第37話 別れ

 一方で、ラッフルレイズとラックハマターのそばにいるマウファは、二人に問うていた。

「ラッグダムに戻るでしょ」

 二人とも、迫ってきているケサランドール片岡の部隊が気になっていた。カーライルや萌恵達を置いて、戦線を離脱するわけにはいかないと思っていたのだ。

「今戻らないと、もう戻れない」

 マウファは念を押す。

 ラッフルレイズは迷って、萌恵の方を見た。そこには、見慣れない獣人の女性がいる。誰だ。ラッフルレイズは、どこかで会ったことがあるように思った。遠い昔、どこかの戦場で。その様子を見て、マウファが言った。

「ガルム山」

「なぜ、その名を知っている」

「昔、話を聞いたことがある。あの獣人は、そのときの戦友ではないの」

 ラッフルレイズは遠くを見つめる。そして「あのときはまだ人間だった」と呟いた。

「あの獣人もきっとそう」

「ラッグダムには、まだ仲間がいるのだろうか」

「いる。姿は変わっているけどね。それに、その姿では、ここにはいられないでしょ」

 その一言がラッフルレイズの心を決めさせた。ラッフルレイズはカーライルに目を向けて「すまない」と頭を下げて、エルフェロウに向かって走り出した。

 マウファは次にラックハマターを見た。ラックハマターは、若い男の姿だ。

「あなたは、ここでも生きていけそうね」

 ラックハマターにも迷いはあった。ただ、ラッグダムに戻っても、知り合いはいない。それに、身体が同化してしまったこの若者のことも気になった。ラッグダムで、この若者は生きていけるだろうか。どのタイミングで心が入れ替わるか分からないから、もしラッグダムに戻って、この若者の意識が前面に出た時、あの弱肉強食のような世界で生きていけるのかと、ラックハマターは心配になった。ラッグダムであの若者に仲間はいない。

「わかった。俺は残る」

「本当の戦友となったな」とカーライルが感慨深そうに言う。

「あなた達なら大丈夫よ」

 マウファはにこやかに笑った。そして、フッと消え、社殿のところにいるマウファひとりとなった。

 カーライルとラックハマターは呆気にとられた。しかし、包囲している軍隊のことを思い出し、すぐに対峙した。部隊は動いていなかった。先ほどのマウファの一撃が余程効いているのだろうと、カーライルは思った。

 

 社殿のところに走ってきたラッフルレイズに、エルフェロウは驚いた。自分が知っている相手かもしれないと思うと、どうもじっと見ることができない。昔からそうだったと思う。遠い昔、まだ人間だった頃の記憶の糸を慎重に手繰り寄せようとしていた矢先のことだったのもある。

「戻る決心はついたようね」と、マウファが言った。

 ラッフルレイズは不承不承うなずいた。それを聞いて、エルフェロウはちょっと嬉しく思った。自分でも不思議で、この感情をどう処理していいのか分からなかった。

 ラッフルレイズは、済まなそうに萌恵を見た。萌恵の目は「私たちを残して、行ってしまうのですか」と訴えていた。ラッフルレイズにはその気持ちが痛いほどわかる。戦場に取り残され、しんがりを務めさせられた経験はラッフルレイズにもあった。彼自身でさえ心細く思ったものだ。ましてや、戦える自信も技量もない萌恵にとってはいかばかりかと思う。

「自分を信じろ」

 ラッフルレイズは萌恵にそれだけを言うと、逃げるように扉の中に駆けていった。

 萌恵も何も言葉にできなかった。責める気もない。ただ残念なだけだ。最後まで一緒に戦ってくれると勝手に思い込んでいたからだ。萌恵は気を失っている菜月の手をぎゅっと握りしめた。

 その様子をじっと見つめていたエルフェロウが、まるで萌恵の気持ちに気づかないかのように話しかけた。

「一つ忘れ物があるの」

「何?」

「あなたのポケットの中のもの」

 そう言われた時、萌恵はようやくポケットの中の紫水晶のカケラのことを思い出した。恐る恐る手にとってポケットから出した。

「あなたが持っていたの」

 紫水晶を見て、高井戸が反応した。まだ、心惹かれている様子でもある。

 楓が高井戸の手を押さえて「手を出してはダメ」と言った。楓も覚えているのだろう。ただ、楓の場合は高井戸に取り付いていた魔に操られていたので、嫌な記憶しかないのかもしれなかった。紫水晶に心惹かれている様子は微塵もなかった。

 萌恵は紫水晶のカケラをエルフェロウに差し出す。エルフェロウはそれを受け取ると、マウファに向かって、「もう一人の心を救っていただけないでしょうか」と頼んだ。

 マウファは全てを理解しているかのように頷いた。紫水晶を手にすると、その中からうっすらとした靄のようなものを取り出した。そして、エルフェロウに、

「これがそなたが取り付いていた身体の持ち主の心だ」

 萌恵は、紫水晶の中での不思議な感覚を思い出していた。あの時、この女獣人も一緒にいたというのだろうか。占いの館の火事の後、占い師の紫占さんは目を覚まさないまま、いまでも病院のベッドにいるはずだ。目の前の靄のようなものが、紫占さんの心なのか。そして、もし本当に紫占さんの心だとしたら、一体どうやって身体に戻してやればいいのだろう。

 マウファは、そんな萌恵の思いを知ってか知らずか、その靄を丸玉のような形に変え、萌恵に手渡した。

「あなたの知っているその女の人に返してあげなさい」

 えっ、でも、どうやって。

「今から見せる」とマウファは言うと、ヴェッサを振り返り、「あなたも、そこの少女の心を返しておやり」と告げた。

 ヴェッサはちょっと面倒くさそうな顔をしたが、黙って従った。

 空中に浮かぶ菜月の心を見えていたのは、茜一人である。茜には、ヴェッサが空中を撫でるようにした時に、浮かんでいた薄いオレンジ色の光がその手の中に収まるのが見えた。ヴェッサは、その光を横たわる菜月の胸のあたりに片手で押さえつけた。

 光が胸の中に収まると、急に菜月の身体に血色が戻った。そして、ゆっくりと呼吸し始めた。茜は驚いた。それを見て、マウファは茜の能力に気づいた。

「あなたには見えているの」

 茜が小さく頷く。

「そう」

 嬉しそうにマウファが微笑む。そして、萌恵に向かって、

「先ほどの女性の心は、この子に持たせておくといい。無くさないはずよ」

 と言った。

 萌恵にとっては渡りに船だ。人の心をポケットにしまっておくわけにもいかない。

「頼むわ」と茜に渡した。

 マウファは念を押すように萌恵に言った。

「その心をきっと元の身体に戻してあげてね」

 そして、紫水晶を手にしたまま、ヴェッサに「私たちが扉の向こうに戻れば、あなたはもう自由よ。天の世界にお戻りなさい」と告げた。

 ヴェッサは、黙っている。ここにいることそのものが嫌いなのだろう。そして、マウファに従わざるを得ないことも嫌なのだろう。天の世界に戻るためだけに、従っているのだと、高井戸は思った。楓も気づいているらしく、高井戸を見て軽く頷いた。

「私たちを残して、行ってしまうのですか」

 萌恵が思い切って、マイファに尋ねた。

「ごめんなさい。私はこの世界のことに関わることができないの」

「どうして」

「そういう約束だから。遠い昔の約束。それに、私はラッグダムの守り人だから」

「せめて、あの兵隊たちをやっつけてからではダメですか」

 萌恵は必死に食い下がる。マウファはちょっと悲しそうな目で萌恵を見た。

「大丈夫よ。あなたにはできるわ」

「そんな」

「雷電のモーシャスの力が、あなたにはあるのだから」

「誰です」

「思い出しなさい。そうすれば、力になる。あなたはもう、たくさんのことを思い出してきたでしょう。もう少しよ」

 と言うと、マウファはエルフェろうとともに、ラッグダムの扉の向こうに消えた。

 扉が閉まると同時に、折りたたまれるように扉も社殿も消えた。境内の灯篭や手水舎、石畳など神社を構成するものが全て消えてしまった。境内はただの空き地となった。

 その時、大きな高笑いとともに天空に消えていくものがあった。ヴェッサである。陸断姫として、この地にあった彼女も天の世界へと旅立った。

 残されたのは、萌恵、茜、高井戸、楓、菜月、そして、カーライル、ラックハマターの七人。彼らを取り囲んでいるのが、ロッキンゼルガーとケサ・ランドール片岡率いる重装歩兵部隊である。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る