しているのが、神経に沿う素粒子を通して分かる。


(ありがとう。逆に助けられちゃった)


 お礼を心の片隅に、一瞬を逃さず上半身だけを大木の幹から出し、両腕を伸ばしてソードオフショットガンを突き付ける。


 音は無い。火薬の臭いも反動も、マズルフラッシュさえ無い。だがそこにある。


 見えない円錐形の放射の殆どを浴びた人体は無言で膝から崩れ、四つん這いに倒れた。


 悪足掻きにサブマシンガンの引き金を引いても、何も出なかった。呼吸と同様に意識しなくても出来る筈だったのに。


 手足も重力に逆らえず、ただ泥土の上から動かない。まるで今までの超越者としての力が嘘だったかのように何も起きない。


 血走った目で脳の命令を受け付けない自身を見詰める。いつの間にか長いライフルを拾ってきた十センチメートルは小さい筈の青年を眺めて、震えていた。


 驚愕と不信感に支配された戦士は、自身の眉間を狙った銃口を見て、諦めたようにぬかるんだ黒土の上に突っ伏した。


 溜め時間二秒、マッハ五で射出――不可視の弾丸は管理組織トランセンド・マンの胸板で熱エネルギーへと生まれ変わり、腹部から上を跡形も無く消し飛ばした。

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