第44話 刻印

 宏は一人、自分の石板と一致する刻印を探していた。

 彼にとっての祖父にあたる楽山に言われたことを思い出していた。

 その時、祖父の楽山は、現役を引退し、お茶や陶芸を楽しむ毎日を送っていた。父は、今の宏同様、ほとんど家にいなかったから、宏は祖父に育てられたと言っていい。祖父は「楽山」と号していた。

 宏は、父から渡された石板の意味や使い方も分からず、ただ持ち歩いていたし、その時も片手で弄んでいた。それを目にした楽山が言ったのだ。

「それは、お前の命と同じだ。粗末に扱ってはならん」

「どうして」

「すべての扉の鍵であり、お前に道を示してくれるものじゃ」

と言うと、楽山は「見よ」と言って、袖をめくり自分の右腕を見せた。うっすらと何かが浮かび上がってくる。何かの文様のようだ。次第に形を成し、印章のようなものになった。

 宏はびっくりして言葉が出なかった。

「これは儂の刻印だ。先々、儂が死ねば、儂は霊廟に入る。霊廟への道を開き、扉を開けるものこそ、この刻印と石板だ」

「爺ちゃんも、石板を持ってるの」

と宏が聞くと、楽山は頷き、「人に見せるものではない」と付け加えた。

 その刻印のことを、宏は思い出したのだった。

 楽山は言った。「時が来れば、刻印はお前の元にもたらされる」と。

 石板を持っていても、刻印がなければ霊廟から出ることはできない。そう祖父は言ったのだ。

 宏は自分の刻印を持っていないわけではない。厄介なのは、刻印はふとした瞬間に目の前に現れる。それがいつかとか、現れて欲しいと思ったらとかは関係ない。ふっと現れ、石板と共鳴して道を開いてくれる。そして、すぐに消えてしまうのだ。

 宏は刻印の使い方を習っていない。やりながら覚えてきた。

 祖父の楽山が早くに死んでしまったことと、楽山の葬儀の後、父が楽山の遺体をどこかに持って行き、宏はそこには行けなかったことが原因だと思う。宏は祖父の遺体は火葬場で焼かれ、骨は家代々の墓にあると思っていた。父は、霊廟にことを何も教えてはくれなかった。その父も、家に帰って来ることなく、仕事先で亡くなった。

 父の遺体は戻って来ることなく、そのことについて母は、何も知らないようだった。少なくとも、祖父や父が家の墓に入っていないことだけは確かだと宏は感じた。二人は、恐らく霊廟にいるのだ。

 そして今、宏は霊廟にいる。しかし、霊廟について何も知らない。

 萌恵は、尚のこと、何も知らない。


「ちょっと、お父さん。何してるの」

 萌恵の声に宏はハッとした。振り返ると、萌恵がいた。怒ってる。

「ちょっと、探し物」

 萌恵は通路を指さして、「この道をまっすぐ行けばいいんじゃない。それとも、別の出口があるの」

 そう詰問されても、宏は答えようがない。ただ祖父の楽山の言葉を信じるならば、見えている通路に意味はないはず。

宏は茜に尋ねた。

「何か見えるかい」

 茜は、首を振る。「ここでは、何も見えないの」

 霊廟の特殊な波動が邪魔をしているのか、菜月が目覚めたことの影響か。石室では見えていたものが、この通路に出たら、見えなくなったのだと宏は思った。

 宏の祖父は、腕の中から刻印を見せた。父のは、見たことがない。宏自身の刻印は、何度か見たことはある。不意に目の前に現れるのだ。そして、石板を当てると、道が開かれる。祖父の楽山が言った通りだった。

 しかし、残念なことに刻印は宏の許に止まらず、役目を終えるとすぐに消えてしまう。

「じれったいわね」と言ったのは、萌恵。

 宏の返事も聞かず、走り出した。

「いや、ある。その鍵穴が見つからないだけだ」

 その言葉は、萌恵とともに虚しく消えた。茜の目には、もう萌恵の姿はどこにもない。

 と思ったら、通路の先の方に走って言ったはずの萌恵が、茜のすぐそばに現れた。後ろは壁のはずと茜は思った。

「どこから来たんですか」

 萌恵も戸惑っている。振り返ると、通路の闇が続いている。前に行っても、後ろに行っても、先の見えない闇だ。

「やっぱりか」と宏がため息をついた。「ここは、鍵がないと抜け出せないんだ」

 萌恵は、今度は後ろの方に走って行った。すぐに姿が見えなくなった。と思ったら、前の方から萌恵が現れた。茜は繋がっていると思った。両端がくっついたチューブのような閉ざされた空間になっているのだろう。

 宏は観念した。このままでは、もう何があっても脱出できない。

「どうなっちゃてるの」

 萌恵がため息混じりにつぶやいた。

「ねぇ、お父さん、どうしたらいいの」

「それが分かれば苦労しないよ」

 宏は、途方に暮れていた。今までは、必要なときに刻印が現れていた。今、何故現れないのか、宏自身わからなかった。何かが違っているのだ。

「ちょっと見せて」

 萌恵と宏の背後から声がした。そこには、茜に支えられながら立っている菜月がいた。

 宏は「見せて」という意味が分からないでいた。今、手には何も持っていなかったし、それは萌恵も同じだった。

「石板」と菜月が言う。

 宏はようやくポケットにしまったのを思い出した。石板を取り出すと、菜月に見せた。

 菜月は手を伸ばして、指先で石版に触れた。

 かすかな振動が走った。

「何か感じるの」と萌恵が聞いた。

 菜月は意識を集中しようとしているように見えた。萌恵も引き寄せられるように、石板に手を伸ばした。一瞬、静電気が走ったかのようなビリっという感覚があった。

 変化に気づいたのは、またしても茜だった。

「あそこに何か見える」と指差した。

 暗い通路の壁面があるだけで、宏には何も見えない。

「こっち」

 茜は宏の手を引いて奥の壁面の方に向かう。茜が「消えた」と言って立ち止まった。

 宏が石板を手にしていて、菜月も萌恵も離れていた。茜は二人に「こっちに来てください」と声をかけた。萌恵が菜月を支えながら歩いて来ると、茜は萌恵と菜月の手を取って、石板に触れさせた。また、電気が走ったかのような感触を萌恵は感じた。

「そのまま」と言って、茜は3人が持っている石板を壁に押し付けた。

 その壁面は、宏にとっても、萌恵と菜月にとっても、何の変哲も無い壁にしか見えなかった。

 静寂。

 ゴトンと大きな音がした。何かが動き始めた。今度は機械的なのかと萌恵は思った。萌恵は、この地下霊廟は一体どうなっちゃっているのかしらと思う。果たして地下かどうかさえ、分からない。そんな気がしていた。

 壁面が動き、別の通路が現れた。うっすらと発光していて、階段状になっているのが分かる。

「行こう」と宏が歩き出した。

「待って」と背後から高井戸が声をかけた。

 振り返ると、高井戸はうずくまっている卓史を指差している。

「動かないの」と高井戸が言った。

 萌恵が卓史のそばに行って、「行くよ」と声をかけたが、卓史は反応しない。

 置いていくわけにもいかないよね、と助けを求めるように萌恵は宏を見た。宏も困って、卓史に声をかけ、身体に触れた。

 固まっている。薄暗い中で、よくはわからない。籠神社で自分の内にこもって、白化現象を引き起こしたときと同じ症状が出ているのだろうかと、萌恵は危惧した。

 その気持ちを察したのか、茜がそばにきて、「あの時とは違うみたい」と言う。

「どうして」と萌恵。

「色が違う」

「ということは?」

「拗ねてるだけかも、です」

 萌恵は、ため息混じりに「もう…」とつぶやき、卓史の肩に手を置いた。

「ねぇ、聞いてる。行くよ」

 そして、襟をつかんで、引っ張り上げようとした。萌恵自身でさえ驚くほどに、卓史は重い。人何人分? と思うくらいにビクともしない。

「何。こいつ。動け」

 萌恵は渾身の力を込めて引っ張った。それでも卓史は、壁に開いた通路の方に少し転がっただけだった。正面にいた高井戸と楓が、思わず身をすくめた。

「どうなってるの」

 萌恵は、卓史のそばに行き、顔を引っ叩いた。

「痛い」と卓史が唸る。

「さっさと起きなさいよ」と萌恵。

 卓史は背を向けて、座り込んだ。

「じっとしていると、置き去りにするわよ」

 萌恵はそう言うと、通路に向かって歩き出した。

「おい、いいのか」と宏が後を追う。

 茜も高井戸も楓も、卓史のことを気にしながらも、萌恵を追って歩き出した。卓史は彼女たちの方を見ようともしない。

 卓史を除く全員が通路に入ると、今までいた空間が暗くなった。卓史は驚いて周りを見回した。ここがどこなのか分からなくても、自分ひとり取り残されたら、どうしたらいいのかわからなくなることくらい、卓史にも理解できた。

「待ってくれえ」

 卓史も、後を追った。壁は正に閉じようとしていた。

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