甲州街道の内藤宿はやはりあまり良い状況ではないようだ
さて俺たち一行は下諏訪からてくてくと甲州街道、厳密に言うならば現状の名称は
甲州街道は戦国時代に甲斐を統一した武田信玄によってある程度軍用道路として整備されていたが、徳川家康が江戸に入った後に大久保長安が天正19年(1591年)北条氏照の旧領をそのまま与えられた時に自分の代官屋敷をおいた八王子宿と江戸を結ぶ街道をまず整備した。
そして慶長7年(1602)にはそれが甲府に達したらしい。
もともと甲州街道は徳川家康公の転封による江戸入府に際し、後北条氏の影響力が強い武蔵の江戸城が攻撃されて陥落した場合に古い領地であった甲斐の甲府までの避難路として使用されることを想定して造成され、街道沿いは砦用に多くの寺院を置いてあり、いったん避難した後に江戸城の奪還を図るために整備されたという。
そしてこの街道を参勤交代の際に利用した藩は信濃の高遠藩、高島藩、飯田藩のみで、それ以外の藩や多くの通行人は中山道を利用した。
一見すると下諏訪宿から江戸までは北に遠回りする中山道より甲州街道のほうが距離は全然短いように思える。
だが実際に歩いてみると甲州の道中は甲府盆地は平らだがそれ以外の場所の上り下りが多く、歩くと結構疲れる。
そのかわり温泉が多いのは助かるがな。
「甲州街道は意外と坂の上り下りが多くて疲れるんだな」
「その分温泉のある宿があるのは助かりますな」
中山道には和田峠と碓氷峠、東海道には箱根峠があるが甲州街道にも小仏峠や笹子峠の難所があり決して楽じゃない。
中山道が古くから整備されているのはなるべく平らな盆地などをつなげていった結果だったんだろうな。
この街道の宿場町がおおよそ整ったのが元和年間(1615~24)で参勤交代にこの道を利用した藩が少なかったことからも、五街道中最も寂しい街道といわれた。
ただし多摩や八王子は江戸への薪や木炭等の燃料供給の場所として重要だったので、江戸から多摩まで江戸の経済の発達と人口の増加に伴いそれなりに整備はされているようだが。
そして、甲州街道新設の際には江戸の日本橋と高井戸、高井戸と府中の間が長すぎるのでその間にもう一宿、公用の人馬役を負担される伝馬宿が必要ということは街道設定当初から考えていたらしいのだが伝馬役を負担できる村落がなかった。
甲州道中は「難所の連続」で、通行人が少ないために「宿場が整備されていなかった」ために「治安が悪い」といういろいろな問題があって、「胡麻の蠅」「護摩の灰」などと言われる物盗りが多かったりする。
甲州街道には200kmの長さの街道に宿場がなんと40もある。
これは一つの村では資金が乏しく、宿場を維持できないために、近所の複数の村で負担を分担していたためで、甲州街道は本来は「軍事上の通行路」としての利用がメインで、「民生用」の街道としての意図はあまりなかったんだな。
内藤宿は現代の四谷から新宿付近に存在し青梅街道との分岐点として存在していたが、公用の宿場町ではなかった。
だが元禄10年(1697年)に浅草商人が、甲州街道の日本橋 - 高井戸宿間に新しい宿場を開設したいと願い出て、翌年に幕府は5600両の上納を条件に、宿場の開設を許可した。
浅草商人の手で街道の拡張や周辺の整地が行なわれ、元禄12年(1699年)に内藤新宿が正式に開設されたが、宿場開設より20年足らずの享保3年(1718年)に内藤新宿は幕府によって廃止された。
この時期は8代将軍・徳川吉宗による享保の改革の最中で幕府が表向きに廃止の理由として挙げたのは甲州街道は旅人が少なく、新しい宿でもあるため不要、というものだった。
そして廃止により旅籠屋の2階部分を撤去することが命じられ、宿場そして売春宿としての機能も失われたこの時はほぼ同時に「江戸十里以内では旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とする法令が出されていることもあり、宿場としてより岡場所として賑わっていた内藤新宿は、吉原がしばしば奉行所に提出していた遊女商売取り締まり願いの対象として廃止されたらしい。
その後何度か宿場の再開を願い出る者はいたが風紀上の問題が懸念され却下され続けた。
しかし、明和9年(1772年)には内藤新宿が再開された。
これは日本橋伝馬町や品川宿・板橋宿・千住宿の公用の通行量の増加により、宿場の義務である人馬の提供が大きな負担となっており、幕府は宿場の窮乏に対し、売春の規制緩和を図った。
それまで「旅籠屋一軒につき飯盛女は2人まで」とされていた規制を緩め、宿場全体で上限を決める形式に変更なり、品川宿は500人、板橋宿・千住宿・内藤新宿は150人までと定められた。
宿場の再開により内藤新宿は賑わいを取り戻し、幕末には品川宿に次ぐ賑わいを見せ、その繁栄は明治維新まで続いた。
しかし、明治になって鉄道が開通すると高度差の激しい甲州街道は全体的な東海道本線に客を取られたが、電車による移動により宿を必要としなくなっていくことで、東海道のはたごが次々に潰れていったのとは対照的に旅籠は必要とされ続けた。
つまり今でこそ人の多い新宿周辺も江戸時代では田畑ばかりのど田舎だったわけだ。
そして俺たちは内藤新宿にたどり着いたので遊女たちは普通の旅籠に、俺は飯盛旅籠に宿泊してみることにしてみた。
「ここからは、ちょっと分かれていこう。飯盛旅籠の飯盛り女達の実情を知りたいんでな」
「わかりやした」
「若いやつは念のため、俺の泊まる宿の見張りはしておいてくれ」
「わかりました、万一のことがあれば大変ですからな」
そうやって俺が集団から分かれて一人であるきながら宿街に入ると、道の両側から留女(飯盛り女)が頻りに声を掛けてくる。
「そこの旦那、今夜は家に泊まっていきなや」
「いやいやいや、うちにきなや」
俺はあえて若いが身なりの悪い方を選んでみた。
「んじゃ今日はおまえさんのとこに泊まっていくとするよ」
「ああ、ありがたいありがたい、ささ。足を洗いますよ」
「んじゃ頼むわ」
旅籠に入るときにはまず足を洗う。
一旦奥に引っ込んだ飯盛女が足すすぎのたらいに湯をくんできて、足と脚絆(きやはん)を洗って座敷へ上がるのだが、普通は足を洗うのは自分でやる。
だが飯盛旅籠では飯盛女の仕事は、まず旅人の足を洗うことから始まる。
「こんな感じで大丈夫で?」
「ああ大丈夫だ」
「では宿賃は200文ですよ」
俺は懐から金を出して渡す。
「ああ、200文な、ほれ」
受取った飯盛女がニコニコしている。
「はいどうも、ではお部屋を案内しますね」
「ああ、頼む」
案内された部屋はあまりきれいとも言えないがまあこんなものだろう。
「ではお食事を持ってきますね」
「ああ、頼むよ」
食事時には飯盛り女が膳を持ってきて飯を盛ってくれる。
ここまでは宿代込の値段、だから飯盛女はその他のサービスをいろいろ客から引き出そうとする。
そしてサービスの追加を受けられれば、いくらかは飯盛女にも金が入る。
「旦那様お酒はいかがですか?」
「ん、いくらだ?」
「酒と肴品で400文ですね」」
「じゃあ貰おうか」
「はい、ありがとうございます」
飯盛り女はぱっと笑顔になって部屋を出て、酒肴を持ってきて酒を注いでくれる。
「だんなだんな、今夜私といかがです?」
「ん、いくらだ?」
「番頭さんへのご祝儀が200文、私へのご祝儀が200文です」
「両方お前さんに渡せばいいのか?」
「はい、そうですよ。」
「じゃあ、酒と合わせて800文だな、これで今日の働きは十分だと思われるだろ?」
俺の言葉に飯盛り女は驚いたようだ。
「あ、え?」
「まあ、普通は驚くか、こう見えても俺は吉原の楼主でな。
だから大体はわかるんだがよ、お前さんは客引きが得意じゃなさそうだし。
だいぶ大変みたいだな」
「……はい」
「だから俺に対しての夜伽は別にしなくてもいいぜ。
飯も食べてぐっすり寝るんだな」
「ありがとうございます」
そう言って、彼女は飯をよそって食べている。
飯盛旅籠の飯盛り女は客を引けないと飯抜きも当たり前だったようだ。
現状の内藤宿はやはりあまり環境が良くないようだし四宿の飯盛女の労働環境の改善も早くやりたいところだな。
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