第6話 謎の老人

 老人はにこやかだった。

 萌恵に親近感を覚えているようだ。何がよかったのか、わからない。萌恵の知らない何かを知っていると萌恵は感じていた。

「あなたは誰」と、萌恵は改めて聞いた。

「わしかね、わしはただの爺さんだと言っても、お嬢さんには通用しないじゃろうな。何というか…」と言葉を切った。そうして、しばらく考えた挙句、「提案じゃがな、この件には、目をつぶって、しばらくわしに付き合ってくれんかの」

「どうしてですか」

「その方が、お嬢さんにとってもいいと思うんじゃ」

「勝手な言い草のように聞こえます」

「そうじゃろうな。質問をやめて、こっちに来んか。面白いものが見られるぞ」

 老人は軽い足取りで、焼け跡の方に歩いて行った。塀の一部に小さな階段がある。老人はそこを登っていく。萌恵は慌てて後を追う。階段に足を掛けるときに、一瞬下を向き、すぐ目を上げると、不思議なことに老人の姿はなかった。萌恵はびっくりして階段の途中で立ち止まった。急に止まったので、後ろに倒れそうになった。その時、いきなり手が現れて萌恵を掴んだ。えっ何って感じ。萌恵は違うところにいた。

 機械仕掛けの箱が目の前にある。萌恵の目線より少し低い。そして、にこやかな笑顔の老人。周りは、占いの館の焼け跡なのに、空気感がさっきまでと違う。焼け跡を調査している係官たちが、影のように見える。

「ここはどこ」と萌恵が聞くと、老人は「さて、どこじゃろうな」と他人事のように呑気なことを言う。「どうして、わしらはここに入れたのじゃろうな」

「この箱は何」

「これがわしが知りたい謎の一片なんじゃよ」

 萌恵は、箱を開ける鍵や扉があるかどうか調べて見た。ない。

「どうしたらいいの」

「さあ、わしにもわからん」

 と老人はさりげない。箱の周りを回りながら突起や歯車のようなものを触ったり、回そうとしたり、いろいろやってる。

「押してみたら」と萌恵が言うと、「おお、そうじゃのう」と感激したような声を出して、突起物の一部を押した。

 ガラガラと音がして歯車が回り始める。二人はびっくりして、一歩退いた。

 じっとみていると、後は何も起きない。老人がまた別の突起物を押す。変化なしが何度か続き、また、ガラガラと歯車が回る。そして、それだけ。

「ちょっと、つまんないですね」と萌恵がつぶやく。

「いや、きっと何かあるはずじゃ」と老人は少しムキになる。年甲斐もない。

 同じことを何度も繰り返した挙句、ようやく老人は鍵穴のようなものを見つけた。そこに何か細長い針金のようなものを差し込み、カチャカチャと動かし始める。引き出したときによく見ると、先端が直角に曲がり、しかも尖っている。鍵師などが使う道具に似ている。

「開けられるの」

「さあて、鍵穴かどうかもわからんでなあ」

 老人は何度も汗を拭う。萌恵は座り込んで、その様子を眺めていた。ここでの時間はなぜかゆっくりと過ぎて行っているように感じる。ぼんやりしていると急に、老人の外見は外国人ぽいのに、日本語に長けていることに違和感を覚えた。

「ちょっと聞いていい」

「何じゃね」

「お爺さん、日本語上手ね」

「まあね、日本とは長い付き合いじゃからな」

「こっちに住んでるの」

「いや、数年ぶりに来たところじゃよ」

「知り合いでもいるの」

「多少はね。みんな古い仲間じゃ。もうほとんどおらぬがね」

「なかなか鍵が開かないのね」

「退屈か」

「そうね」

「じゃあ、お嬢ちゃんも手伝ってくれぬか」

 老人は、箱の反対側を調べるよう言った。萌恵は仕方なく箱の周りをぐるりと回って、老人とは反対側にきた。その面の構造は、また違っている。歯車や滑車、ベルト、バネなどが複雑に絡まっているのは同じなのに、何か趣が異なる。

 機械仕掛けの奥を覗くと、何かキラキラと輝くものが見える。鏡にような、宝石のような、綺麗に光を反射するもののよう。その光の中にすうっと引き込まれそうになった。

「なあ、お嬢ちゃんや」

 そのとき、老人が萌恵に声をかけた。萌恵はその言葉に引き戻された。

「古代の哲学者にクロスカスマスというのがいてな、複雑なことを研究しておった」

「複雑って、何」

「複雑さそのものじゃよ」

「わかんない」

「クロスカスマスの複雑図形といってな。一見すると、訳の分からないほど複雑なのじゃが、見る角度や視点の違いで、単純な図形であることがわかるという代物でな」

「それが何か」

「それを試しておる」

 萌恵にとっては、どうぞご勝手にって感じ。お爺さんの言っていることを理解できないけど、この箱は図形というより、機械仕掛けにしか見えない。思い切り蹴った方が早いんじゃないの、と思う。ただ、蹴ると足が痛いから、やめとく。

 それにしても、周りを影のように動く人影は、全くこの箱の空間には入ってこないし、ぶつかることもないのが不思議。今、萌恵と老人は、ここにあって、ここにない空間にいるのだろうと思う。萌恵が理解できるのは、その程度。あとのことは考えるのも無理。

「この小さな箱の中に何があるというの」

「お嬢ちゃんは、何があると思う」

「さあ」

「知っとるんじゃないかな」

「どうして」

「だから、わざわざここに戻ってきたんじゃろう」

「見てたの」

「火事が起こった時、わしもあのカフェにいたもんじゃからの」

「気づかなかった」

「そうじゃろう。お嬢ちゃんは、ずっとボサボサ髪の若造に気をとられておった」

「人が悪い。見てたのね」

 老人は、奇妙な声をあげて笑った。芝居掛かっている。この爺さんには、きっと何か秘密があるという気がしてきた。

「お爺さんは、何もの?」

「わしかね。わしはわしじゃよ。きっと、お嬢ちゃんの役に立つ」

「信じられない」

「そいつは寂しいのう」

「で、この箱は開けられるの」

 老人は肩をすくめた。お手上げって感じ。萌恵はちょっとイラッとして、思いっきり箱を蹴った。蹴ったところがへこみ、この箱は見た目より意外に柔らかいように思われた。

「そうか」と言って、老人が嬉しそうに手を揉む。

 老人は愛おしむように箱を撫でていく。まるで、マッサージでもしている感じだ。すると、箱が急にくねくねと動き出した。

 こそばゆいとでもいうのだろうか。箱は形を変え始めた。箱の天井が盛り上がっていく。驚いたことに、それが次第に人の形になっていく。機械仕掛けの人形の姿になり、顔らしきものや手や首の形になる。

 萌恵は目を見張った。機械仕掛けの人形だ。動くのかしら、とつい思ってしまう。じっと見つめていると、その人形は目がない。なのに、ゆっくりと顔を萌恵に向けた。

「きゃっ! こっち見た」

 萌恵は跳びのいた。

「どれどれ」と、代わりに老人が覗き込んできた。人形は、動かなくなる。目がないのに、何か感じているのだろうか。老人が触ろうとすると、急に手を振り退けた。

「痛っ」と声をあげて、老人は手を引っ込める。よほど痛かったらしく、老人は機械の手に当たった右手をさすり続けていた。

 よく見ると、口もない。マネキンの顔のように、顔の輪郭だけははっきりしている。なのに、肝心のあるべきパーツがない。

「お話もできないってわけね」と萌恵がつぶやくと、人形の顔に変化が現れた。

 口のあたりに亀裂が入り、小さなネジや歯車の細かな組み合わせが隙間から見えた。裂けたように見えていたものは、小さなパーツの動きによって作り出されたものだった。萌恵には、その人形が喋ろうとしているように思われた。

「あなたは、誰れ」

 機械仕掛けの口が奇妙な形に動く。電動仕掛けの機械音が聞こえてくる。

「あの三人は、どこに行ったの」

「三人。三人とは、何のことじゃ」と老人の方が反応した。

「ここにいたはずの人たちよ」と萌恵が言う。

 人形は、急に動きを止め、萌恵の方に顔を向ける。その顔に、少しずつ目が現れてきている。萌恵は、この顔は誰かに似ていると思った。でも、それが誰か、すぐには出てこない。遠い記憶の中のだれかだ。そんな気がした。

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