第45話 地上

 卓史は、ギリギリのタイミングで通路に滑り込んだ。萌恵たちはもうかなり先を歩いている。萌恵たちが歩いているところが一番明るくて、卓史のいる場所は次第に暗くなってきていた。

 卓史は怖くなり、走って追いかけた。思わず声が出る。「おおい、待ってくれえ」

 離れすぎていて、誰も振り返ってくれない。卓史は必死に駆けた。


 一方、萌恵たちは宏を先頭に一列に繋がって登っていた。階段幅は狭くはない。でも、横に並んで登れるほどでもなかった方だ。

「どこにつながっているの」と、萌恵が聞いても、宏は首を傾げるばかり。

 長い階段の先には扉があり、萌恵たちが近づくと、自然に開いた。外は暗く、見上げると星空だった。大きな建物の影も目の前にある。

 萌恵は全員の無事を確認しようと振り返った。地面が大きく盛り上がり、石の扉が開いている。楓が出てきて、もう一人、卓史がまだだった。この扉はいつまで開いているのだろう。卓史は間に合うのかしらと、萌恵は思った。

 扉の周りの石が少しずつ崩れるようになくなっていく。卓史の姿は見えない。扉自体も閉まり始めた。迎えにいった方がいいのだろうか、でも、自分も帰ってこれないかもしれないという思いが萌恵の頭に去来した。

 他のみんなも心配そうに閉まりゆく扉を見つめている。

 かすかに荒い息継ぎが感じられる。聞こえてくるのではない。五感で伝わってくる。

「ラックさん、間に合って」

 茜が小さく声に出す。茜にとっては、ラックハマターなのだ。

 扉がいよいよ半分開きになり、周囲の石垣も崩れた時、卓史の姿が月明かりに映った。

「早く、来い」

 今度は、宏が言った。

 扉の周りも崩れ始めている。思ったより、早い。

 人ひとり通れるくらいの隙間を、卓史はジャンプした。崩れつつある扉の一部が砂つぶのように散った。

 扉は閉まると同時に崩れ落ちて、その後には大きな台座の上に立つ銅像が残った。

「ひいおじいちゃん」と言ったのは、萌恵。

 台座に「丹原 巌」と彫ってある。

「ほんとだ」と宏も驚く。

「ってことは、ここはひいおじいちゃんが作った病院?」

 萌恵が宏に聞く。

「そういうことになる。でも、何で」

 茜が萌恵の袖を引っ張って、「あそこ」と指差す。

「何」

 大きな病棟の端、5階くらいのところを茜は指差している。窓の明かりは消えていて、真っ暗だ。

「何か、あるの」と萌恵が茜に聞く。

「あの人がいる」

 と言われても、萌恵はすぐにはピンとこなかった。

 茜が「占いの」と言った時にようやく、紫占のことを思い出した。

「紫占が入ったのは、この病院じゃないよ」

 占いの館が焼け落ちた後に、紫占は意識を失った状態で発見され、緊急病院に入れられたと聞いていた。それが、どこの病院だったかは覚えていないけど、ひいおじちゃんが作った病院とは聞いていなかった。

 まさかね。

「でも、います」と茜は言い張る。

「わかった。じゃあ、案内して。行ってみよう」

 萌恵は、茜を信じることにした。どうせ、マウファから託された紫占の心を身体に戻してあげなければならないのだ。ここで、方がつけば、それはそれでいい。そう思った。

「では、行ってきます」

 萌恵は宏に言った。

「遅くならんようにな。いつまでもは、待てんから」

「任せて」

 萌恵は茜を背負って走り出した。茜の指差す方向に。

 残された者たちには、消えたように見えた。

 病院裏手の通用口。中を除くと、警備員が一人いる。夜遅い時間なので、通る人はいない。萌恵は茜を背負ったまま、扉を少し開けてみた。警備員は、監視カメラのモニターの方を見ていて、身動きしない。ひょっとしたら、居眠りしているのかもと萌恵は思った。そうであって欲しいという願望でもある。

 ゆっくりしていると監視カメラに映って、気づかれてしまう。警備員室の前の天井に監視カメラらしきものが付けてあった。

 萌恵は茜に「しっかり掴まっていて」と囁いて、扉を半分開けると、そのまま駆け出した。中腰で駆け抜ける。あまりのスピードに足音さえ残らなかった。

 それでも、警備員は風を感じたのか、ほとんど閉まりかけた扉の方に目をやった。彼の見ていたモニター画面にも、影さえ映っていなかった。

 萌恵は、階段を一気に駆け上がり5階に着いた。廊下を覗き込むと、ナースステーションの明かりがついていて、その周りだけ明るい。茜の指差す病室は、ナースステーションの前を通り過ぎた、突き当たりだ。

 萌恵は茜を背負ったまま、しばらく様子を伺っていた。ナースステーションには人影も、何らかの動きもなかった。じゃあ、正々堂々と行くかと思った矢先、背後の階段に足音がした。誰かが登ってくる。

 行くしかない。萌恵は茜の手をしっかりと握りしめ、走り出した。萌恵のスピードでは、足音さえしない。もちろん肉眼に捉えられることもなかった。あまりの速さに茜は目をつぶっていた。最初からそうだったが、目を開けていると頭がクラクラしてくるのだ。

 おそらく監視カメラでも捉えきれないのではないかと思う。コマ送りして影が写るかどうかなのではないか。

「着いたよ」と萌恵が言った。

 そこでようやく茜は目を開けた。病室の前、名前はない。

「本当にここでいいの」と萌恵が聞く。

 茜は、じっと室内を見通した。扉の向こうが見えていた。

 カーテンが開いており、月明かりが差している。ベッドの上には一人の女性。それらは色彩として、茜の目に飛び込んできていた。ベッドの上の女性は、弱々しかったものの、占いの館で見た紫占の発していた色合いだった。

「間違いないと思います」

 同時に、茜がポシェットの中にしまった紫占の心が少し動いた。小刻みに震え、ポシェットを押さえる茜の手の指先を刺激し続けている。

 萌恵はそっと扉を開けた。

 暗い病室に、ベッドの上の人だけが見えた。そこだけ月明かりが差している。

 その人は身動きひとつせず、ベッドに横たわっている。心がないのだから、意識もないのだと分かっていても、ちょっと気が引けた。

 そっと、だが、素早く、萌恵は紫占の祖母に寄った。

 あとから、茜が扉を慎重に閉め、追ってきた。紫占は、目を覚まさない。なぜって、心がないから。茜にもそれは分かっている。マウファから預かった紫占の心は、茜の小さなポシェットの中にある。

 萌恵は、紫占の身体に手を置いた。かすかに暖かい、そして、寝息を感じる。生きているんだと思うと、萌恵はちょっと安心した。

「どうですか」と茜が聞いてくる。

「大丈夫。身体は生きてる」

「あとは、心ですね」

 萌恵は、頷いた。茜が、ポシェットから黒い塊を取り出す。マウファから預かったときには、球体だったが、少し形が歪んでいる。大丈夫かなと萌恵は思ったが、何も言わず、茜からその塊を受け取った。

 月明かりに、黒い塊はかすかに色を変えた。これもまた、生きているのだろうか。人の心だ。きっとそうだろう、と萌恵は思った。

 マウファが菜月にしたように、萌恵は両手でその黒い塊を持ち上げ、紫占の身体の胸の上に押し当てた。心臓の鼓動が伝わってくる。少し鼓動が強くなったのではないかと感じた途端に、黒い塊はふっと消えた。身体の中に入って行ったのだろうか、萌恵の手の感触がなくなったのだ。

 萌恵と茜の二人は、そのまましばらく様子を窺った。

 紫占はそれまでと同じように、静かな寝息を立てているようだった。

「大丈夫でしょうか」と茜が心配そうに聞く。

 萌恵にもわからない。でも、異常は見られないし、いつまでもここにいるわけにはいかない。

「行きましょう。あとは、この病院の仕事でしょ」

 萌恵は茜を促して、扉の方に向かった。二人が、扉のそばにきて、開けようとしたとき、小さく声が聞こえた。振り返ると、誰もいないし、ベッドの上の紫占にも変化はない。

 萌恵は扉を開きかけた。

「待って」

 今度は、はっきり聞こえた。紫占だ。

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