第9話 蟹庵亭

 店の中にも狭い通路があり、そこを抜けて角を曲がると、カウンター。そして、奥にテーブル席がある。入り口からは想像できないほど、中は広い。萌恵とカーライルが入っていくと、狭い中庭に面したテーブル席に案内された。メニューはない。おまかせだ。ただ、ドリンクだけは聞かれたので、水をお願いした。カーライルも一緒。

「飲んでもいいですよ」と萌恵は勧めたが、カーライルは断った。

「何か出てくるのかね」とカーライルは興味深そうに聞く。

「蟹かな。でも、初めてだから、正直わかりません」

 出てきたのは、盆に載ったおまかせ定食で、主菜に唐揚げと天ぷらに蟹足一本、香の物、味噌汁、ご飯の組み合わせ。ご飯が大盛りだったのがサービスかもという気がした。

「美味しいね」と、カーライルは嬉しそう。

「わたしはもっと違うのを想像してました」と萌恵。

「わしには日本食は合っとる。きっと前世は日本人だったに違いない」

「前世なんて、仏教的ですね」

「インド的といった方がいいかも。ブッダもインドの御仁じゃからの。厳密にいうと、仏教とブッダの教説は微妙に異なる」

「詳しいんですか」

「ちょっとな。中国が介在すると、なんでも変わってしまう」

「中国の人が怒りますよ」

「友達でもいるのかね」

「いいえ。みんなに気を使うのが、わたしの国の習わしですから」

「いいことじゃ。わしにも、も少し気を使ってくれると嬉しいのじゃがなあ」

 と、カーライルはため息をつく。

「十分、気を使ってますけど」

「そうは、見えんなあ」

 カーライルは少し大げさに両手を広げて、天を見上げる。萌恵はにっこりと微笑んで、「もう少しは、本当のことを話してくださいね」と付け加えた。カーライルは、仕方ないなあとでも言うかのように、居住まいを正して、萌恵に向き直った。

「じゃあ、言おう。ただし、誰にも内緒じゃ」

「もちろん」

「親にもじゃぞ」

「ラジャー」

 カーライルはそこまで言うと、萌恵の返事を聞いて少し安心したかのようだった。萌恵はじっとカーライルの目を見つめた。

「君が、この店に目をつけたのは正解じゃよ。ここは、わしの住処でもある」

「ここに住んでるの」と萌恵は思わず声を大きくした。

「しっ、静かに。ここは、あの揺れの後、わざわざ作った拠点じゃ。誰にも知られてはならん」

「カーライルさんは、スパイ?」

「まさかな。秘密の活動をしているのは、何もスパイとは限らんぞ」

「あるんでしょ、秘密の地下室」

「あったとしても、連れて行かん」

「武器とか爆薬とか、いろいろあるの」

「テロリストじゃないんだぞ。あるわけない」

 カーライルはいささか憤慨した。「わしらの活動は隠密なものだが、世界の平和と安定のためのものだ。破壊ではない」

「仲間がいるのね。ミッションインポッシブルみたいな感じ」

「映画みたいにかっこよくはいかんよ。それに工作員じゃない」

 カーライルはまだ言葉を探している。日本語は上手なのに、と萌恵は思う。若い小娘を言い包めるくらいのことは朝飯前のはずだという気がしていた。

「記憶の糸を手繰り寄せていくうちに、わしはどこかで君に会っているという気がしてきている。それがどこかは分からぬ。君には覚えはないか」

「そう言われてもねぇ。実を言うと、わたしもそんな気はしていたの。わたしの頭の中には、うっすらと学校の校舎や真っ暗な林の中が浮かんでくるの。カーライルさんはどう」

「わしは、狭い路地裏の時計屋か、雑草すら生えていない広い空き地かな」

「時計屋って、結構具体的ですね」

「そうなんじゃ、古い時計が並んでる光景が頭から離れんのじゃよ」

 萌恵は、ふうんと言いながら考えた。思い出すことって夢かもしれないけど、たまに本当もある。萌恵自身、途切れた数日間を思い出そうとすると、必ず校舎と暗い林の中が浮かんでくるのだ。理由はない。自分でも不思議なくらいだ。

「カーライルさんは、日本に来た目的も忘れたって言ってたわね。でも、仕事って、相手がいるでしょ? 何の連絡もないの」

「まだ誰からも困ったという連絡がない。それで逆に、わしが困っておる」

「結構、自由にやってたのね。羨ましいわ」

「どうして」

「ある意味、他の誰とも仕事が被ってないし、誰からも咎められないってことでしょ」

「これでも、ちったあ部下のいる身なのじゃがね。誰も気にしてないというのは問題じゃな」

「この店の人は、関係者じゃないの」

「違う。わしは居候じゃ。この店の近くにぼんやりと座っておったら、店の主人が声をかけてきて、一杯ご馳走になり、二階の部屋を一部屋貸してくれた。しかも、家賃はある時払いと言う好条件でだ」

「ますます怪しい。ここは拠点だって言いましたよね」

「わしにとってはな」

「カーライルさんは誇大妄想狂?」

「そう思われていた方が都合がいい」

 萌恵は立ち上がって、カウンターの中を覗き込む。髭を生やした中年の小太り男がフライパンを振っている。小気味好く具材が踊り、手際がいい。片手間の仕事ではない。料理の腕は本物だろう。それに、バイトらしき若い女の子が一人いる。女の子は萌恵の視線に気づいて、ウォーターポット片手に「何かご用ですか」と近づいてきた。

 萌恵は大胆にも、「あの人がオーナーさんですか」と女の子に聞いた。

「ええ。そうですけど、呼びましょうか」

「いえ、ちょっと気になったから」萌恵は笑って誤魔化した。

 女の子は萌恵とカーライルに水を汲み、カウンターの中に戻って行った。見回してみると、他には客がいない。ここにいる全員がグルなら、萌恵は一人。やばいかなという気がしてきた。萌恵の気持ちを察したかのように、カーライルが言った。

「心配はいらん。店の人間は普通の人じゃ。仲間でも何でもない」

「秘密基地じゃないの」

「当たり前じゃ。さっきも言った通り、ここのオーナーは気のいい奴で、わしに部屋を提供してくれたんじゃ」

「それじゃ聞くけど、カーライルさんはどうして、あの場所にいたの」

「どこ」

「火事の現場」

「何かが引き寄せたというしかない」

と言いつつ、手の中で黒い石のかけらを遊ばせている。萌恵はその石の色艶が気になった。

「それ、何」

「これか」とカーライルは、自分の手の中にあるものを改めて気づいたかのように驚いて見せた。「水晶。持ってたの」

「わしのポケットに入っておった。何かの石のかけらだが、水晶かどうかはわからぬ」

 よく見ると黒っぽい。光の加減によってやや透明に見えるところもある。ただ、萌恵は紫占の部屋で見た黒水晶に感じた引き込まれるような感覚を覚えなかった。かけらが小さすぎるからなのか、違うものなのか。

「これが、わしに何かを教えてくれる。わしは導かれるように、あの場所に行った。もう火は収まっていて、消防隊も大部分引き上げていた。わしは、狭い路地を通り抜けてあの場所に出た。そしたら、君がいたのだ」

「あの変な空間も」

「この石の導きじゃ」

「わたし、何も感じない」

「わしもそうじゃ。これは、ちょっとした瞬間に、閃きをくれる。道が分かれていたら、どっちに行けばいいか教えてくれる」

「ふうん。占い師みたい」

「占いの館の…かね」

「紫占さんは、黒水晶を使ってたわね」

 カーライルは興味深々で、「それって、本当に黒だったかな」

「どういうことよ」

「いや、わしの知っている水晶は、紫だったからね」

「それって、今持ってるカケラのこと?」

「かもしれない。確証はないがね」

「だったら、どうなるの。奇跡でも起こる」

 萌恵はちょっと興奮気味に聞いた。

「いろいろな噂はある。ただ正直、誰も知らんのだ。人を消したり、化け物を出現させたとも言われている」

 萌恵の頭の中で、空想が広がっていく。化け物の姿さえ、ありありと見て取れるような気がした。そして、黒水晶の中で見た光景。まるで、透明な水の中にいるかのような感覚。それらが繋がっているのだと思うと、いままでにない恐れを感じた。

 カーライルは言葉を続けた。

「いにしえから伝わるものでな、自然物なのか人工的なものかさえわからない。不思議な伝承だけが独り歩きしておる。わしが持っているのは、カケラにすぎないから害はないが、萌恵さんが見たという水晶はもっと大きかったのじゃろう。不思議に思わんかったかね」

「ちょっとね」

 萌恵は言葉を濁した。話しても、信じてもらえる気はしなかった。逆に変な興味を持たれても困る。カーライルは貼りついたような固い微笑みを浮かべている。それが不気味だった。

「あまり一人で悩まぬことだ。わしも何か重大なことを忘れている。君も、思い出せないことがある。問題は、どうやってそこにたどり着くかじゃと思う」

「方法はあるの」

「これが教えてくれる」

 カーライルが右手の親指と人さし指に石を挟んで、萌恵に見せた。その時、萌恵は別の視線を感じて目を向けると、カウンターの中の店のオーナーが暗い目でこちらを見ていた。怖いと思った途端、オーナーは目をそらした。カーライルも、店の女の子も誰も気づいていない。

「とりあえず、食事も終わったし、ちょっと散歩しませんか」

 萌恵はカーライルを誘った。

「いいのう」とカーライルは嬉しそうに立ち上がった。

 カーライルは約束通りおごってくれた。精算の時にカウンターの中を見ると、小太りのオーナーが愛想よく笑って「ありがとうございました」と言った。さっきの暗い表情は何だったのか。今朝からというより、占いの館にいた時から、人のもつ暗黒面に何度も出くわしているようで、ちょっと気持ち悪かった。

 蟹庵亭を出て、車一台通るのがやっとの道を登っていくと高台の端にきた。小ぢんまりとした森がある。鳥居には、籠神社とあった。萌恵にとっても、もちろんカーライルにとっても初めて来る神社だった。二人は、鳥居をくぐり狭い境内に入った。

「さっきの店の人、やっぱり怪しいと思う」と萌恵が切り出した。

「そうかね」

 カーライルは反論しない。

「カーライルさんは、嵌められているんじゃないのかしら」

「なぜ」

「直感というか、何となく…でも、きっとそうだと思うの」

「彼は諸角隆也という名で、もう長いことあそこで店をやっているそうじゃ」

「そこ、そこが怪しいの。だって、わたしの知る限り、前にはなかったもの」

「前というのは」

「あの地震の前」

「前は何だったのかね」

「なんでもないわ。気にもならなかったくらいだから、誰かの家だったんじゃないかしら」

「さて、どっちを信じればいいのかのお」

「どっちって、誰と誰」

「君と、諸角」

 萌恵にとっては、自分と比較しないでって感じだった。だから、思いっきり抑えた声で、

「騙されてると思います」と言った。

 カーライルはまだ半信半疑といった様子。萌恵にも、説得できる材料はなし。仕方ないかと、萌恵は半分諦めた。

「信じるか、信じないかはあなた次第ですってね」

 そう言われると、カーライルにも迷いが出た。考えててみると、諸角は人が良すぎる。あの店は急拵えには見えないものの、立地が悪いせいか、客は少ない。商売が成り立っているのが不思議だ。「少し考えさせてくれたまえ。そして、また会おう」とカーライルは萌恵に言った。

「いつでも」と萌恵は笑った。

 そして、「わたしはこっちだから」と手をふって別れた。

 長い石段を降りていく。見晴らしはいい。ただ油断していると、足を踏み外しそうだ。

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