第8話 失われた時間
紫占は自分の記憶すら失っていた。黒水晶もみつからない。萌恵にとっては、黒水晶にあれほど引き寄せられていたのに、その痕跡すら感じ取ることができないことが不思議だった。老人と萌恵が入り込んでいた空間も消えている。現場検証中の警察官や消防関係者は、突然現れた老人と萌恵に驚いた。
「あんたたち、どこから来たんだ」
萌恵には答えようもなかった。しかし、老人が身分証のようなものを見せると、相手はびっくりして敬礼した。やっぱり、この老人只者じゃない。
「一体、何見せたの」と萌恵が老人に聞くと、老人は何でもないという顔をして「いつも持ち歩いているビザじゃよ。わしのは特別じゃがね」と答えた。萌恵は、見せてというのも図々しい気がしたので、それ以上追求しなかった。また後でって感じだった。
紫占は救急車に乗せられて、病院へ。それを見送ると、老人は「じゃあな」と手を降って、そのまま立ち去ろうとした。
「ちょっと、どこに行くの」
「帰るよ」
「じゃあ、連絡先教えて」
「ああ、いいぞ。ここじゃ」と言うと、老人は名刺を差し出した。
「ケネス・ブラックハマー・カーライル」と書いてある。それに、住所と携帯番号。住所に北区三輪坂とある。
「ここに住んでるの」
「仮住まいじゃがな」
「わたしと一緒。わたしも三輪坂町なの」
「奇遇じゃのう」
「私は、萌恵。柿原萌恵。よろしく」
「柿原? お嬢ちゃんは、柿原というのか」
「知り合いでもいるの」
「昔の友人がな。お嬢ちゃんの祖父さんは健在か」
「もう死んでる。私が生まれる前の年に亡くなったわ」
「そうか、名前は楽衛門じゃないよな」
「違う」
「そうじゃろう。きっと、そうじゃろうなあ」
「知ってんの」
「いや、そうとも限らん。長いこと会っておらんから、顔を会わせても分からんかもしれん」
「その楽さんとは、いつ頃知り合ったの」
カーライルは遠くを見つめる目になって、「かつての戦争の時だ」
「湾岸戦争? それともベトナム」
「いや、もっと前じゃ。お嬢ちゃんの国とわしの国が戦ったときのことじゃよ」
「お爺ちゃんは、アメリカ人?」
「その通り。移民の国じゃからいろいろおるがね」
「ずいぶん前じゃない。あの頃、二十歳でも今じゃ、九十歳を超えてるわよ」
「そうは見えないかな」
「全然」
「いいや」と言って、カーライルは微笑んだ。
「時の経つのは早い」
「どういうことよ」
カーライルは何かを思い出しているかのように、遠くを見ている。萌恵は、ひょっとしたら、おじいちゃんと何か関係があったのかなって思った。おじいちゃんはもう死んでいないので、父親に聞くしかない。その父親も、出張ばかりで、ほとんど家にいないから、今のところ打つ手なし。母の咲子じゃ、分からないと思った。世事に疎い、お嬢様育ちの人だからだ。
「で、カーライルさんは何者ですか」
「わしか、わしは見ての通りの…」
そこで、萌恵がカーライルの口を手で封じた。「会ったことあるわよね」
「どこで」
「あなたは、私のことを知っている。だから、近づいて来たんじゃない」
カーライルは笑った。「買いかぶりじゃよ」
「そろそろ真面目に話してくれてもいいんじゃないの」
カーライルはちょっと考えて、「萌恵さんといったね。勿論、君に会うのは初めてだ。だが、君の知らないことをいろいろ知っているのも、本当だよ。ただ…」
「なに」
「言えないこともある」
「そうね。だったら、今は言えることだけでいいわ」
カーライルは本当に困っているような顔になった。どこから話したらいいのか、戸惑っている感じだった。
「一つ聞きたい。君は、この一、二週間の記憶があるか」
「あの地震の時のこと?」
「地震だと思っているのかね」
「みんながそう言ってるから」
「実は、わしにも確信はない。どうしても思い出せないのだよ。何かが揺れていたことをぼんやりと覚えている。まるで、夢に見るように映像が蘇ってくる。だから、地震と言われれば地震なのだろうが、何か違う気がする。あの揺れの前までの記憶もあるし、揺れが治ってからの記憶もある。なのに、ぽっかりと抜けている。なぜか」
「へえ、そんな風に言う人、初めて」
「君は、どう思う」
「分からない。カーライルさんと一緒。わたしは、なんとか思い出そうとしている途中なの」
「あの占い師のところで、何があったのかね」
唐突にそう聞かれて、萌恵の頭の中に占いの館での光景が蘇って来た。紫占と楓そして高井戸の三人の異様な様がまたありありと浮かんでくる。そして、テーブルの上の黒水晶。
「水晶って、燃えたらもう後も残らないのかなあ」
「そんなことない。1600度を超えると分からんが、普通の火事なら残るはずじゃ。あの館に水晶があったのかね」
「黒っぽいのがね。占いに使っていたみたい」
水晶の中に入り込んだ感覚まで蘇って来たけど、萌恵はそのことをいう気にならなかった。
カーライルは、水晶ねえと呟きながら、歩き回る。萌恵と少しずつ距離を置くかのように、描く円が大きくなっていく。こいつ逃げようとしているなと、萌恵は直感した。そこで、萌恵も一歩ずつカーライルに寄っていった。二人は一定間隔を開けながら、原宿駅の方へと近づいていく。
「そうじゃ」と、急にカーライルが立ち止まった。「腹空かんか」
「急に、なに言い出すの」
昼も過ぎているので、さっきからお腹はギュルルといっている。でも、萌恵はカーライルがまた話をはぐらかそうとしているのではないかと疑った。
「いや、飯にしよう。おごるよ」
気前がいい。
「じゃあ、行きたい店があるの。ちょっと遠いけど」
カーライルは快諾した。が、きっとその後に後悔したに違いない。萌恵が連れていったのは、原宿から離れた北区の三輪坂町の喫茶店だったからだ。萌恵が、そこにした理由は、記憶の途切れていた期間の前にはなかったはずなのに、ずっと前から当たり前にあったかのように営業している店だから。正直、いつの間にかオープンしている店って感じだった。
看板は古い材木の板に「蟹庵亭」と書いてある。築50年はあるかと思われる民家を改造して店構えにしている。入り口は狭く、いかにも誰かの家に遊びに来ましたという風体だ。そこは、路地に入り込んでいたので、カーライルもおっかなびっくりだったらしく、店の前についたときには、思わず「君はよく道を知ってるな。この辺りに住んでるのかい」と聞いて来た。
「近いわね」と萌恵はさりげなく答えた。
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