第29話 残流
坂道を降りていくと、JRの線路を跨いでいる陸橋を通る。陸橋の真ん中あたりに駅の南口があって、人の出入りは必ずあるところなのに、萌恵が通った時には人影は全くなかった。
坂を下って行くと、下町の商店街がある。そこにも人っ子ひとりいない。邪魔するものがいないということが、どれほど走りやすいか、萌恵は思い知った。風を切るというより飛んでいる感じになった。
その気分は、警察署の建物が見えてきたあたりで、急に変わった。
人影がたくさんある。誰というのはわからない。ぼうっと見えている。
それらが警察署を取り囲んで、警察署の建物の中をじっと見守っている。夕闇迫る時間になってきたとはいえ、周囲はまだ明るい。それなのに、建物の中はとても暗く感じられた。照明がついているのか、いないのか、よくわからない。萌恵には、別の何かのせいで、異常なほど暗くなっているのかのように思えた。
何かがいる。そう直感した。
おそらく、現実の自分もこの場面に出くわしたのだろう。そして、うまく逃げおおせたに違いない。萌恵は、学校にいたときより、気持ちに余裕があった。
警察署の表玄関のガラス扉がガタガタと揺れ始める。建物の中で何かが吹き荒れている様相だ。煙のような雲のようなものが高速で動いているのが見える。
あれも化け物の一種かと萌恵は思った。
そのとき、萌恵の横を通り抜けて前に一歩出た者がいた。その顔を見て、萌恵はゾッとなり、思わず後ずさった。
ロッキンゼルガーである。
カーライル同様、ロッキンゼルガーは萌恵に気づいていない。見えていないのかもしれない。
萌恵は、勇気を出して、ロッキンゼルガーの後ろに隠れるようについて行った。
警察署の扉が悲鳴を上げ始め、外れんばかりに揺れだした。中から押されているみたいだ。圧がかかっている。
それなのに、ロッキンゼルガーは気にも留めずに近づいて行く。萌恵は怖くなって、どこか隠れる場所を探して周りを見回した。警察署の前は広い駐車場になっていて、細々とした樹木以外何もない。
扉は今にも爆発しそうだ。
萌恵はできるだけ離れたくて、思いっきり横に跳んだ。ほぼ同時に警察署の扉が外に向かって吹っ飛んだ。ロッキンゼルガーはといえば、でっかい真っ黒の塊りが前に立ち塞がって、飛んでくる扉やコンクリート片を跳ね飛ばしている。
一体、だれ?
萌恵は顔を上げ、その人物を見た。ケサランドール片岡だった。
また、嫌な奴に出くわした。萌恵は関わり合わないように、身体をかがめて、逃げた。それまでと同様、彼等は全く気づかなかった。
逃げる萌恵の背後から妙に生暖かい風が、吹き抜けていった。背筋が寒くなる。嫌な予感がして、後ろを見ることなく懸命に走った。
気づいたら、森の中に入り込んでいた。
ここでもまた、誰かに会ったことを思い出した。一風変わった相手だったような気がする。男だったのか、女だったのかは、はっきりしない。もう暗くなった森の中で、萌恵は立ち止まって周りを見回した。
走ってくる人がいる。足音の軽さとテンポの速さからすると、若い女の子かなという気がした。
方角は、というと、これがわからない。
前、右、動いている。萌恵の周りを駆け回っているみたいだった。まるで子供のようだ。
萌恵は近くにある木の陰に隠れて、足音の近づくのを待つことにした。
じっと目を凝らしていると、真っ暗な中にも微かに街の光が差していた。最初はぼんやりと、やがて、はっきりと森の木々の輪郭が見えてきた。
近づいていると、萌恵は思った。
学校からここまで来た経験値が働いて、驚かしてやろうかとか、優しく声をかけてあげようかとか、考える余裕があった。だから、茂みの中から飛び出して来たのが、萌恵よりちょっと年下の女の子だったことにも、驚かなかった。
その顔には、見覚えがあった。でも、頭の中が混乱して、すぐには思い出せない。
その女の子の方も。萌恵のことに全く気づいていなかった。見えていないようだ。
折角、話しかけてもいいかなと思ったのに、全く相手にされてない。ちょっと痛い気持ちになった。
仕方ないっかと諦めて、女の子の目をじっと見た。その目に萌恵の姿が写っているはずなのに、瞳の奥には暗闇しかなかった。果たして、萌恵はこのとき何を話したのだろう。
女の子はホッとしたかのように座り込み、ポツリポツリと何かを話し始めた。その声は聞こえているのに、意味をなさない。話していることは分かるのに、何の話かはわからない。
ただ不思議なことに、女の子の話しかけている先に、かすかな光彩が見えた。それは、キラキラ輝きながら空気中に広がり、泡のように消えていく。光の粒は女の子が誰かの話を聞き、頷いたり、首を傾げたりするときに現れた。恐らく、話しかけている相手、つまりは萌恵の口から言葉が発せられているときに見えているのだろう。
萌恵は、この時の自分に一体何かが起こっていたのか、全く覚えていなかった。この女の子は気づいていたのか。それもわからない。頭の中が混乱してくる。
一体いつまで、こんなことが続くのだろうか。過去を思い出させる為に、何者かが仕組んだのか。だとしたら、何故?
しばらく話して、女の子は立ち上がった。誰かを見上げ頷くと、ニッコリ笑い、後を追うように歩きだした。
もちろん、その誰かは萌恵なのだろうが、今の萌恵ではない。自分の姿が影さえ窺えないことに萌恵は苛つきを感じる。
離れていく女の子の後ろ姿を見送りながら、地上に降りたって以来感じていた疎外感を改めて噛みしめていた。過去の記憶を追体験させられている。
一体、何のために。そう考えると、急に寂しくなった。
「わたしの仲間はどこにいるの」
意外なほど、大きな声になった。カーライルやラッフルレイズ、そしてもしかしたら、さっきの女の子だって、萌恵の現実の中では仲間かもしれないと思う。ここで出会っていたということは、その証拠だ。どうして忘れてしまったのかはわからないけど、ここで会った人には、覚えている現実の中でも、確実に出会っている。
あの女の子とは、現実の中でもきっと再会しているはず、と思う。
これでおしまいとでも言うかのように、辺りが急に真っ暗になった。自分の手のひらさえ見えない。激しい風圧を感じ、ひょっとしたら、まだ落下し続けているのかしらという思いがすれ違った。さっきまで視覚的だったものが、今度は風や空気、匂いとして萌恵の全身を取り巻き、ぶつかって通り過ぎた。
目をつぶると、学校の校庭や噴水、砂埃の臭いが感じられる。神社の木々の香り、商店街の雑踏、魚を焼く煙や揚げ物の油の匂い、硝煙や火薬の臭いを感じた。警察署の前では何の臭いも感じなかったのに、今になって嫌になるくらいに追いかけて来た。
特に、銃を撃つ場面や爆発を連想させる臭いが嫌な感じだった。萌恵は、警察署前の臭いに違いないと思った。そして、森の中の匂い。女の子は、どんな匂いだったのだろうか。嗅ぎ分けることはできなかった。
やがて、匂いも香りもなくなった。全くの無味無臭無音の中に取り残された。目をつぶっているのか、開けているのかさえ分からなくなった。
足元には何もない。でも、歩けている。
どこにいるのか、どこに向かっているのか。
籠神社で菜月の鈴を見つけ、鈴に導かれるかのようにこの世界に来た。菜月が呼んでいると、最初は思った。けど、ひょっとしたら菜月自身も何者かによって操られているかもしれないと、今は思う。そして、菜月を操っているものこそが、今自分をはめている張本人なのではないか。
「菜月。出て来なさい」
暗闇に向かって萌恵は強い声で、そう叫んだ。
菜月なら何かを知っているに違いない。そう思っていた。萌恵に過去の記憶を呼び覚ましたのも、菜月かもしれない。どうしてかわからないけれど、今の菜月には、そんな力があるはずだと思った。萌恵はどこかできっと菜月に会っているはずなのに、まだ出くわしていない。それはどこか。そう思いを巡らしたとき、かすかに鈴の音が聞こえた。
鈴は、籠神社で見た。
走り出すと、暗闇は嘘のように消え,道が現れた。
萌恵は、森を出て、坂道の石段を一気に登った。さすがに息が切れてくる。境内に入ったときには、過呼吸になりかけていた。
うずくまって、息を整える。
顔を上げると、社殿はそのままにあった。きっとここで菜月と会っていたに違いないと萌恵は思う。そして,今はどうか。
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