誰?

上村アンダーソン

誰?

 時刻は夜10時を回った頃。俺は家に帰るために街灯のない暗くなった夜道を歩いていた。電車を降り、歩き始めてから15分程度歩き続けると自宅のあるマンションが見えていた。4階にある自分の部屋に目を向けると、俺の部屋からは明かりが煌々と漏れていた。


 エレベーターで4階まで上がり、1番端にある自宅に向かって歩く。少し前は階段で移動するのがまったく苦ではなかったのに、最近はめっきり使わなくなってしまった。やはり何者も年には勝てないということらしい。なんだか肩や腰も鈍い痛みを感じることが増えてきたし、年は取りたくないものだ。なんてことをぼんやりと考えながら歩いていると、家の前に着いた。ドアに鍵を挿し、回そうととしたところで違和感を感じた。うちのドアが開いていたのだ。まったくもって不用心だ。うちは高級マンションではないのでオートロックなど付いていないし、入り口を24時間有人管理しているなんてこともない。それに、昨今の強盗にはかなり巧妙な手口で家内に侵入してくる輩もいると聞く。ドアを閉め忘れるなんて以ての外だ。しっかりと施錠しておいてもらわねば困る。一言注意してやらなければと肝に銘じ、扉を開けた。

 扉を開けると、玄関の明かりが身体を照らす。靴を脱いで上がろうとすると、部屋の奥からパタパタとスリッパの音を鳴らしながらやってきた。


「おかえりー。今日は遅かったんだね」


 彼女はカーキ色のシンプルなエプロン姿で出迎えてくれた。可愛い。ただその一言のみが胸の内に飛来した。すっかり一人暮らしに慣れてしまっていたが、出迎えてくれる人がいるというのは存外良いものかもしれない。


「ああ、ただいま。今日は少し残業を頼まれてちゃってね。」

「そうなんだ。いつもは8時には帰ってくるからびっくりしたよ。でも、あんまり無理しちゃダメだよ?」


 優しさが心に染みる。なんと慈悲深いのだろうか。日々の仕事は辛いこともあるけれど、彼女の激励や労いの言葉があれば向こう30年は働いていけそうだ。これからも頑張っていこう。


「さぁ上がって?ご飯の準備できてるから一緒に食べよう?」

「ああ、そうだね」


 言われてみれば、なんだか分からないがいい匂いが鼻腔を通り抜ける。夕飯まで作ってくれて、そのうえ俺が帰宅するのを待っていてくれたのか。なんと感謝すればよいのか。俺は語彙が貧弱なので、ただただありがとうという言葉しか出てこなかった。

 リビングに向かう彼女の後ろ姿を見てようやく気がついたが、エプロンもスリッパも俺の見たことのないものだった。わざわざ新しいのを買ったのだろうか。あるやつを使ってくれてよかったのに。


 リビングの中央にあるダイニングテーブルの上にはすでにいくつかの料理が用意されていて、どれもプロが作ったものと遜色ないほど美味そうなものばかりだった。この料理の数々を俺なんかのために作ってくれたと思うと涙が出そうなほど嬉しかった。


「今日はね、キミの好きな肉じゃがも作ったんだよ?今温めてるからちょっと待ってね」


 なんと。これだけの料理を作ってくれただけでなく、俺の好物まで用意してくれているだなんて。まったく彼女には頭が上がらねぇぜ。一つ一つ味わって戴くことにしよう。

 彼女が温まった肉じゃがやご飯や味噌汁などを器に盛りつけ、テーブルまで甲斐甲斐しく運んできてくれる。テーブル上には先ほどの料理の数々に肉じゃがが加わり、食卓はより一層豪華なものに変貌を遂げた。一人暮らしをしている時はこんな豪勢な食卓を目にすることは決してなかった。


「遅くなってごめんね。さぁ食べよう?」


 二人で手を合わせて、食べ始める。俺はまず好物の肉じゃがを口に入れた。美味い。これまで食べた肉じゃがの中でも遥かに美味い肉じゃがだった。他の料理も食べてみる。やはりどれも美味い。人は本当に美味いものを口にした時、そこに多くの言葉など不要なのだ。美味い料理には長々とした感想などは必要ないのだ。美味い。ただその一言で皆救われるのだ。


「どの料理も本当に美味いよ。特に肉じゃがは最高だ」

「喜んでもらえてよかった。肉じゃがは君の好みの味に合わせた自身作なんだよ?」

「なるほど。そりゃ美味いわけだ」

 軽く会話を交えながら、二人で箸を進めてゆく。気のせいか自分の食べるペースがいつもより早く感じる。誰かと共に食事をしているからだろうか。やはり一人孤独に食べるよりも人と食べた方が楽しいということか。彼女には本当に感謝の気持ちでいっぱいだ。


 食事が終盤に差し掛かったところで、後方で点いているテレビから随分と聞き馴染みのある住所が聞こえてきた。なんでも、うちのすぐ近くのアパートで事件が起こったらしい。それも独り暮らしの男性を狙った殺人事件だそうだ。まったく、世の中物騒になったものだ。うちも気をつけねば、とニュースを観て辟易していると、チャンネルがドラマに切り替わった。いや、正確に言うならチャンネルを変えられた。


「ごめんなさい、この時間はいつもこのドラマを見ていたから急に変えちゃった。ドラマ観ていい?」

「もちろんいいよ。俺は特に観たいものなんてないから、好きなのを観るといい」

「ありがとう」


 なるほど。それで勢いよくチャンネルを切り替えたのか。よほどこのドラマが観たかったのだろう。俺は最近の芸能人とかはよく分からないけど、彼女はきっとそういうのに興味があるのだろう。

 そう言えば、先ほどのニュースで思い出したが、うちの戸締りのことで彼女に言わなければいけないのだった。


「言い忘れてたけど、うちの戸締りはしっかりしておいてもらわないと困るよ。最近は何かと物騒だからね」

「ごめんなさい。料理を作ることでいっぱいになってて忘れちゃった」


 彼女は俯いてシュンとしてしまった。俺は強く言いすぎてしまったと後悔した。俺のために料理を作ってくれて、帰りを待っていてくれた彼女にこんなひどい言い方をするなんて。俺はなんて最低な男なんだ。彼女に謝らねば。


「いや、俺の方こそ言いすぎたよ。ごめん。君を落ち込ませるつもりはなかったんだ」

「ううん、私のことを思って言ってくれたんだよね、ありがとう。」


 彼女の顔に再び笑みが戻った。よかった。彼女もわかってくれていたようで、一安心した。

 食事も終わり、二人で先ほどのドラマを鑑賞する。と言っても俺はよく分からないからただなんとなく眺めているだけだけだったが、彼女は真剣に観ているようだ。そう言えば、もう一つ彼女に聞きそびれたことがあったのを思い出した。


「もう一つ言い忘れてたんだけどさ、君はいったい誰?」

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