伊勢参りの希望者もけっこう集まったし伊勢へ向かうことにしたよ

 さて、吉原の代表が伊勢に向かうついでに伊勢詣を希望する人間は一緒に行こうぜと、俺は江戸の人間を誘った。


 ついでに何で今年は伊勢詣が小規模流行したのかちょっと調べてみたんだ。


 そうしたら本来は20年毎に行われる遷宮が実は万治2年(1659年)の11月25日に内宮正殿が焼失したため、去年に臨時遷宮をしていて、今年は遷宮の翌年の「御蔭年」になっているために参拝客を多く集めることになったらしい。


「なるほどそういう理由があったわけか」


 “伊勢に行きたい、伊勢路が見たい、せめて一生に一度でも、わしが国さはお伊勢に遠い、お伊勢恋しや参りたや”と御師が伊勢音頭を歌い、伊勢詣というのは素晴らしいものなのだと伝えていくのも理由のようではあるけどな。


「御陰年にお伊勢さんにいけるというのはまったくもって運がようございますな」


 紅梅などはそう言って単純に喜んでいたが、そうなると藤乃は運が悪いってことになっちまう


 けど、誰かがお伊勢参りに行けば、送り出した周りもその恩恵を受けるとされてるから誰か代表が行けばいいのか。


 子供や丁稚などの抜け参りが許されるのは、むしろ忙しすぎて自分自身が行くのが難しい商家の主人などに代わってそこまで仕事に必要ではない子供や奉公人が行くことでその恩恵に与かれるというのが大きいのかもしれないな。


「まあ、確かにな。島原や伊勢の楼主もそのあたりを考えてたのかもしれん」


 そして本来の遷宮の年である寛文9年(1669年)にはまた遷宮をしないといけないわけなのだからきっと伊勢の御師も必死に金集めに奔走してるんだろう。


 だから今回の伊勢での遊郭対抗戦は渡りに船だったかもしれないな。


 ちなみに伊勢神宮へのお参りは、「御蔭参り」と呼ばれるわけだが、この「御蔭」とは、主に豊受大御神による農業の恩恵や御利益、といった神の恵みで無事に生活できる“御陰様おかげさま”を意味するらしい。


 もっとも宝永2年(1705年)のおかげ参りは元禄16年(1703年)の元禄地震、明和8年(1771年)には八重山地震、文政13年(1830年)の前には文政11年(1828年)の子年の大風などの天災が起きてるのでその不安の払拭というのも大きかったんではないかと思う。


 この災は地震や台風という一過的な災害であるというのが重要で、飢饉だと流石にお蔭参りをしてる余裕はないからな。


 ちなみに今年も俺が伊勢に行ってる間の一月半くらいの俺が留守の間は母さんと妙と藤乃で三河屋を見ることになるがやっぱり特に問題はないだろう、吉原総会の方も三浦屋に代行を頼んだし、太夫などを率いて京に行くことに関してお奉行様にも許可は取って「通行手形」も入手済みだしな。


 江戸時代の江戸の庶民には基本的に貯金の習慣がないので、長屋とか町のある程度まとまった人数の10人くらいでお金を出し合い、くじで抽選をし当選した3名ほどが代表としてお伊勢参りに行くのだが、これを伊勢講という。


 その場合は出発の際に伊勢に向かわない残りのものによる見送りと応援の儀式が行われ道中の安全を祈る祈願も行われる。


 子供・丁稚・寡婦などの抜け参りについては正規に通行手形を持たなくても、白衣に菅笠で、背中にはゴザを筒状に丸めて、その先に柄杓一本をさしている。


 こうすれば、抜け参りだとはっきりわかって道中で柄杓に米や銭を入れてくれたり、通行手形がなくても関所は通過することができたりするのだが、ゴザなどは最悪野宿をするよという意思の表れだったりもする。


 各見世から今回の遊郭対抗戦に参加する太夫などとその世話係の禿や太夫付きの若い衆、今回の伊勢詣に同行する町民などが続々集まってきて、同行参加希望者は200人ほどの集団になった。


 その服装も伊勢講で金の準備が万端なものは派手な着物だったりもするし、抜け参りの白装束だったりもするが皆ワクワクしてるのはいっしょだ。


 その中には宿下がりとして休暇をもらった江戸大奥の奥女中なども含まれてる。


「じゃあ、伊勢に行ってくる。

 母さん、妙、藤乃、見世や店の方はよろしくな」


「ああ、わかってるよ」


「はい、任せてください」


「そないに心配せんでも大丈夫ですえ」


 去年はある程度までは船を使ったが今回は人数も多いので江ノ島詣でのときと同じように、吉原をでたら徒歩で日本橋へ向かいそのまま東海道の海沿いをてくてく歩き、まずは品川宿に到着。


 抜け参りの面々は“おかげでさ、するりとな、ぬけたとさ”と歌い踊りながら歩き、抜け参りであることをアピールしている。


 そうすれば道中で銭・米などを寄附してもらえる場合もあるからな。


「品川は相変わらず栄えてるな」


「そうでやすなぁ」


 もっとも品川までであれば来たことのある町人も多いわけだが、それでも来たことのない者にとってはいろいろ珍しいものらしい。


 川崎宿・神奈川宿を抜けて程ヶ谷宿で今日は一泊するが、俺たちのように飯盛り女のいない平旅籠に泊まるものもいれば、せっかくならと飯盛り女のサービスが有る飯盛旅籠に泊まるやつも居るし、宿代が安い木賃宿に泊まるやつも居る。


 抜け参りだと神社や仏閣の縁の下で寝たり野宿したりする場合もあり、最悪それでも風邪などで体を壊すことはないだろうけど、何かあっても困るので、抜け参りのメンバーは俺が金を出して木賃宿に宿泊させた。


 こんな感じで金のあるなしにかかわらず、東海道を歩いて道中の景観を楽しんで観光をし、寺社にお参りなどもしながら、泊まる場所や食べ物については金がある人間はそれなりに豪勢に、金が無いものもそれなりに道中の施しなども得ながら皆がはぐれることもなく、それなりに旅路を楽しみつつ、履きつぶしそうな草履を買ったり、茶屋で団子や饅頭・餅などを食べ、茶を飲んだりしながら熱田から海上七里の渡しで桑名に着いたあとは、伊勢街道を急げばあとは一泊の道のりで、やっと伊勢の古市遊郭にたどり着いた。


「ようやく伊勢についたか」


 こうして伊勢に到着したものが伊勢に滞在する際には伊勢講で来ているものは、担当している御師の経営している、旅籠に行き御師によって豪華な食器に載った、握りこぶしの大きさのサザエ、お頭つきのタイ、伊勢名物の海藻のアラメ、山で採れるきのこなどで歓迎される。


 伊勢のアラメは伊勢特産の海草で、かるくてたくさん持って帰れる重宝な土産として喜ばれているのだ。


 御師の経営している旅籠の寝具は絹の布団だったりして絹の布団などで寝たことのないやつはその寝心地にびっくりしたりもするし、御師は伊勢神宮や伊勢そのものの観光のガイドもしつつ、参拝の作法を教えたりしている。


 抜け参りの人間にも地元の人間がここぞとばかりに握り飯などを振る舞って伊勢は良いとこだとアピールしたりする。


 俺たちは門前の古市遊郭に向かった。


「よう吉原の、一年ぶりだな、伊勢参りの客も連れてきてくれたことには感謝するぜ」


 伊勢の惣名主が出迎えてくれた。


「おう、今年もうちが勝たせてもらうぜ。

 なに寺社参りの帰りに遊郭に立ち寄って、座敷遊びや遊女遊びをするのもいいもんだと知ってもらえりゃそれに越したことはないからな」


「なるほど江戸でも浅草寺参りのあとに吉原に越させたいってわけか」


「ま、そういうこった」


 そこに割り込んでくる男がいた。


「今年は俺達駿河駿府は府中も参加させてもらうぞ」


「同じく備後はともだ」


「同じく近江大津は柴屋しばやだ」


「なるほど今回は8つの遊廓での争いか。

 なかなか面白いんじゃねえか」


 当然京都は島原、大坂は新町、長崎は丸山からもやってきている。

 なかなか盛り上がりそうでいいじゃないか。

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