3, ヒーロー(reprise)


「母さん……やっぱり、強がってたんだな」


 母親の死因は心臓発作だった。あまり苦しまずにけたらしいのはよかったと、少しだけ安堵あんどした。色んな人に頼んで、葬式は慎ましく催した。ノアの周りに人がえないことでも、母親に負担をかけていた自覚はあったし、何より、ノア自身が疲れ切っていた。

 母親が死んだ途端、ノアにはその顔がわかるようになった。本も花も死ぬまでには間に合わなかったが、花だけは埋葬時に棺桶に入れることが出来た。涙は出なかった。それは弱さだ。ただ深い悲しみだけを噛み締めていた。


「今のお気持ちはどうですか?」


「みんな知りたがってますよ!」


「お話だけでも!」


「お母様はあなたへの税金で治療を?」


 傷心も癒えないまま家に帰ったノアを待っていたのは、ハイエナのような記者たちだった。みんなヒーローを求めている。国内にノアの顔と名を知らない者は、ほとんどない。国外にもファンがいるという。憧れていた、絵に描いた英雄だった。だからみんな、ノアを放っておいてはくれない。

 ヒーローを救うという組織も、顔のわからないひとたちも、ノアに喪失そうしつ悲痛ひつうを癒す余裕を与えてはくれない。


「話を聞かせてくださいよ!」


「放っておいてくれ! 君たちには良心がないのか?」


 追い討ちをかけるようにかれたフラッシュに怒鳴って、ノアは家に入った。なにか良からぬ記事を書かれるかもしれないが、今それを考える余裕はなかった。こういう時こそあの男の組織とやらの出番ではないのか。そう考えて、すぐにその考えを振り払った。良心を失い始めているのは自分ではないかと、唇を噛み締める。

 とうに限界を迎えていた。際限なく軽くなっていく命と、底なし沼に沈んでいく心とが、ノアをむしばんでいる。母親には生きていて欲しかったが、死をいたむ心よりも、再び顔がわかるようになったことを喜ぶ心の方が強くあった。それはノアにとって、死んでくれてよかったと思っているようなものだった。


「ヒーローなんて、笑わせる」


 確かにヒーローに憧れていた。ヒーローになった。けれどヒーローになった今でも、誰がヒーローを救ってくれるのかがわからない。他のヒーローを待つのか。ノアはそれも違うとわかっていた。

 あの男の組織は、正しくノアを救いたがった。顔がわかるほど命をかけてまで、ノアを救おうとしている。けれど彼らが本当に救いたいのは自分自身なのだろう。救われなかった自分をノアに重ねている。救われたかった自分たちにむくいるために、ノアを救おうとしている。ノアはそう考えた。実際、納得がいった。彼らも結局、ノアのためには命をかけていない。

 それでも顔がわかるだけ、ノアにはまともな人間として見ることができた。だからこそ、ノアはもう彼らに何かを起こしてもらいたくない。救いに来るのもやめて欲しかった。顔がわかる人間を殺すと、いつまでも忘れられない。いつまでも正しく理解出来た言葉が頭に残る。


『英雄 記者に暴言!』


『ヒーローさまは高慢こうまんちき』


『記者おどしのヒーロー』


 翌日の記事は、ノアが想定した通りの散々な内容だった。中身までは確認していないが、内容は見なくても十分だろう。

 誰も彼もノアを救ってはくれない。誰もノアを救うことは出来ない。誰かを救えるヒーローはノア自身だったから。



「なんだこれは」


 ノアに残された選択肢はほとんどひとつだ。このまま続けてゴミのように捨てられ殺されるか、組織に与していずれ生まれる次のヒーローに殺されるか、どんなものを選んでも結局救いは死ぬことにしかない。

 ヒーローしか誰かを救わない。ならばノア自身も、ノアが救う他ない。


「辞表です」


 ノアは記事が出た数時間後に、総監室に辞表を持って来た。顔のわからない総監が言っていることはなんとなくわかった。単語だけはたまに理解ができる。もう誰かと会話をすることさえ苦労するようになっていた。


「見ればわかる。理由を聞い」


「総監、俺が病気だとご存知だったんでしょう。これが進行すればどうなるか知りました、その前に辞めます」


「辞めてどうするんだ。あの組織に」


「いいえ、いいえ。もう沢山です。あの組織は俺を救うと言うが、ただ救われなかった自分を俺に重ねて、救われなかった自分にむくいたいだけだ。行っても仕方ない」


 単語が聞こえたら、途中でも答えるしかない。理由と、組織。二度口を開いた総監の言葉のうち、ノアが理解できたのはその二語だけだった。とにかくもう、うんざりしていた。だからもう、ノアは早く死にたかった。


「ではどうす」


「俺は、俺は死にます! あんたらはそれで満足でしょう? あんたらの手でゴミ箱に捨てられるくらいなら、俺は自分で! どこかで勝手に野垂れ死ぬ!」


 悲鳴に近かった。銃を持っていたら、どちらかの頭を撃っていたかもしれない。自分の言葉だけ、頭の中に反響した。その後も総監はノアに何かを語りかけたが、ノアにはわからない。

 その内にノアがわかっていないことに気付いたのか、総監は話すことをやめた。静寂が、総監室に訪れる。


「総監! 大変なことが!」


「どうした、何事だ」


「とにかく、とにかくモニターの回線を入れてください!」


 静寂を裂くように、一人の警官が総監室に転がり込んだ。それがわめき立てている内容はノアには依然いぜんとしてわからなかったが、総監が言われるがままにスイッチを操作すると、壁に設置されたモニターに、ノアにも認識できる顔が写り込んだ。


『やあ総監殿、見ておられるかな』


 あの男だった。不敵に笑う顔が、ノアにひとつウィンクを投げた。


「お前、アレックスか!」


『ああすまない。俺もあんたの顔がわからなくてな。話もまあ正直よくわからないが、こうなって長いからな、コツは掴んでる』


 隣にはマスターが立っていた。よく見てみれば、あの日あの店で見たような顔が並んでいる。


「アレックス! 元英雄ともあろう者が、いつまで罪を重ねるつもりだ!」


『これで最後にするさ。だが最後は大仕事だ。まあそれはいいか……さて総監殿、ここはどこでしょう?』


 コツは掴んでると言っていたが、ノアにはどう見ても総監が話すたびにマスターに耳打ちされているようにしか見えなかった。見た通りマスターが通訳をしているのなら、マスターは病気ではない。つまりマスターは元ヒーローではなく、ただ命をかけているからノアたちにも顔と言葉がわかるらしい。


「また立てこもりかアレックス。芸がないな」


『お説教なら後にした方が身のためだ。総監殿、場所だ。わからないか?』


「……雑誌社、いやそうか新聞社だな。お前のことだ、今朝のノアの記事に腹でも立てたか」


『ご名答! ハイエナ共に鉄槌てっついをってな』


「ハイエナはどちらなんだ、アレックス」


 総監のその言葉をマスターが耳打ちすると、男は一瞬だけ真顔になった。だがすぐに笑顔を取り戻して、他の構成員に手で何かの合図を出す。


『そうだそうだ! ここに来るついでに持ってきたんだけど』


 その構成員が画面から消えて連れてきたのは、一人の女性だった。顔がわからないノアには判別のしようもないが、二十代半ばほどの年頃だろうと、なんとなくわかった。

 総監には、一人娘がいる。


『これはあんたの娘で合ってるか?』


「アンジェリカ!」


『パパ! 助けてェ!』


「アレックス! なんて卑劣な真似を!」


 男の顔は、もう変わらなかった。


『きちんと病気じゃない奴もいてね。案外すんなり連れてこれた』


「アレックス、アレックス! 頼む、娘を、娘にはなにもするな!」


『それはあんた次第だ、総監殿』


 不敵な笑みを不気味なほど崩さないまま、男は懐から銃を取り出した。そしてゆっくりスライドさせると、銃口を女に向ける。そこで総監は喉を鳴らした。

 緩慢かんまんな動作のままセーフティが外されたところで、総監は声を上げた。


「何が望みだ!」


『あんたも現場まで来ていい。だけど外までだ。中にはノアだけ入れ』


「わかった」


『顔はわからないが……銃口を当てるべき場所なら、これ以上ないってくらいわかってる』


「わかったから銃を下ろせ!」


『では、そういうことで』


 まるで遊びに行く待ち合わせでもしたような快活さで通信を切られて、総監室に再びつかの間の静寂が戻った。実際に聞いてもわからないだろうが、総監が次に言い出すだろうことがノアにはわかった。


「辞めさせてくれるなら、行きますよ」


 自嘲的な笑みを浮かべてそう言ったノアに、総監はただ頷くしかなかった。総監の娘はノアの人質にもなってくれた。もうなにもかもやめてしまいたいノアのための。そして正しくノアを呼び出すための人質にもなっていた。

 「最後は大仕事だ」と、男は言った。それがなんなのかはわからない。こうして総監を巻き込むことを言っているのかもしれないし、これからノアが何かをなすべきなのかもしれない。けれど今は、真相はわからない。


「では総監、あなたは安全なところにいればいい。俺は命をかけましょう。どうでもいい顔もわからない、ただの女のために」


 当てこすった言葉だった。誰もが、ノアにとっては人質だ。それは総監の娘であろうが、ノアの娘であろうが変わらない。けれどノアはもう二度と、娘のために命をかけることはない。命をかけたかった相手は、本当に守りたかった相手は、本当に救いたかった相手は、もう誰も誰一人として、この世にはいない。

 けれどノアには、それを嘆く必要もなかった。命が軽くなるほど、死にやすい。



「やあ、待ってたよ」


 現場まではバイクでそうかからない距離だった。出来るだけ飛ばして、新聞社周辺に山のように集まった人混みをかき分けると、入り口の奥の死角にいた構成員に中に通された。

 新聞社の中には、社員と思われる人間が数十人、窓際に並んで立たされていた。女性と残った男性数人が、一箇所に集められて床に座らされている。人質は全員、ノアが入ってきたのを見た途端、口々に何かを言い始めたが、マスターが天井に向けて空砲を一発撃って、また静かになった。

 並んだデスクの内一箇所が乱されていて、そこに置かれたパイプ椅子の一つに、あの男は座っていた。目があってすぐノアに語りかけた声は、人質をとって立てこもっているとは思えない、ひどく穏やかな声だった。


「まず言っておきます。人質を解放して自首してください」


「こいつらは人質じゃない。お前を呼ぶための、イケニエだ」


 当然、首を縦に振らないだろうことはわかっていた。モニター越しに見たときと同じように、手に持った銃で人質たちを指し示すと、人質の何人かはおののいた。怖いのだろう。


「なら余計に用が済んだでしょう、解放してください」


「いいやだめだ。死体にするまでは解放しない。それに狙撃対策でもあるしな」


 窓際に立たされている人質たちを再び銃で指し示すと、男は悪戯いたずらっぽく笑った。こんな状況でなければ、憎めない男だった。


「では、あんたをたおします」


「なぜこんなやつらを救うんだ? 傷心のお前のもとに、報道の自由と押し寄せて、当然の追い払いを誇張して書いて憂さ晴らしをした連中だぞ?」


「それでも、きっと悪じゃない」


 男に言われたことに関して、ノアには当然心当たりがあった。母親の葬式帰りのノアに詰め寄った記者の中には、この新聞社の人間もいたのだろう。

 善悪よりも、どうでもよかった。誰から守るのかはっきりしている今、わからない顔を見せられたところで、何の感慨かんがいもない。


「……俺もお前に救いをおう。俺は、いや俺たちもお前と同じだ。お前を守るために、こいつらを殺す」


 決意の変わらないノアを見てしばらく黙った後、男は静かに告げた。


「まもる、だと? ふざけたことを、それで俺が見逃すとでも?」


「いいや、ただ俺は事実を述べただけだ。俺たちは命をかけても、命をかけさせられるお前を救いたい……わかってただろ?」


「やめろ」


 何度も考えたことがある。けれど考えたくないことだ。ノアはそれを殺してきたのだ。善悪を度外視してみれば、ノアは救おうとする人より、救われようとするひとを救ってきた。伸ばされた手を払いのけ、銃弾を打ち込んで殺してきた。どれもこれも正当防衛だった。相手は武器を持っていて、人質の命に指をかけていた。それを殺しても、ノアは賞賛されこそすれ、罰されることはなかった。


「お前が誰かを守るために人を殺しているからには、お前が殺した誰かもまた、誰かを守っていると。救おうと、救われようとしていたと」


「……やめてくれ」


「お前の天秤てんびんは本当に正しいのか? 俺たちにばかり命をかけさせて壊れたら使い捨てる奴らと、守るために殺してきた俺たち、本当はどちらにかたむくんだ?」


「やめてくれよ!」


「なあノア、お前、本当に背負っているつもりだったか?」


「もう、やめてくれ」


 (もう聞きたくない考えたくもないいやだ考えたくない)


「教えてくれ、顔もわからない誰かを守るために命をかけてるのか? それとも」


 男の言葉は静かに、淡々とノアを追い詰めていった。今までノアがそうしてきたように。


「いつまでも顔が消えない俺たちを殺したのを、そいつらのせいにしてるのか?」


「やめろってば!」


 ノアは叫んでいた。考えたくないのに考えようとする脳を、叱責しっせきするようにかぶりを振って、それでも消えない。


(救うために、守るために殺した相手が、悪かどうかもうわからない。あれは俺自身だった。なにかを救うために、守るために誰かを殺す。命をかけて、俺以外誰もかけなかった命を)


 男が言う通りだった。ひとを救ったことに対する誇りよりも、顔のわかる人を殺したことに対する後ろめたさの方が大きくなっていた。

 自分だけが命をかけている。自分はひとを救っている。自分はひとを守っている。ヒーローと呼ばれ、求められている。手を汚してでも、清廉せいれんぶったヒーローを演じなければならない。顔のわからないひとたちが悪とするものを殺さなければならない。

 そういう義務感を自分に言い聞かせ、引き金を引いてきた。けれどノアは、忘れられなかった。


『お前への人質は誰でもいいのに、お前が誰に対しての人質になるっていうんだ』

『かわいそうになあ、ヒーローさま。そう呼ばれる限り、いつもいつまでも、誰より軽い命だ』

『お前と誰かを天秤てんびんにかけたら、あいつらは泣きながらお前を殺すのさ』

『泣きながら殺されるのがどんなに気分が悪いか、知りたくないだろ』


 顔も言われた言葉も何もかも、忘れることは出来なかった。


『だからお前はわからない。自分で殺した奴以外、わからなくなるんだ』


 忘れられないから、だからもう、ノアは早く死にたかった。


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