第4話 異変の兆候

 萌恵はそのとき部屋の外にいた。息苦しくなったからだ。まだ、何かに引っ張られるような感覚がある。自分という意識を失ったとき、というか、この体から意識が離れてしまったら、どこに行ってしまうのかという不安に襲われていた。体と心が分離してしまうような感覚があった。

 その時、部屋の扉が開き、茜が出て来た。茜は、座り込んでいる萌恵をみて、駆け寄った。

「萌恵さん大丈夫ですか」

「まあね」と言って、萌恵は立ち上がった。ちょっとふらふらする。

「あの女占い師、何か胡散臭さを感じます」

 茜の言葉には棘があった。萌恵は明るく「仕事、仕事」と言って、笑って見せた。そのことに、茜は少し安心した様子だった。

「心配かけて、ごめん。戻ろうか」

 二人が部屋に戻ると、ちょっと変な空気が流れていた。高井戸はカメラを置いて、紫占の前に座っている。楓は何かぼうっとして天井を見ている。紫占はといえば、高井戸を睨め付けるように立っていた。

 何か、変。茜は萌恵の背後に隠れた。萌恵は、自分が二つに分かれてしまうかのような感覚に襲われた。なんとかしようと茜の手をぎゅっと握りしめた瞬間、そのまま意識が跳んでいた。色々な角度から紫占と高井戸、楓、茜そして自分自身が見えてくる。一瞬として同じところにはいない。ただ同じ部屋の中にいることだけは確か。萌恵は自分に何が起こったのか、わからなかった。

 誰も動かないし、話もしない。まるで時間が止まってしまったかのようだった。

 そのうち、いくつかの視点から自分が見ていることに気づいた。同じ構図の見え方で、五人の姿が見えていて、それが何度も繰り返されている。自分で自分の姿を何度も見る内に、自分の意識と身体が離れていることを自覚した。

 意識としての自分がどのような姿で、存在しているのか。茜や楓たちに見えているのかは、わからない。その場にいる全員が凍りついたように動かない。自分だけが部屋の中を飛び回っている。不思議な感覚。それなのに、一旦、意識と身体が離れてしまうと、そんなに不安や恐れを感じなかった。廊下で感じていた恐れは消えていた。

 紫占に睨まれている高井戸は、ニンマリと笑っている。その手がゆっくりと水晶のカケラに伸びていく。紫占は、金縛りにでもあったかのように動かない。いや、動けないのかもしれない。楓の顔が、何か硬い感じの物質に変化していくように見える。全てがゆっくりと進行している。

 それは、萌恵だけに見えている光景なのか。時間の進み方が遅くなっている気がした。茜は身じろぎもしない。

 水晶のカケラの台座から金属の檻のようなものが生えて来ている。それは、高井戸の手を遮るように水晶のカケラを覆って行く。高井戸の表情が悔しそうにゆがむ。その動きが、妙にゆっくりしている。スローモーションの映像を見ているかのようだ。

 萌恵は、これは現実じゃないと思った。何かが作り出した幻想だ。きっと萌恵がその中に巻き込まれたに違いない。現実に戻りたい。でも、どうやって。意識が身体から離れている状況で、身体を動かすことはできない。意識だけの自分に何ができる。いや、ひょっとしたら、意識だけと思っていることも幻想なのかもしれない。

 萌恵は、なんとか水晶のかけらに近づこうとした。と言っても、そう思っただけなのだが。

 視点が変化するのは、自分の意識のいる場所が飛び飛びに変化していることを意味している。視点が跳んだ時に、あの水晶の近くに行けないものかと考えた。その時、紫占の首にかけられていた小さな鏡が、きらりと光って、その鏡に立ち尽くす萌恵の身体と茜の姿が映った。次の瞬間、萌恵はその鏡の位置から水晶のかけらと高井戸の姿を同時に見ていた。視界が揺れている。それは鏡の揺れのせいなのか。少なくとも、自分の意識が鏡の中に入り込んでいるとわかった。高井戸の背後に、萌恵の姿と茜の姿を見た時に、そのことを確信した。

 心臓の鼓動を感じる。身体から離れてしまっているのに、不思議。高井戸の顔に浮かび上がる不敵な笑みも不気味だけど、その前にある水晶のカケラの輝きも妖しげだ。台座から生えてきている金属の葉っぱや茎のようなものは少しずつ成長してきている。

 その時気づいた。心臓の鼓動は、もう一つ感じていた。紫占だ。紫占の心臓の鼓動が、鏡の背から伝わってくる。萌恵と同じように、紫占も緊張しているのだと感じた。

一体この三人の間に何があったというのだろう。茜は何も気づいていない。茜が部屋を出た後の短い間に何かがあったのだと思う。

 その時、水晶のカケラに映る自分の顔が見えた。よく見ようと目を凝らすと、水晶の中の自分と目があった。その瞬間、萌恵は水晶の中にいた。そこは変形した水の中のような空間で、萌恵は泳ぐように漂っている。水晶の表面を通して、紫占、高井戸、楓の姿が見える。三人は凍りついたように動かない。気になるのは、水晶の下の方から、黒い影が登ってこようとしていることだ。不安な気持ちが、沸き起こってくる。まるで、水晶自身が萌恵に気持ちを伝えてきているかのようだった。

 上の方には、キラキラと輝く光の点が無数に浮かんでいる。それらは、自由に飛び回り、ぶつかったり、離れたり、くっついたりしているように見える。萌恵はもっとよく見ようと、上に向かって泳ぎだした。その動きで、上にあったものと下のものが拡散され、混じり合って行く。足下から迫る黒いものと光の粒が混じり合い、黒が消えて行く。

 次の瞬間、全てが吹き払われた。萌恵は自分の身体に戻っていた。

 高井戸が振り返り、「あら、戻ったの」と聞く。紫占は椅子に座っていて、あの謎めいた微笑みを浮かべている。楓も何事もなかったかのように顔を向けた。萌恵の叫びは声になったのか、心の叫びだったのか、萌恵自身にはわからない。茜が、ちょっとびっくりしたような表情なので、ひょっとしたら声に出していたのかもしれない。

「何か変でしたけど」と萌恵が言うと、高井戸は「何が」と首を傾げた。

「険悪な空気が流れてましたよ」

「そうかな」とつぶやいた高井戸は、違うよねとでも言いたげに、紫占と楓を見た。二人とも、何の話かわからないといった表情になった。

「萌恵ちゃんの勘違いじゃない。きっと疲れてるのよ」

 疲れているというのは、話を誤魔化すときによく使われるフレーズだと萌恵は思った。この三人は何かを隠そうとしている。振り返ると、茜が袖を引っ張りながら、もうやめましょうと目で訴えている。

「それより、もう大丈夫なの」と高井戸が聞いてくる。

「はい。ご心配をおかけしました」と萌恵は極力明るく答えた。

 実のところ、ちょっと不安はある。あの水晶のカケラの前に行くのは、勇気がいる。離れていると、今のところ何も感じないので、影響はないと思う。萌恵は、慎重に間合いを測りながら、テーブルに近づいて行った。

「何を恐れているの」と紫占が面白がっているかのように聞く。

「意地悪ですね。そりゃあ、慎重になりますよ」

 萌恵は、さすがに水晶の真ん前に座る気にならず、傍に座った。当然、茜が正面になる。茜は部屋に入った時の三人の異様な感じを覚えているようで、紫占と楓の顔を交互に見交わしている。高井戸は立っているので、茜にとっては背後にいる。気にはなるのだろう。チラリチラリと後ろにも目を泳がせている。

「最後に、普通の恋占いもやってもらえますか」と高井戸が紫占に頼むと、紫占はにこやかに笑って「いいわよ」と答えた。

 萌恵にとっても、茜にとっても、その和やかさは薄っぺらなもののように感じられた。今度は当たり障りなく占いを聞いた。茜はまだまだいい出会いはないという話だった。萌恵に関してだけ、紫占は気になることを言った。

「あなた、もう出会っているかもよ」

「同級生ですか」

「いいえ、全く知らない人。一体、どこで出会ったのかしら。そこはぼんやりしてるけど」

「覚えがないです」

「多分、そのうち分かるんじゃない」と言って、紫占は微笑んだ。

 そこで、取材は終わった。

「今日はお世話になりました。失礼します」

と言って、萌恵と茜は占いの部屋を出た。控え室で着替え、制服をきちんと折りたたんで、椅子の上に重ねておいた。二人が着替え終わった時、まだ楓も高井戸も姿を見せなかった。

「何かあったんでしょうか」と茜が心配する。

 萌恵はこれ以上関わりたくなかった。「いいんじゃない」と言って、占い室の扉の前を通り過ぎた。

 待合室を抜け、玄関の扉を開けると、外はもう昼過ぎだった。太陽の日差しが眩しい。

 外の階段を降りようとしたとき、萌恵は急にめまいを覚えた。階段の手すりにつかまり、しゃがみこむ。茜が驚いて、体を支えてくれたので、倒れることはなかったが、意識が一瞬跳んだ。

 必死に声をかける茜が遠のいて行く。

 反対に、あの占い部屋の光景が近づいて来た。萌恵は天井を見上げている。高井戸、紫占、楓の三人の顔がある。下から見上げている。高井戸の指先が、萌恵を突いているのも見える。押されている感触も感じた。三人は何か密談しているようだ。やはり隠し事があると萌恵は感じた。

 高井戸の指に持ち上げられそうになったとき、萌恵は自分の身体に戻っていた。時間は短かったと思う。指先に持ち上げられるという感じを、萌恵はまだ理解できないでいた。自分は一体どこにいて、どこからあの三人を見上げていたのだろうか。

 助け起こそうとする茜に「ありがとう」と言って、萌恵は立ち上がった。

「時間ある?」

「はい」

「なら、お茶しない」

 茜は嬉しそうに頷いた。

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