2 : Sting

 眉間を突き刺さんばかりのジャブ──アダムは右拳で打ち止める。


 肩の反動で左ジャブ──リョウの頭が外にずれ、不発。その手を被せるように右ストレートが飛んで来た。


 少年が半歩斜め前に踏み出し、右肩を入れ込むようにダッキング――頬を掠めたと同時に半身の捻りを乗せた左フック。


 顎を打ち抜こうとする拳を青年はバックステップで躱し、互いの拳が当たらない距離になると彼はほくそ笑んだ。


 二人は一辺六メートルの正方形の四隅の柱とゴム製ロープに囲われたリング上を、くるぶしの上まで覆った靴でリズミカルに身体を弾ませながら右往左往している。


 グローブやヘッドギアは無い。他に身に着けているのは動きやすい短パンとTシャツのみ。


 その外には吊されたサンドバッグが並び、複数の軍人が揺らしたり、向かい合って技を出し合ったり、格闘訓練を行っているが、リングで繰り広げられる超越者同士の戦いに多少目移りし、二人程は釘付けになっていた。


 期待の眼差しを知ってか知らぬか、にやけるリョウの顔面をアダムの猛攻が襲い掛かる。一瞬で笑いが消え、顔面を両腕で覆う。押されはしないが、凄まじい勢いと隙間を狙う正確さが小賢しい。


 アダムが後ろ足でリングを蹴り、ジャブを連発。ガードを前進の勢いで割らんとする。


 じりじり後退するリョウ。その時、少年の上半身が消えた。


 咄嗟に右肘を腹に下げる。ほぼ同時、右腕を硬い痺れが打ち抜いた。


 クリーンヒットではないが、ブロー一発でリングの一角にまで飛ばされたリョウ。踏み止まった彼は両手で顔を隠し「来い」と片手をヒラヒラさせる。


 踏み込むアダム――左フック、右ストレート、連続ボディ、左フック、右アッパー――最小限の動きでリョウの肘が防ぐ。


 打っても打っても硬い肘に止められ、痛みに握りが鈍る。追い詰められているというのに青年はまたも笑みを浮かばせ、対面する青い瞳を睨んだ。


 少年は諦めず左右の拳を前後回転させて連続。固まる青年の横っ腹にフック気味の連打。


 ガードの間を縫って内蔵にまで届く衝撃に顔をしかめ、こめかみにも痛み――視界が一瞬ぼやける中、相手の肩が動いた。


 瞬時に上体を左前に倒す。やや小さい拳がリョウの顔面の代わりに茶色の長髪を捉えた。


 足を引きずるように九十度ターン、コーナーから解放された青年は一旦離れ、小刻みにジャンプして体勢を整える。


「当ててみろよ」


 腕は構えず下ろし、ダンスの如く一定のリズムで跳ねながら足の前後を入れ替えている。警戒を怠らぬアダムはオーソドックス構えで様子見にワンツー。


 頭をスリップ――ジャブが左耳を掠め、続くストレートをバックステップでリーチから外れた。追い掛ける少年が更に追撃。


 両拳の嵐を左右に上半身をスライドさせるだけで制し、踏み込んだ一撃に対しスウェー――後ろ足で後方に倒した身体を跳ね飛ばし、長いストレート。


 両者の前進を合わせたカウンターがアダムの顔面に炸裂し、小柄な姿がロープに叩き付けられる。


 部屋中を狼狽が漂う。ゴムロープはクッションになったもののその場ででうずくまり、少年は赤い液体をリングに数滴落とした。


「すまん……だ、大丈夫か?」

「まだ続けられる」


 即答したアダムは鼻の位置を指で弄り、手の甲で鼻血を拭くだけでふらつきもせず立ち上がった。痛みに顔が歪んでいるが、ガードの内側から上目に威圧する。


「じゃあ遠慮しねえぜ!」


 無事と判るや否や、いきなりラッシュを仕掛けるリョウ。


 少年は頭を左右に揺らすだけで直線攻撃を避け、角度を付けた打撃も全身を沈めるウィービングで当たらない。


 右フックを外側に潜り抜けたアダムは側面から顎目掛けて左フック。頭の揺れをどうにか耐えた青年も左フックで応じるが、少年がしゃがんで躱すと同時にボデイストレート。


 身体の芯をも揺るがすパワーに一瞬息が止まる。不味いと本能的に頭を守るが、更に肝臓を突き上げられる感触、しかも四連続。


 先程までダウンしていたとは思えない――リョウの狼狽えを顎ごと打ち抜くのは少年の右アッパー。


「てめっ!」


 追い込んだ青年から苦し紛れの左フックが見える。反射的にアダムは右肘でブロック。


 直後、翳した上腕が跳ね上がった。一瞬、大きめの拳が肘を下から殴り上げているのが見えた。


 がら空きの脇腹に容赦なく拳骨をめり込ませ、横にふらついた少年目掛けて次は飛び込み、全体重を込めたジョルトブローが額に炸裂。


 再びロープに叩き付けられたアダム。目眩に耐え、頭頂部から首までを両腕で覆い、左右に揺らして慈悲無き追撃を遮る。


 パンチは骨の髄まで震わせるが、ダウンには限りなく遠い。大振りな攻撃を戻すのを捉え、ここぞと半身の回転を伝えたストレート。


 待っていたとばかりリョウはにやけ、すかさず額を体ごと突き出した。思わぬ所から拳を潰される感触にアダムは痛みよりも驚愕に意識が奪われる。


 続く大柄な体躯から繰り出される災害の如き連続攻撃。防御する腕をも浸透し、収束しそうにない。


 同じトランセンド・マンなら条件は五分五分。しかし一メートルにも満たない距離では五感はおろか、常人を凌駕するエネリオンの知覚さえ音速を超える拳速には追い付けない。


 だから考えない。ただ拳の軌道を見るのではない。肩を、体幹を、身体の連動を読む――感じる。打とうと力んだ腕が見えた。


 ジャブを殴って跳ね返し、ストレートを肘で止め潰し、腕を戻す反動で右ストレート。


 後ろへ一歩退がり、次はリョウが拳を見せ付けるように振る。読み通りフェイクに守りを固めた向こうに、今度は体勢を低く腹へジャブ。


 すかさずガードを下げるアダム。軽い、と思った矢先、予期せぬ右こめかみを突き刺すパンチに思考が揺らいだ。


 大袈裟にバックし、ダメージを受け流す。頭を揺らしながら縦横無尽にリングをステップし、青年の狙いが定まらない所を先制。


 ワンツーをスウェーで躱したリョウ、戻りながら拳を飛ばそうとしたその時、少年は既に懐に潜り込んでいた。


 右前へ通り抜けるように踏み込みながら左ボディブロー。そのままパンチの届かぬ側面からアッパー、フック――打たれる青年の茶色い目が鋭く光ったような気がした。


 嫌な予感と同時に掌を頭頂部に、前進と同時に右肘を突き出す。直後、飛んできた左ストレートが腕の外に逸れた。


 右半身を引き、臍から上の関節を連動させて数十センチメートルの距離を一気に加速──左拳が大柄な青年の胸に触れた。


 腕を伸ばし切る。少年が見上げる程の大男は目を見開いてたちまち隅のポールに背中をぶつけたのだった。


 直後、試合開始から三分を告げる甲高い電子ブザーが鳴り響くと、対峙する二人は引き締めた構えを緩め、リングを降りるのだった。


 少ないながら観衆が拍手を贈った。近くでミット打ちをしていた二人がリョウ達の元へ近寄ってくる。


「どうよ、これが蝶の羽と蜂の針だ」

「どちらかっつうとスーパーマンだろ。速過ぎて見えんかったぞ。それと、アダムだっけ、あんたもすげえな」

「だろ? ハンやトレバーも一目置いてるんだぜ。あとクラウディアにも稽古付けられてる」


 少年の代わりに何故かリョウが親戚自慢のように答える。「そんじゃあ次俺達で」と話しかけた兵士ともう一人がグローブをはめてリングに上がった。


「大丈夫か?」


 突然アダムがそう言ったのは、肩を上下する青年の口元が赤く腫れていたからだ。その視線に気付いたか自分の唇を触ったリョウは指に滲んだ血を確認した。


「なんのなんの、良いパンチだったぜ。久し振り面白い手応えだった。こっちこそ加減が出来てなくてわりい」

「支障は無い。今の試合どう判定する?」


 丁度アダムが鼻をティッシュペーパーで拭いていたが、垂れてこないのを見るに既に出血は止まっているらしい。


「あくまでスパーリングだ。その場でやりたい事をやれたかどうか、ゲームなんだし失敗しても練習して次挑戦すりゃあ良い。ボクシングも満更じゃねえだろ?」


 二人は髪の生え際をタオルで拭く。呼吸は既に落ち着き、汗も既に止まっていた。


 トランセンド・マンはエネリオンによって超能力を発揮するが、生理現象等、生体活動には最低限の栄養物質が必要なのは常人と変わらない。水も飲み、呼吸も当然ある。


 とはいえ、人間は素早く強い動作の度に副次的に熱を発生するが、エネリオンにはこうした運動器官の損失が非常に少なく、結果、どんなに激しく運動しても体温は精々四十数度までにしか上がらない。エネリオンによる自身の防御の発展型に近く、高低温といった過酷な環境は元より、短時間限定ではあるがエネリオンを生理機能に費やす事で酸素の無い水中や真空での生存も可能という。


 それでも身体の冷却に汗を流すのは当然だ。アダムは二リットルサイズの保冷ボトルに口をつけていた。


「ルールが設けられた中で動きを最小限に当て躱す技術が必要になるのだな。ここまで速さに特化した技術は他には無い。ディフェンスは広く活かせそうだ」

「理詰めなのは相変わらずだな。クラウディアにでも似たのか……競技だったら何ラウンドも通してポイント稼ぐ戦略も考えなきゃならねえ。面白えだろ?」


 横目に話を聞く少年はまたも水を飲む。隙を見た青年は更に話を続けた。


「カンフーは中国四千年の歴史とか言うが、ボクシングの起源は猿の喧嘩だ。一世紀前のファイターにも凄えのが居てな、賞金も凄かったし、ノーガードで全部避ける奴とか頭の動きだけで躱す奴とか居たし。人生というパンチも、自分を信じて耐え抜いた先に栄光があるんだぜ」


 活き活きと勝手に語る大の大人の精神年齢は十五年程下がっていた。子供の方は老人のように反応せず頭の片隅で何かを考えているようだったが、しっかりと茶色の瞳を捉え、感心するように頷く。


「そういえば、以前クラウディアと狭い台での組み手をしていたが、あれも制限された中での戦いにではないのか? 苦手なようにも見えたが」

「ハンの訓練はちと極端なんだよ……まあ単に好みかもしれんが……あとクラウディア俺はあんま好かんし……」

「何故だ?」

「人の趣味にケチ付ける女なんて俺は御免だぜ」

「関係無いと思うが」


 愚痴を一蹴され、絶句したリョウは自分自身の側頭部を軽く殴り飛ばした。ついでに心の中で西方三千キロメートル先に居るであろう北欧女性を恨むのも忘れない。


「水と油みてえなもんだと思ってくれ……あいつと言えばお前最近太極拳習ってたっけ。最後のあの打ち方も太極拳の技か? 体当たりされたみてえに重かったぜ」

「発剄だ。重心移動と筋肉の伸縮原理だ。ボールを投げるように伸ばす筋肉の動きを最大限、縮む筋肉の力を最小限にしなければならない」

「ワンインチパンチみてえなもんか。なんつうかお前いつも冷静だからかそういうのコツ掴むの上手いんだろうな。またクラウディアにつままれたみてえな気分だ……次の技も楽しみにしているぜ」


 小柄な少年の肩をポンと叩いてやり、楽しみだとばかりに期待の眼差し。


『リョウ、聞こえるか?』


 ふと、ノイズ混じりの呼び掛け。見回し、タオルの上に置いていたイヤホン型通信ユニットを発見し、「おう」と返した。


『もう時間だ。ステーキ食いたいからといってサボるなよ。昼飯前までには終わると思うが』

「あいよ。今日はハンバーガーの気分だがな。良いカフェがあるんだ、紹介してやろうか?」


 時計を見ると七時三十分過ぎ。イヤホンから呆れた声が漏れる。


「アダム、知らないオッサンにはついていくなよ。まあ俺とお前なら大抵の野郎は無事だと思うが。それと今度、古いディスクだが、ボクシング映画でも観ようや」


 数日前、ロサンゼルスに潜んでいた管理組織工作員がアダムを誘拐しようとする事件が起きた。


 誘拐は未遂に終わったが、ロサンゼルスを統括する反乱軍は更なる工作員の存在を警戒し、普段からの都市の警備の強化は勿論、検問や捜査、潜伏の可能性のある廃墟の解体作業にも取りかかっており、超越せし者達の力も借りる程に力を加えている。


 アダムは着替えてジャケットの下にナイフと拳銃をしまうショルダーホルスターを仕込む。リョウは背中にアサルトライフルと中華刀を堂々と晒し、ウエットティッシュで拭いた自分の頬をピシャリと叩く。


 荷物をショルダーバッグに入れ、いざ出発しようとしたその時、


「そうだ、これをっ」


 リョウがナップサックの中から投げ、アダムがキャッチしたのは、三十センチメートルの短棒が二本、紐で繋がっている代物だった。


「ヌンチャクってんだ。この前の工作員の押収品の一つで、お前に合いそうだと思ってな。扱えるか?」


 軽く振り回すだけで外側の棒が素早く飛んでいく。振り抜いて自分の体に当たるのを防ぎ、数回左右に試し振り、折り畳んでズボンの背中に挟んだ。外側からはどこにでも居る白人の少年にしか見えない。


「暗殺者みてえだな。敵を倒したらアチョーって叫ぶんだぜ。鼻も擦るのも忘れるな」


 またナップサックに手を突っ込んだ青年が引き出したのは、卵が入りそうな程太い銃身が一本のみの元折れ式単発銃、否、砲。


「それは?」

「ニコラスに作らせた特製グレネードランチャーだ。この弾に詰まった燃料を俺の能力と合わせて半径十メートルをオーブンにする。間違いなく焦げるがな」


 自慢しながら木で出来たストックを撫でる。先端が丸みを帯びた円筒形の弾を鞄から見せびらかし、存在感のある筒を背中の小銃の隣に並べた。


 製作した技師のニコラスによると、密閉された榴弾の炸薬部は比較的安定した液体燃料が詰まっており、リョウの熱操作能力によって弾頭内部で燃料を気化させ破裂、熱で燃料を分子レベルで不安定な可燃物に分解しつつ熱膨張で拡散、熱振動で空気と混合させながら発生した熱で一気に酸素と結合、との事。燃焼ではあるが、瞬間的な温度は一万度のプラズマにも及ぶ。


 現象こそ液体燃料を気化・燃焼させるサーモバリック爆薬と変わらないが、安定物質を分解させられるリョウの熱制御あってこその兵器でもある。


「立てこもった野郎に一発ドカンとやりゃあ建物ごと消し炭だ。運良く生き残っても酸欠って訳よ。しかもあいつこれを一晩で作り上げたんだぜ」

「市街地で使うには無理があるのでは?」

「見せびらかすくらい良いだろ……状況に合わせろって事だよ。そりゃあ人質とかだったら使わんしさあ……アダム、お前も俺みたいに状況を楽しめるくらいになろうぜ」


 年下に説教されて誤魔化しに苦笑するだけのリョウ。一方でアダムは無表情。


 知り合ってから三ヶ月程――四度も管理軍と戦った、長い三ヶ月――それだけ経ったが、あまり慣れるものではない。特に黙々と見られるのは時折心を見透かされるような、自分自身を試されるような気分になる。


「リョウ、自分が思うに君はアンジュに似ている」

「んあ?……そうか? 同じ日系とはいえ全然違うんじゃねえ? アンジュちゃんは可愛いし大人しいし」


 だから青年は、その顔から予想だにしなかった言葉に目を丸くし頭上にクエスチョンマークを浮かべてた。


「そうではない。あらゆる考えや行動が矛盾している。それでもアンジュは誰かを助けようという理念が根底にあり、君も楽しむという理念を元に行動している。その場に合わせているとでも言うべきか……全体的に見れば辻褄が合っているようにも感じる」


 言われるリョウの方は拍子抜けたか呆気に取られ、何も言えず困惑しているようだった。


「自分の事を思い出したとしてもそれで何が得られるのか、管理組織から逃げるだけで何かが満たされるとは思えない……君達のように楽しむ事が出来ないんだ」


 普段から実直剛健な少年が冗談半分で物事を言えるとは思えない。


 リョウは自分の行動が自分勝手だと自覚し、趣味の合う仲間も多いが、クラウディアを始めとして叱られる事も多々あった。それでも彼は曲げずに“自分らしく”生きてきた、つもりだった。


 それをアダムは憧れるように――賞賛ではないが、こんな肯定的な言われ方は初めてだった。


「……まあ人間そんなもんよ。さっさ行こうや、給料引かれちまう」


 顔を隠すように振り向き、力が抜けた声で無理矢理話を終わらせる青年。少年は何も言わず後に続く。

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