俺たちの命は軽すぎてもう嫌になる

木枯水褪

1, ヒーロー


 ノアは今日もひとを救った。守るべきものを守り、たおすべき悪をたおして、そうして今やヒーローと呼ばれている。いつしかヒーローと呼ばれるようになった。

 ノアはいつか、英雄に憧れる少年だった。その頃にもヒーローがいた。人質を殺さず、犯人を殺してみんなを救ったヒーロー。いつからか名前も顔も見なくなったが、隣に立つことが叶う前に引退したのだろう。それからノアがヒーローと呼ばれるまで、もう一人、英雄が生まれて、そしていなくなった。

 隣でたたかうことは叶わなかったが、その背を追って警官になった。そしてデイジーという妻を得て、可愛らしい赤毛の娘にも恵まれた。その子は、エイダと名付けられた。だが運命に恵まれず、情もない犯罪に巻き込まれて二人は死んだ。もう、五年前のことだ。復讐に駆られたノアは、執念で犯人を追い詰め、感情のままに射殺した。正当防衛でしかなかった。犯人は銃を持って、ノアを見て驚いて、そして無関係のものに銃を向けようとした。その前に射殺した。それだけの話だ。

 それから数件、人質や、被害者を救い、ノアはヒーローと呼ばれるようになった。待遇は特別、トントンと出世したが、現場には出続けた。みんなヒーローを求めている。国内にノアの顔と名を知らない者は、ほとんどない。国外にもファンがいるという。憧れていた、絵に描いた英雄だった。


「ヒーローさま、ありがとうございます! 娘はあんたのおかげで傷もない!」


「いえ、」


「ありがとうございます! 夫が無事に帰ってきたのはあなたのおかげです!」


「いえ、あの、本部に戻らないと」


「でも顔、怪我してますよ。治療を……」


「本部に戻りますので」


「お疲れ様です! ありがとう!」


 ノアは最近、ひとの顔がわからない。ひとに何を言われているのか、何に感謝をされているのか、度々わからなくなった。最初は疲れているのだと思っていたが、今日でその考えに区切りをつけた。

 ノアは最近、救ったひとの顔がわからない。救うために殺した敵の顔しか認識できない。誰かを守るために殺した敵の言葉しか、正しく理解できない。これは疲労のみの単純なものではないと、今日わかった。

 ノアが今日殺したのは、とある組織の構成員だ。ノアがヒーローになるかどうかという頃に台頭し始めた、いわゆる悪の組織だった。その組織はあまり目的を明瞭にしない。当人たち以外には、何がしたいのかわからない。だが罪もないひとを殺しているのは確かだから、今日もノアは囚われた人質を解放するため、犯人を射殺した。


「総監、終わりました」


「ご苦労だった」


 次々に礼を言いに来る、顔のわからないひとたちをどうにかやりすごして、ノアは所属する警察本部の総監室に辿り着いた。いつもと変わらない報告。そしていつもと変わらない対応。

 総監は、厳格だが話のわかる人だ。ノアには総監の顔は認識できる。たまに一瞬わからなくなる時はあるが、救って礼を言ってくれるひとたちに比べれば、だいぶマシだった。


「少し、話しても構いませんか」


「構わないさ」


 いつもなら報告後すぐに立ち去るが、ノアはとどまった。なにかを気にしながら伺いを立てたノアに、総監は不思議そうに、だがしっかりと頷いた。


「あの、総監は、ひとの顔がわからなくなる時がありますか」


「誰だったかわからなくなる時は、たまにはある。私ももう若くない」


「いえ、あの、わからないんです」


「なにがだ?」


 怪訝けげんそうではあったが、総監は聞きはしても急かすことはなかった。ノアは少し考える素振りを見せて、言葉を選ぼうとして、選べるほど自分の状態を把握しきっていないことを実感していた。


「俺は、ヒーローと呼ばれて充足すら覚えたことが、何度もあります」


「当然の報酬だ」


「……でも、最近、なにを言われてるのかわからないんです。ヒーローと呼ばれて、呼んでくれたひとの顔が、わからなくなる。感謝の言葉も、なにがなんだかわからない。なににありがとうと言われているのかわからない」


 そう言ったノアをじっと見つめて、総監は煙草に火をつけた。火種が安定するまで空気を通し、深いため息とともに一口目を吐き出す。二人の間に、紫煙がぼやっと立ち上った。


「疲れたか」


「わかりません。でも殺した敵の顔はよく認識できる。命をかけて守ったはずのひとたちの顔が、わからない」


「お前がつらいなら、少し休んでも構わない……英雄とはつらいものだ。人に理解されることはないし、もう弱さは見せられない」


 目をすがめながらノアをさとす様子は、なにかに思いを馳せるようでもあった。


「理由はどうあれ、お前は一度希望を見せた。一度でも希望を見せたら、ずっと見せ続けなければならない」


 総監の顔も、よくわからなくなった。すぐ前まで見えていたのだから思い出せるはずが、記憶も曖昧になっていった。ちょうどくゆる紫煙のように、もやがかってわからない。

 なにかを言いたいのを飲み込んで、ノアは一礼して総監室を出た。きちんと歩けているか、わからない。けれど歩くしかない。一番近いトイレにほとんど駆け込むように入ると、奥の個室に入って鍵をかけた。閉まったままの便器に腰掛けて、いつの間にか止まっていた呼吸を取り戻す。ゼエハアと苦しそうで重い息の音が響く。

 見えていたものが急に見えなくなるのは、ノアには死ぬことよりも恐ろしかった。


『泣きながら殺されるのがどんなに気分が悪いか、知りたくはないだろう』


 フラッシュバック。顔も言葉も名前もなにもかも鮮明に思い出せた。さっき殺した犯人だ。それに言われた言葉だ。知りたくなかった、解りたくなかった言葉だ。


『そうだ、勝ち誇って殺せ。お前はまだヒーローなんだろう』


 ノアが今日なにも食べていないことに気付いたのは、せっかくのトイレで便座の蓋の上に胃液を吐いた時だった。記憶に後頭部を殴られたような気分だった。脳が揺れる。口をおさえる手がひどく震えていた。体がだるいのに、羽が生えたような気にもなる。だがみじめだ。

 いや、正しくは、自分をみじめだと思いそうになるのを、必死でとどめた。誇りに思うと言ってくれた母親のことを考えて、しばらく見舞いに行っていないことを思い出した。

 腕時計を見て、まだ面会時間が終わっていないか確認する。その腕時計は、ノアが初めての給料で買ったものだ。その頃の仕事への情熱をいつまでも忘れないために買った、思い入れの深い時計だった。

 便座をある程度掃除して個室から出ると、換気用の窓から下に人がいないのを確認してから、植え込みに向かって時計を放り投げた。もう無意味で、必要とする心すら湧かなくなってしまっていた。


「母さん、久しぶりの上に急でごめん」


「いいんだよ。仕事は大丈夫?」


「ああ、今日はもう落ち着いた」


 ノアの母親は、心臓の病気でしばらく入院している。有名人であるノアが落ち着いて会えるための個室も、特別で先進的な治療も、総監やノアに感謝するひとたちが取り計らってくれた。

 一度自宅に寄ってシャワーを浴びてから、母親の見舞いに来た。ノアの声を聞くなり、母親は読んでいた本をサイドテーブルに伏せた。ノアが幼い頃から、繰り返し読んでいた、母親気に入りのミステリ小説だ。


「調子はどう?」


「ええ、まあ、普通かしら」


「わからないな。母さんは強がることがあるから」


「ふふ、いえ、でも本当、苦しくはないわ」


「そう。それなら、まあいいんだけど」


 今日が始まってから十数時間で言われた言葉の内、ノアに一番の安心をもたらしてくれる言葉だった。顔色はそこまでいいわけでもないが、症状がひどかった時よりは確かに良いようだ。けれど治療はあまりかんばしい結果を出していない。


「この間のテレビ、出てたの見たわ」


「ああ」


「すっかり人気者ね」


 息子の活躍を素直に喜ぶ、普通の母の顔だった。だがノアには母親の顔が、その瞬間だけ、わからなかった。もう救ったひと以外でもわからない時があるようだ。とてつもない罪悪感を覚えて、ノアは母親の顔から目を逸らした。


「……そうでもないさ」


「そうなの?」


「ああ、ヒーローなんて柄じゃないし」


「ねえ、つらくないの」


 ノアはパッと母親の顔に視線を戻した。心配そうな顔だった。だがノアは、心配をかけたくて今ここにいるわけではない。もう母親に甘えてはいられない。怖がってヒーローを待つこともできない。


「え、大丈夫だよ。仕事の内だし」


 ノアは笑ってそう言った。出来るだけ軽薄に演出するのも忘れない。母親に安心して、自分を応援してもらいたい。心臓に負担がかかるような、そういう感情はもたなくていい。そう思ったからだ。


「あなた、私に似て強がりだから」


「本当に、なんてことないんだ」


 母親の白く細い手を握る。先ほどとは違い、手は震えていなかった。先ほど言われたのと同じように、心配を否定した。すると母親も笑って、ノアの顔を見た。


「いつ見ても、傷だらけね」


 頰に走る傷を見て、また心配そうな顔をした母親に対し、ノアは来たことを後悔し始めていた。心配させるくらいなら、電話をするだけにして、見せないほうがよかったのかもしれないと、そう思った。


「でも治るさ、最新の治療も受けさせてもらってる」


「ええ、治るでしょう。でも、疲れや苦しみは、そう簡単にはな治らないわ」


「寝不足なだけだよ。明日はゆっくり休める予定なんだ」


 心配をなくそうと言葉を募らせるたびに、母親はもっと心配そうな顔をした。少し視線を迷わせて口をもごもご動かすと、決心したようにノアに語りかける。


「ねえ、きちんと自分が望むことをしなさい」


「望むこと?」


「そう、望まれるヒーローなんかじゃなくていいの。ただ、私はあなたに、どんな形でも幸せになってほしいのよ」


「母さん、俺の救ったひとをなかったことにはしないでくれ」


 ノアにはもう、幸せがわからない。妻と娘が生きていた頃は、確かに幸せだった。復讐をげてからは、もうほとんど誤魔化すようにひとを救ってきた。そんなことを続ける内に、思い出に浸っても、どんな気持ちで幸せを噛みしめていたのかもわからなくなった。

 だから、無難でわかりやすい答えを口に出した。


「……ごめんなさい。でも」


「長居しすぎた。ごめん、もう行くよ。ゆっくり休んでくれ」


「ねえノア、これだけは言わせて」


 これ以上いても、結局母親に負担しかかけないと思い、ノアは足早に立ち去ろうとした。その出て行こうとする背中に、声をかけられる。立ち止まって、顔半分だけで振り返った。


「ヒーローでいたいならそれでいいの。でもそれはあなたがそうありたい人の前だけでいいのよ。ぜんぶの人の前でずっとヒーローでいるなんて、おとぎ話だわ」


「わかってるさ。でも母さん、もう許されない」


 そう言いながら、振り返ってしまったのを後悔した。さっきまで愛をもってノアに向けられていた顔が、なんだか違うひとのように見えた。ノアにはもう、母親の顔がわからなかった。


(ああ、こんな、俺は病気なんだろうか。それとも罰だろうか。ひとを救ってきた。でもそれは人を殺すことだった。俺はいつもどちらかを天秤てんびんにかけて、軽かったほうを殺してきた。守ったひと以外は守れなかった。その罰なんだろうか)


 ノアはぐるぐると考えながら、がむしゃらにバイクを走らせた。ハンドルを握る手が震えている。それを誤魔化すように固く固く握り締め、ただ前だけを見つめる。


『一度でも希望を見せたら、ずっと見せ続けなければならない』


 そう、ノアにはもう許されていない。

 最初はノア自身のために、復讐に近い人殺しをした。でもそれは正当防衛で、職務内に収まって、誰も彼もお手柄だどうこうとノアを褒め讃えた。人質になっていた子どもも、その両親も友達もみんな、ノアをヒーローと讃えた。

 次は少し憂さ晴らしもあった。でもやはり正当防衛で、人質は全員無事で、すべての人質やその家族がノアをヒーローと讃えた。

 その次は、純粋に求められたから。援護を受けながら単独で突っ込み、ノアすら自分を見事と思うほどに、卑劣な悪人から誰かの恋人を救った。

 もうあとはみんな同じ。ヒーローと呼ばれるにあたう、仕事をこなしていった。内容はいつも同じ。人を殺して、ひとを救ってきた。


『おい、人質を変わるなんて言うな、捨てられたいのか』


 今までしてきた仕事を振り返り、今日殺した犯人の言葉がよぎった。

 それが盾にしていた二人のうち一人は、まだ幼い女の子で、状況と犯人をひどく怖がって怯えていた。だからノアはその幼い子どもだけでも、早めに解放してやりたくて、自分が人質になると申し出た。だが犯人は、そう言いながら拒否した。


『お前への人質は誰でもいいのに、お前が誰に対しての人質になるっていうんだ』

『かわいそうになあ、ヒーローさま。そう呼ばれる限り、いつもいつまでも、誰より軽い命だ』

『お前と誰かを天秤てんびんにかけたら、あいつらは泣きながらお前を殺すのさ』

『泣きながら殺されるのがどんなに気分が悪いか、知りたくはないだろう』


 だから、警告も何もせずに殺した。女の子は泣いていたが、犯人は倒れて、もっていたナイフが床に滑る音がやたらに響いた。

 ノアにはわかっていた。もう、本当の理由がわかっていた。何度も聞いたからだ。ひとを盾にしている犯人たちが、ずっと必死に語りかけていたのを知っている。ノアを守るために、ノアを救うために、ノアに殺される覚悟をして、ノアに語りかけるためにひとを盾にしていた。


『誰も俺を見ちゃいない! どいつもこいつも、あんなに命をかけてやったのに! 今じゃ名前も顔も覚えちゃいない!』


(あの組織の構成員は、多分、きっと、元ヒーローだ)

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