2, その男


 家に帰る道を走っていたはずが、あまり来たことのない街に来ていた。家を通り過ぎて、何キロか走っていたことに気付かなかったようだ。ケバケバしいネオンを見つけると、ノアはそのバーにバイクを停めて、中に入った。

 外装から想像もつかないほど、落ち着いた場所だった。来客を知らせるベルの音に反応して、客の何人かが入口を見たが、特にノアに何か声をかけることはない。表情からしてノアのことをわかってはいるのだろうが、みんな観察することすらせず目の前の酒に視線を戻していた。ホッと一息ついて、ノアは空いているカウンターの一席に腰をかける。


「ご注文は?」


「あ、何か……」


 落ち着くものを、と言いかけて黙り込んだ。もう弱さは見せられないと言われた。酒に落ち着きを求めるのは、弱さではないのか。そう思って、続きが言えなかった。


「マスター、ルムンバを彼に」


「え、あの」


 隣にいた客がそこに割り込んだ。三十代後半か四十代前半ほどの年頃だろうか。落ち着いた声が告げたのは、聞いたことのない酒の名前だった。もともとノアは酒に詳しくはないが、メジャーというわけでもないのだろう。無愛想を隠しもしないマスターは、片眉を上げながら頷いた。

 当然戸惑とまどいを表明するが、男は笑うだけだった。


「君、初めてだろう」


「ええ、まあ」


「あまり作りたがらないけど、ここのは美味いんだ。甘いものが嫌いじゃなければ」


「嫌いではないです。じゃあ、お言葉に甘えて」


 しばらくして出てきた酒は、どうやらココアのようなものらしく、芳醇なカカオの香りが漂っていた。火傷しないように冷ましながら一口飲むと、過不足のないまろやかな甘みと、ダークラムのささやかな風味がノアのぐちゃぐちゃになった頭を落ち着けてくれる。頭の中を読んだように、ノアの欲していた酒だ。


「美味いだろ?」


「はい、あの、すごく」


 感嘆の息を漏らしたノアに、隣の男は嬉しそうに笑いかけた。快活そうな男だった。見覚えがあるような、ないような、既視感のような、ふと湧く違和のようなものを、ノアはその青年に感じていた。


「で、何にそんなに悩んでるんだ? ヒーローともあろうものが」


 目が笑っていない。口だけが笑っている。ほんの一瞬前までの印象がガラリと変わった。男はその形だけの笑みで、ノアに問いかけた。


「なにを、言ってるんですか?」


「当ててやろうか? お前、もうひとの顔がわからなくなってるな?」


 言葉尻は上がっていて疑問系ではあったが、それはもう確認でしかなかった。確信的に、男はノアの現状を当ててみせた。


「俺もそうだ。お前の背中の後ろに隠れている、世界中の奴らの顔が、わからない」


「なにを言っているのか、わからない」


 かろうじて吐き出せた言葉は、さっきとなにも変わらない。おまけに上下左右に震えていた。ノアの背中に、どっと汗が噴き出す。人質の首にナイフを当てられた時よりも焦っていた。


「本当か? それは俺の言葉じゃなくて、そいつらのだろ」


「そんなわけ、そんなはずない」


 首を横に振るだけの人形になった気分だった。ノアにはもう、否定する自分の言葉に何の効力もないことに気付いていた。ずっと言い当てられているからだ。目の前の男は正しかった。今日殺した男も、正しかった。


「なあ、わからないのか、この世で命をかけているのは、俺たちと、お前だけだ」


「あんた、誰なんだ? なんのために俺にそんなことを」


「お前が今日殺した男の……そうだな、ボスとでも言おうか」


 復讐者のような口上で、底抜けに明るい声色だ。ノアにはそれが恐ろしかった。自分は殺すのだから、自分が殺されても文句は言わない。けれどそれは相手も同じことだと信じたくない。それはノアだけなんだと思っていた。命をかけるのは、ノアがヒーローだからだと思っていた。ノアにしか出来ないからやっているんだと、そう思っていたかった。


「お前の後ろにいる奴らのために命をかけ続けても、そいつらはお前のためには命をかけないぞ。ノア」


「そ、ういう、仕事だ」


「違うと気付いてるんだろ?」


 父のような慈愛の笑みで、必死に否定したいノアは否定された。もうこれ以上、ノアはわかりたくなかった。羽でも生えた気分になる。


『お前と誰かを天秤てんびんにかけたら、あいつらは泣きながらお前を殺すのさ』


 でもそれは、自分の命があまりに軽いと知ってしまったから。だからノアは悲しくて仕方がない。心ばかりが重くても、ノアの命は天秤てんびんを揺らしもしないのだ。


「お前に命をかけさせても、そいつらはありがとうとだけ言えばいい。お前が命を落としても、そいつらはまた次のヒーローを待つだけだ」


 男は、そう言って、自分の酒をあおる。らした喉が動いていた。その男の目がノアに向いているのを見て、ノアはずっと男の顔が見えていることに気付いた。わからなくなったことがない。ずっとずっと認識できている。


「なあ、気付いたんだろ? 奴らはヒーローを得ると、楽に生きられるようになる。正義のヒーローありがとう。命をかけるのもうばうのも、お前にやらせればいい」


 「奴ら」と呼ぶわりに、憎いわけでもなさそうだった。ただノアには男が本当に悲しそうに見えて、もう何も言い返せず、男の顔を見つめ返すことしか出来なかった。


「お前のソレは病気だ。ヒーローに必ず訪れる病気だ。今まで英雄視された者は必ずかかって、それから逃げ切れた者はこの世にいない。その病気はな、ヒーローを終わらせる病気だ。お前はその内、ヒーローとしてたたかうことが出来なくなる」


「……この世に、いないって」


「全員死んだ」


 ノアは絶句した。死ななければ治らない。暗にそう言われているようなものだ。


「人質を一度でも救えなかったら、お前は処分される。上層部はこの病気を理解していて、知っていて、必死で隠してる。この病気の兆候ちょうこうが出たら、使い捨てにする目安だ。どうせ上層部は人質なんてどうでもいい。次のヒーローが出てこれるように、お前を役立たずだと判定して、ゴミ箱に捨てるのさ」


「本当に、治らないんですか? ……俺、もう母さんの顔もわからない。デイジーとエイダが死んでから、母さんのために、頑張ってきたのに……顔がわからない……なにを言ってるか、わからない。次に行くときは好きだった本や花をと思ってた、でもなにが好きだったか、もう覚えてない」


 しゃくりあげるように、なかば叫ぶように、すがるように、ノアは男に語りかけていた。いつの間にか流れ出していた涙が止まらない。弱さは見せられないと頭ではわかっている。だがノアには、それが誰に言われた言葉なのかもわからない。


「ヒーローになるとな、一人で命をかけさせられる。救うべき者はもちろん、同じ職務を全うするはずの者も、もう命をかけない。その重圧が、いずれ違和感を生んで、命をかけてない奴の顔が認識できなくなる。命をかけもせずにただ感謝され、羨まれ、評価され、批判される。その言葉も理解できなくなる。そういう病気なんだ」


 男は静かに言った。


「だからお前はわからない。自分で殺した奴以外、わからなくなるんだ」


 そしてもう、死ぬまで治ることはない。


「……いくらですか、すいません帰ります」


「お代はいりませんよ、もう頂いてます」


「ありがとう、ございます」


「待てよ、ノア」


 ほとんど茫然自失ぼうぜんじしつの状態で立ち上がったノアが、ふらふらと外に出ようすると、男が引き止める。


「こちらに来る気はないか?」


「……それは、許されない」


「そうか……いや、やっぱり待て。ヒーローが飲酒運転はだめだ。マスター、店仕舞いにしよう。送ってやってくれ」


「はい」


 男に言われるがままにした。遠慮する力も、断る余裕も今のノアは持ち合わせてはいなかった。


「店仕舞いする間に、バイクを車に積もう。お前らも、手伝ってくれ。ノア、座っていていいが、構わないな?」


「はい……何から何まで、すいません」


「いいさ、これも罪滅ぼしだ」


 それがどういう意味なのか聞くこともせず、声をかけられた他の客たちが自分のバイクを水色のピックアップトラックに積み込むのを、ノアはぼうっと見ていた。今日はもう、なにも考えたくない。


「お客さん、もう行けますよ」


「すいません、よろしくお願いします」


 無愛想なマスターにところどころ道を指示しながら、結局ノアは考えていた。店で言われたことと、自分が吐露してしまった弱さ、男の組織から送られてきた元ヒーローたちと、彼らから言われたことの数々。もう幸せだったことしか思い出せなくなった、妻と娘について。

 仕事を始めてからそう経たずに結婚をして、娘が出来てからそう経たずに二人とも奪われた。あんなにも憎かったのに、その頃の憎しみすら思い出せなくなっていた。犯人の顔も思い出せない。悪を憎いと思えなくなっていた。罪が、悲しかった。


「あんた、望みはないんですか」


 今まで最低限の受け答えしかしなかったマスターが、ポツリとノアに聞いた。ノアは窓の外を流れる街に向けていた顔を、ゆっくりとマスターの方へ向ける。


「望み、ですか」


「ええ。やりたいこととか、行きたい場所とか、欲しいもの」


「なんでしょうね。ひとを救いたいじゃ、満足しないんでしょ」


「ええ。嘘吐きな人だと思うでしょう」


 そこで初めて、ノアはマスターの笑う顔を見た。答えなど最初から求められていない。もうそんな気持ちがないことなど気付かれている。なんの返答もしないままのノアを、とがめることもしない。


(本当は、もう辞めたい。怖くないわけがない。いつだって怖かった。命をかけるのもうばうのも怖かった。俺自身に希望がないのに、人に希望を見せるなんて無理だ。救うために、守るために殺した相手が、悪かどうかももう定かじゃない。その人のためにヒーローでありたかった相手はもう、とっくにこの世にはいないのに)


 バーに入る前よりも、頭は落ち着いていた。わからなかったことがわかったのは、良くも悪くも整理するにはちょうど良かった。でも羽が生えた気分が、どんどん強くなっていった。


(本当は……デイジーとエイダの墓の前で、やがて来る死の瞬間まで、ずっとずっと喪に服していたい。俺の望むことなんて、そればかりだ。ヒーローなんて笑わせる。一番守りたかったものも守れやしなかった)


「許されたいのかもしれませんね。俺は……」


「そうですか」


 家に着いて、荷台からバイクを下ろしながら、手伝ってくれたマスターに先ほどの問いかけへの答えを出した。ノアにもマスターにも、それも嘘だということがわかった。けれどどちらも、それ以上は言及げんきゅうしない。無意味な問答だと思っているからだ。


「お酒、美味しかったです。送ってくれたのも、ありがとうございました」


「いえ。それではおやすみなさい」


「ええ、おやすみなさい」


 ノアは水色のピックアップトラックをしばらく見送ると、足をもつれさせながら家に入った。乱暴に靴を脱ぎ捨てて、深夜に音が立つのも気にせず、ベッドルームになだれ込む。


「ああ! よかった、よかった!」


 ベッドヘッドのサイドテーブルに置かれた、シンプルな二連のフォトフレームを覗き込み、ノアは安堵あんどの声を上げた。

 母親の顔がわからなくなってから、ある不安がノアの心に染み付いて離れなかった。妻と娘の顔もわからなくなっていたら、という不安だ。だがそれは杞憂きゆうだった。安堵あんどからか、膝から崩れ落ちたノアはもう、写真の前に跪いたようだった。


「君までわからなくなったら、俺は……ああ、よかった、デイジー」


 バーで男の話を聞いてから、なんとなくだが、死人の顔はずっと認識できるのではないかと思った。けれど確信がなかった。顔は思い出せても、幸せだったことは思い出せても、その頃どうやって生きていたのかがわからなかった。ノアと妻は出会ってから別れるまで、様々な話をした。そのほとんどを思い出せる。けれど、どんな気持ちだったのか思い出せなかった。

 ノアは自分が怖くなった。たまらなく二人に会いたいのに、死んでいてくれてよかったと思ってしまったからだ。母親のようにわからなくなるくらいなら、わからなくならないまま、ずっと心にいてほしいと、そう思ってしまったからだ。

 何度も会いたいと願った。冷たい墓から抜け出して、天国から帰ってきて、自分を抱きしめてほしかった。けれど今、死んだままでいいと思ってしまった。わからなくなるくらいなら、忘れてしまうくらいなら、聞こえなくなるくらいなら、鮮烈な悲劇のまま、死んでいてほしいと。


(人を殺して名声を得た。だからきっと、俺は地獄に行くんだろう。でも君もエイダも天国にいるから、死んでも会えない。エイダはいい。美しいそこにいていい。だけどデイジー、君は)


「君に、会いたいよ……デイジー、俺は君に、一緒に地獄に落ちてほしい」


(あんなに守りたかった君に、)


「君に、俺と地獄に落ちてほしい。会いたくてたまらない……」


 ノアが母親の訃報ふほうを受け取ったのは、その二日後だった。


(ああ、ヒーローなんて、わらわせる)

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