この頃の農民の生活は統治者によって様々だった・その一

 さて、江戸時代の農民というと”農民は生かさず殺さず”などと言われて重い年貢と助郷などの労役に苦しんで困窮した生活を強いられ、農民は度々竹槍を持って百姓一揆を起こし、打ち壊しを行ったりし、雑穀でやっと飢えをしのいでいて米などは食べられなかったイメージが強いだろうが、実際のところは統治者や場所によって様々だった。


 そして江戸時代初期は元禄期が最も好況だがそこに行き着くまでの未来は大抵は明るく見えていたのだ。


 天領・武蔵の国の場合


「いやー、麦を高く買ってもらえるようになったのはありがたいな」


「んだなー、蕎麦も上手く食えるってんで喜んで買ってもらえるようになったしな」


「江戸の肥が臭くなくなって根腐れしづらくなったのも助かるべ」


「んだんだ」


 まず江戸では”神君大権現様にならうべく武士は麦飯を食うべし”と将軍や親藩・普代大名をまず中心に白米ではなく麦飯を食べるようになっていた。


 これにより江戸患いと言われた脚気にかかるものはいなくなりその動きはその他の大名や旗本御家人にも波及したあとで町人にも波及しつつあった。


 もともと春先の蕎麦、春から秋の米、冬の間の麦という三毛作はとっくの昔に技術的には可能で細々と行われていたが蕎麦や麦は米に比べると美味ではないので需要が少なくあまり儲けにならなかった。


 しかしながら麦は麦飯以外にも天ぷらの衣や粉ものとよばれる”お好み焼き”などの新たな食べ方の出現により需要が急激に拡大して高く売れるようになった。


 蕎麦もそば切りが普及するに連れて美味に食べることができるようになったためこれまた以前に比べて高く売れるようになったのである。


 その分消費が減った米の価格が低迷しつつあったが、武家の俸給は米ではなく銭と米が半々となったため武家などの生活への打撃もそれほど大きいものではなかった。


 一方、札差のような武家の俸給である米を現金に変えて生活する金貸しは大打撃をうけたがそれに対しての周りの目は冷ややかだった。


 都市部においても農村においても人々の生活水準が上昇したり農具などの改良が進んで銭で購入するさまざまな生活用品が必需品になってきたが、農民は完全に稲作だけに依存するわけではなく蕎麦米麦の三毛作などの他に大根や江戸菜、油菜などの野菜栽培、養蚕やタバコ、綿花、染料の藍や紅花、油や紙のもとになる椿の栽培、雑木林の木を用いての炭焼などの副業を活かし、下級武士や浪人に比べれば労働時間は確かに長いが金銭には比較的余裕があるように生活できたのである。


 そうやって農村に余裕ができると専門の居酒屋、荒物屋、小間物屋、古着屋、酒屋なども大きな村ではできて行くようになっていく。


 こうなると身分は田畑を持たぬ水呑百姓でも居酒屋などを経営したりなど商売上手で裕福な農家というのも出現したがそれとともに禁止している博打を行うものが増えるのが幕府の代官の悩みのタネにもなるのだった。


 天領・甲斐の国の場合


 しかしながら同じような天領であってももともとは金山の確保が目的の甲斐などは農業に向いた土地ではないためなかなか厳しいものがあった。


 それを救ったのが麦や蕎麦よりも痩せた土地でも育ち冷夏でも大丈夫なジャガタライモ及びヤギである。


「今年もなんとか食っていけそうだなぁ」


「ああ、あれは美味くはないけど腹は膨れるからな」


「ヤギの乳も助かるもんだ」


「ああ、オッカの乳が出なくても飲ませられるのは助かる」


 そして甲斐の国の領民を悩ませていた水腫腸満(はらっぱり)の被害も徐々に減っていった。


 特に被害のひどい地域では水田はやめてその場所を畑として蕎麦や小麦、じゃがいもやさつまいも桃や桑などの果樹の栽培を行い始めたことによって原因となるカタツムリの数が減っていった。


 またそれが難しい場所では家鴨を放して食わせることでカタツムリの繁殖を抑えようとしていた。


 また人間の糞便から広がるのを防ぐために、おが屑厠を甲府でも導入し、おが屑が足りない分は藁で補って虫の卵を腐熟させ殺すことも行われていた。


 無論被害がなくなったわけではないが病気の原因がある程度わかっただけでも甲府盆地の農民にとってはまだ救いとなるものであったのだ。


 普代・出羽庄内藩の場合


 雪の深々と降り積もる庄内平野、冬の間農民は雪に埋もれた土地に対して何かを行えるわけでもなくせいぜいが縄や筵などを結って春がくるのを待ち望むのみであった。


 囲炉裏の脇で暖を取りながら縄をゆいつつ男が言う。


「お江戸の姉ちゃん達は元気かな」


 それに頷いたのは年老いた母親。


「ああ、きっと元気さ。

 あの子達のお陰で私たちは生きてるのだから 感謝しないとね」


「そうだな母ちゃん」


 譜代大名の酒井氏が一貫して統治した出羽庄内藩はお家乗っ取りを企む酒井長門守一件などがあったため混乱はあったものの現在の当主である酒井忠当さかいただまさは領国の安定に力を注いでいた。


 庄内平野は米どころで、且つ酒田は北前船の寄港地として栄えていたが、雪の深い東北地方日本海側であるため副業は成り立たず、農民の生活はやや厳しいものであった。


 しかしながら庄内平野は、東北地方が度々見舞われてきた冷夏による被害は少なく、また冬季の季節風は激く冬の多量の積雪は冬の間ほとんど何もできなくなる原因ではあったが、その雪が溶けることによって最上川を主流とする大小の河川に豊かな水を供給することで稲作の発展を促していくのだった。

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