第28話 記憶の形
走るうちに、所々影が見えるようになった。
最初は形もわからないほどのもので、野球ボールくらいのものもあれば、萌恵ほどの大きさのものもあった。あったというより、萌恵の視界の端の方に影がさしたのだ。
その数は少しずつ増えていった。
急な坂道を登りきると、萌恵の通う高校の講堂が見えてきた。天高い塔の上に大きな時計が付いているので、生徒たちの間では、時計塔と呼ぶ者もいた。
高校の正門を通り抜けて、講堂の前の世界ロータリーを過ぎると、校庭が見える。
校舎からたくさんの生徒たちが逃げ出してきている。萌恵の脳裏に地震の記憶が薄ぼんやりと蘇ってきている。まだ、ひとり一人の顔までははっきりとしない。
見たことのある髪型、体型、走り方、どれも必死だ。
萌恵は、どこかに自分もいるのではないかと見回した。影は、輪郭を明らかにしているに過ぎない。はっきりとは、わからない。
確か、地震のときは、教室を飛び出して、校庭に出た。校庭のトラックの真ん中で、何かを見た気がする。萌恵は、トラックを走りながら運動場を大きく回った。
まだ、何もいない。生徒たちは、校舎に沿って逃げている。不思議なことに誰も、トラック内には入ってこない。
突然のつむじ風にあおられた。萌恵は思わずスカートを押さえた。今の今まで、自分かスカートをはいていたことさえ忘れていたのに。
運動場の真ん中に何かが現れようとしていた。虹色の光彩が現れては消え、また現れた。
地面が盛り上がったり、窪んだりしていた。地震の影響だとしたら、揺れが長過ぎる。校庭の周辺の木々も変だ。揺れているのではない。動いている。
ゆらゆらと移動し、逃げ惑う生徒たちに出くわすと、急に暴れ出し、生徒たちをはねのけ、跳ね飛ばす。
砂場の砂は砂塵となり、生徒たちに襲いかかる。
更には、それらが集まり、固まって異形の姿となった。角があり、牙があり、硬い棘のある尻尾があった。魔物か、化け物か、何とも不気味なものたち。見るも無惨。例えようもない。
萌恵は、目をそむけた。
阿鼻叫喚とは、このようなことを云うのだろうか。
ただ、萌恵には襲いかかって来ない。それは、化け物たちに萌恵の姿が見えていないのか、それとも、これらの光景は萌恵の記憶の中の幻影に過ぎないからなのか。
萌恵は、立ち尽くしたままで、呆然とした。
空気感が変化する。
「何か来る」と萌恵は直感した。
虹色の光彩が、オーロラのカーテンのように舞い上がる。その中心になにかが、来ている。
暴れ回っていた魔物や化け物たちの動きが止まった。それを恐れている。じっと光の中心を見る様は、悪さをした飼い犬がご主人様の怒りに身を縮めるかのような哀感が漂っていた。
萌恵は、もっと恐ろしいものを想像した。
鞭のように空気がしなり、化け物たちを引き裂いていく。肉片が飛び散り、赤や青の血しぶきが上がる。凄惨な光景になった。しかし、光の中心にいるものは静かだ。平然と殺し続けている。
いや、殺してはいない。
肉片と化したものたちは、ピクリピクリと動き、少しずつ集まり始める。水銀がコロコロと転がって集まるように、くっついては一つになっていく。
つまりは、死なないのだ。
再生に時間がかかる。その分、逃げられるということなのか。とすれば、あの光の中にいるものの正体は何なのだろうか、と萌恵は思った。みんなを助けているのかもしれないと気づいた。
鞭のようなショックウェイヴは収まっていた。今なら近づけるかもしれないと萌恵は思って、慎重に光の中心に近づいていった。
突然、頭の中に声が響いた。「来るな」と言っている。厳しい声だが、女性のような柔らかさがあった。
「どうして」と返す。言葉ではない。萌恵は思いを返した。
「お前は、我が世界の者ではない」
萌恵の頭の中に、様々な問いかけや思いが生じて、思考が混乱した。それでも、相手は萌恵の気持ちを汲み取ってくれたようだ。一瞬ちらりと姿が見えた。何か懐かしい、知り合いでもあるかのような、見たことのある女性だった。一瞬微笑んだようにも見えた。
「また、会おう」と頭の中で声が響いて、光は一点に収束していった。
同時に、肉片と化した魔物や化け物たちも消えていた。
萌恵は静かになった運動場の真ん中にぽつんと残された。逃げ惑っていた生徒たちの影も消えている。今見ていたものは、一体何だったのか。幻影、夢、でも達したとき、上下に裂けた。、自分はまだここにいる。
いや、ここがどこかさえ今となってはわからない。自分は一体どこにいるのか。
静かになった運動場を横切って、校舎の方へと歩いていく。
もう誰もいない。影たちもいなくなった。
校舎の手前まで来たとき、そこはいきなり時計塔になった。記憶の断片を辿っている感じになったのは、そのときだった。
入口の前には、初代校長の銅像が立っている。頭の向きが変だと萌恵は思った。百八十度捻じ曲がって、萌恵を見ている。しかも、銅像の目が白く光っている。白い光は、かえって瞳を黒く際立たせていた。
見られていると、萌恵は感じて怖くなった。
ギリギリと上半身までも捻じ曲がって、萌恵に相対した。化け物の生き残りか。異形の銅像は、萌恵を眼窩に捉えると静止しだ。見られているのは確かだと萌恵は思った。
その銅像の口が万力で引っ張られたかのように、下に伸びる。金属が無理に引っ張られて悲鳴を上げる音さえも聞こえてきたような気がした。そして、限界に達したとき、上下に裂けた。その裂け目は牙のように見える。
銅像は下半身を後ろ向きにしたまま、台座から飛び降り、萌恵に向かって歩き出した。足がカクカクと折れ曲がったまま、まるでダンスをするかのように、歩いてくる。
その奇妙な動きは憫笑に値するものかもしれなかったが、目の前に迫ってくると、更に不気味さを増した。萌恵は逃げたい。でも、身動き一つできなかった。
絶体絶命。
頭の中で考えに考えたとき、不意に、確か、誰かがいたような気がした。うっすらとした記憶の彼方から、萌恵に閃くものがあって、自分はここでだれかに会っていると思った。さっきの不思議なものとは違う何か。多分、人間だった。
何しろ萌恵はここで死んではいないのだから。
そうだ。ここは過去だ。現実かどうかはわからないけど、一度は経験した場面だ。
ただ覚えてないだけ。だったら、負けないんじゃない?
そう考えると、萌恵は気持ちが楽になった。周りが見えてきた。すると、銅像の向こう側に人影が見える。
「助けてえ」と萌恵は叫んでた。
その人影は踊るように手を振って、ポケットから何かを取り出した。それを銅像に向かって投げる。キラキラと光って回転しながら、それは銅像を切断した。萌恵はびっくりした。この人影もまた異世界の住人なのだろうかと思ったのだ。
銅像はバラバラになりながらも、まだ動いている。萌恵は、這い寄ってきた右腕を思いっきり蹴った。右腕は講堂前の噴水を飛び越えて、プール脇のサークル小屋の方へ飛んでいった。何かに突き刺さったような鈍い音が聞こえた。
「大丈夫かな」と、その人影は言ったように思えた。
講堂の照明の下に姿を現したその人影を見て、萌恵は思わずその名前を口にした。
「カーライルさん」
相手は萌恵に気づいているのかいないのか、何か話しているのに、声も聞き取りにくい。本来、ここには萌恵がいたはずだし、萌恵にはうっすらと記憶に残っている。でも、それは萌恵とは違う萌恵なのだろう。
萌恵は誰かと話しているカーライルの横を通って校門へと向かった。途中振り返って見たけど、カーライルの話し相手は見えなかった。でも、きっとあそこには自分がいたはずなのだ。
萌恵の舞い降りたこの三輪坂町は萌恵の記憶の残照なのか。走っていると、途中の景色がぼんやりとしていて、流れているように見えるところがあると、やはり記憶に過ぎないと思う。
とすると、次は誰に出くわすのか。
萌恵はできるだけ速く走り続けた。化け物はもとより、人間であっても、変な人には会いたくなかったからだ。誰と出くわしたのか、すでに知ってるはずなのに、うまく思い出せないのが腹立たしかった。
学校を出ると、ちょっとした商店街の中を通る。三輪坂上商店街という。JRの駅を境に高台と平地に分かれている三輪坂町では、「上」とつくと高台の上になる。萌恵の通っている高校も、高台の上だから、上三輪坂高校となる。
ちょうど夕方の買い物時なのに、人影はなく、店のシャッターも降りている。萌恵はいよいよ現実ではないという思いを強くした。
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