第17話 紫水晶、再び

 高井戸は、周りの黒い霧を自らのうちに吸い込んだ。一体化した。その様は、凶悪な犯罪者が一つに集まったかのように、醜悪な感じだった。

 姿は変わらないのに、それまでの高井戸の面影が消え、全く別の、おぞましい姿になったかのように感じられたのだ。

 カーライルが急に「おお」と声を上げた。

「おまえを知っている」

「あなたも」と萌恵。

「おまえは、警察の留置所にいた。たくさんの囚人じゃ」

 黒い霧の下から、残虐な笑みを浮かべる口元が見えた。萌恵は、背筋が寒くなるのを感じた。萌恵自身もまた、その場に居合わせたような感覚に襲われたからだ。

 覚えていない。けど、そんな気がする。

 高井戸の体が、何倍にも膨れ上がった。楓はというと、糸の切れた操り人形のように気を失って倒れている。楓が意識を失ったせいだろうか、萌恵とカーライルを縛っていたくびきも解けて、どこに行ったか、人形も姿を消している。

 カーライルが立ち上がり、服の埃を落としている。萌恵は……まだじっと座り込んでいた。動きたくないのと、高井戸の姿に衝撃を受けていたためだ。

「ようやく本性を現したか」

 カーライルはなぜか嬉しそう。こういう危機的状況になると、かえって生き生きしている。

「あれは何なの」

「奴の本来の姿じゃ」

「高井戸さんの?」

「いや、あのお嬢ちゃんにつきまとっている輩の本体じゃ」

「あれが…」

 萌恵には理解できなかった。黒い霧のせいでもう高井戸の姿も、楓も、全く判別できない状態になっていた。

「逃げよう」

 萌恵は、カーライルと一緒に入り込んだ建物も、すでに消えていることに気づいていた。逃げようと思えば、逃げられると考えた。

「ここは、逃げるべきではない。あやつは、この世界からわしらの世界に来て、自分を失い、変化したものたちじゃ。このままにしておくと、危険じゃ」

「何人もいるの」

「さよう。あのお嬢ちゃんも、取り込まれている」

「高井戸さんが?」

「もう一人もかもしれん」

「でも、どうやって戦うの」

「奴の持っている紫水晶が、恐らくは奴の命取りになる。あれは、人を惹きつける。見た者を虜にし、欲望を刺激する。だが、誰も思い通りにはできない。わしらは戦うのではない。奴が自ら滅びて行くのだ」

 カーライルの確信を持った言葉に萌恵は、そうかもしれないと思い始めた。そんな萌恵の願望を打ち崩すかのように、黒い巨人は二人に襲いかかって来た。

「逃げろ。とりあえず」

 カーライルが走り出す。

「待ってよ」と起きかける萌恵。

 後ろには、黒い塊が迫って来ている。ひょっとしたら、巨大化したのは、紫水晶の力だったんじゃないかと萌恵は思った。そして、占いの館で紫水晶に中に入り込んだ時の感覚を思い出した。何か暖かく包まれるような感覚で、なんでもできそうな気持ちになったことを思い出した。

 萌恵に黒い霧が追いついてきた。すると、あの暖かく包まれるような感じが戻ってきた。これって一緒なの?

 嫌なのに、嫌ではない。不快なはずなのに、ずっとそこにいたいような感覚。B級グルメみたいと、萌恵は思った。

「取り込まれるぞ」

 カーライルの声に萌恵は我を取り戻した。周りの黒い霧を払いつつ、走る。

 振り返ると、後ろはもう真っ黒だ。こんなに大きくなっちゃたのと、萌恵は悲しくなった。逃げきれないんじゃない。そん瞬間、足を取られて、ひっくり返った。

 一瞬、青空が見えた。

 すぐに真っ暗。

「やめてえ」と叫んだが、後の祭り。真っ黒のかたまりに飲み込まれてしまった。

 一瞬、溺れたような感じ。無意識のうちに手足をバタバタさせていた。なのに、息苦しさはない。不思議な感覚に包まれている。

 紫水晶の中にいたときと同じ。これって、何かしら。

 真っ黒の中に、輝く光のかたまりが見えた。暗闇はその光のかたまりの周りをゆっくりと漂っている。まるで、遠慮しているかのように。

 いつまでもそこにいたいという気持ちになった。

 高井戸の姿を見ていたときの不気味さと恐怖感は消えていた。そこでようやくカーライルのことを考える気持ちの余裕が生まれた。周りを見回しても、どこにもいない。ということは、まだ黒いかたまりに取り込まれていないということかと、萌恵は考えた。

 だったら、助けてよって言いたい。

 萌恵は周りを確認しながら、光のかたまりに泳いで行った。不思議なことに、泳ぐといった表現がふさわしい。手と足で周りのモヤモヤしたものをかき分けていくと、光のかたまりが近づいて来た。

 よく見ると、それはかたまりではなく、小さな光の粒子の集合体だった。

 この空間はまるで異次元の世界であるかのように広い。黒い化け物に飲み込まれたというのとは、違っている。光と影とがせめぎ合いながらも、共存してる。

 化け物の中にいるにも関わらず、この中は居心地がよかった。萌恵には、このままここにいてもいいかなとさえ思えた。

 占いの館で、紫水晶に中に入り込んだ時は、体と意識が分離していて、意識だけが紫水晶の中にいた。今は、体ごと飲み込まれている。どこにも逃れようがないのかも、と萌恵は思った。

 そう思うと、ちょっと悲しくなる。

 それにしても、カーライルは一体どこに行ったのか。

 萌恵自身は、次第にこの暗い靄のような化け物に取り込まれていって、自分という意識も身体もなくなってしまうのかもしれないと漠然と感じていた。

 そう思った時、意識がふわりと身体から離れた。

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