浅草浅草寺の千日詣にみんなで行こう
さて7月7日の七夕が終わってすぐの7月10日は浅草浅草寺の千日詣の日だ。
後には四万六千日詣でになったりするな。
もともと縁日というのは”特に神仏に祈りを捧げると縁のできる日”のことだ。
平安時代のから、観音様こと観世音菩薩の縁日には毎月18日があてられてきた。
しかし室町時代末期から戦国期にかけてそういった縁日の中でも特に効果のたかい功徳日というのが出てきてその日にお寺に行って観音様に祈りを捧げると100日分祈りを捧げたのと同じ効果があるとされたりした。
そのうち7月10日は特に特別な効果があってこの日にお祈りを捧げると1000日分の効果があるとされたんだな。
元は上方の京都の清水寺などで行われていたが江戸時代に上方からいろいろな人間やしきたりが入ってくるに連れて浅草の浅草寺でも行われるようになった。
のちには四万六千日詣でになるのだが、その日にちになった理由については米の一升が米粒46,000粒にあたり、升の一升と人間の一生をかけたともいわれるが正確な理由は不明だ。
それによって一生に一度は浅草寺の四万六千日詣でには行くべきだという話になるわけで、そうなれば当然その日は屋台も沢山たった、祭りの屋台を縁日と呼ぶようになったのはこれが理由らしいぞ。
そんな感じだから淺草は人が一杯になり吉原も当然稼ぎどきなのだが、俺はあえて今日は昼の店を休みにして三河屋と西田屋の現役遊女も含め、美人楼や万国食堂、もふもふ茶屋で働いてる元女郎、切見世の女郎、その他年期明けの番頭新造、鑓手、太鼓新造、それと母さんや西田屋の内儀、惣名主付きの秘書や事務方たち、養生院の医者たちなどをひき連れて、浅草寺へ千日詣に行くことにした。
しかし、灌仏会の時に比べると人数もだいぶ増えたな。
三浦屋や玉屋、山崎屋は流石に稼ぎ時に遊女をお参りさせてる場合じゃないと今日は不参加だ。
しかし、4月の灌仏会の時は現役遊女はお祈りに行けなかったから今日を逃す手はないと俺は思うんだがな。
現役遊女が参拝にいけるようになったのは4月とは状況が変わったからだ。
俺の吉原惣名主就任の時に幕府から新たに命じられたことがある。
江戸城の煤払い及び畳替えの際には吉原遊郭内より人夫を差し出すこと。
近隣火事の際にも人夫を差し出すこと。
山王・神田の両大祭などに参加し寄付をすること。
大老、老中、三奉行が出座する評定所の式日に太夫をその場の給仕として差し出すこと。
というものだ。
本来新吉原は火事や祭りに人員を差し出したり金銭を寄付しなくても良いとされていたが、実質的にはそれは祭りへの参加禁止、さらには楼主や遊女の参拝禁止の意味合いだったわけだ。
あほな大見世の楼主はそれを特権と考えていたが、寺社のたくさんある浅草の吉原がそれによって寺社に参拝できぬ穢れた場所とされてしまったわけだな。
それをなんとか覆すことが出来たのはおそらく水戸の若様のおかげだろう。
「よし、前回は現役遊女は浅草寺にいけなかったが今回はちゃんと行けるぞ。
人が多いからはぐれないようにしてくれな」
俺がそう言うと特に現役遊女たちは嬉しそうにこたえた。
特に藤乃や桜は嬉しそうだ。
「あい、勿論でんがな。
ほんま観音様の千日詣にいけるなんて夢のようでありんすえ」
「ほんまですわ、若旦那には感謝しかありまへんえ」
無論、鈴蘭と茉莉花や山茶花、楓と言った面々も喜んでる。
さて、七夕に引き続いて天気もよく、店などには予め”浅草寺の千日詣りへ参加のため本日昼見世休業”などと張り紙をして有ったし、昼は予約も取らなかったからまあ問題はなかろう。
流石に今回は大名様などと一緒というわけにも行かないので、俺と若い衆と女連中で連れ立って見世を出て吉原の大門をくぐったあと、門外店の女たちや医者たちとも合流した。
「ほれ、お前ら、賽銭と途中で団子や大福なんかをを買うための銭だ。
絶対落とすなよ」
そういって、禿や見習いなど自分たちでは銭を稼げない立場の者たちに賽銭と小遣いを渡す。
現役遊女たちは渡さなくても大丈夫な程度は稼いでるはずだ。
そして大門の外に出れて皆喜んでるが特に現役遊女たちは喜んでいる。
そして母さんは俺と妙を見ていった。
「早く孫の顔が見たいものだねえ」
俺は少し考えてて妙にいった。
「そうだな、落ち着いたら祝言をあげるか」
「え、ええ、そういたしましょうか」
妙の人格にも能力にも問題はないし、人間的には大好きだ。
妙も俺を嫌ってはいないだろうし、財産めあてとか今更遊んで暮らせるとも思ってないだろう。
お互い異性として好きなのかどうかというのは正直わからんけどな。
とりあえず式をあげるのはもう少し落ち着いてからでないとな、あんまり引き伸ばすのも良くないだろうけど。
さて、浅草寺へのお参りだ、縁日だけ有って参道の左右には屋台もたくさん出ている。
食べ物屋だけでなく小弓で小物を撃ち落とす、射的のような見世や講談、漫談、見世物の小屋なんかもあるな。
「うーむ、屋台に参加させてもらえばよかったかな」
俺のつぶやきを妙が聞きとがめた。
「たまの休みくらい仕事から離れないと駄目ですよ」
「あ、ああ、すまん、そうだな」
どうもワーカホリック気味でいかんな。
屋台で軽く団子やら饅頭やら大福やらを食べて歩きながら食べつつ進んでいく。
皆が山門である雷門で合掌一礼したあと門をくぐり、手水で手を清め、口を濯ぎ、境内に入り常香炉にお香を供え、手を使って自分の体や顔などに煙をかける。
俺は桜に煙をかけてやる。
「ほれ、桜、煙をかけてやるぞ」
「あい、ありがとうござんす」
その様子を桃香がジーっと見ていたので桃香の頭にも煙をかけた。
「わーい、ありがとうでやんす。
これで頭が良くなるでやんすね」
「おう、桃香は頑張ってるからな」
「楼主様わたしにも」
「わたしにもおねがいしんす」
「おう、かけてやるからひとりずつ並べ」
他の禿たちもわらわらよってくるのでみんなにけむりをかけてやった。
桔梗もやってきて煙をかけてほしそうにしている。
「……。」
「桔梗、お前さんはもうちょっと愛想良くならんと駄目だぞ」
「はい、すみません」
まあ来たばかりだからちょっと馴染めてないのかもな。
桃香もそうだったが、身分が低いといじめの対象にもなるし……困ったものだ。
常香炉の煙を浴びると病魔が出ていき、体の悪い所がよくなると言われるし、頭に煙をかけると、頭がよくなるともいわれる。
なので大人は体に子どもは頭に煙をかけているんだな。
そして本堂に参り礼拝祈願する。
「どうか立派な太夫になれますように」
「どうか格子になれますように」
「どうか引き込みに選ばれますように」
「どうか私達二人が無病息災でありますように」
「どうか岩が治りますように」
願うことは様々だが皆真剣に祈っているのは変わらない。
みんなに千日分のご利益が本当にあればいいな。
そして皆で鬼灯(ほおずき)を買っていく。
赤い鬼灯の実を水で丸飲みすれば、大人は癪が治り、子供からは虫が去り、煎じて飲めば子供が夜泣きくしなくなると言われていて、鬼灯の実は薬として扱われていた。
実際鬼灯の実には軽い毒があるので虫下しなどにはなるのだが、妊娠中の女性が服用した場合、流産の恐れがあるので注意が必要ではあるんだよな。
こうして、皆で買食いしながらお祈りもすればそれでストレスも少し解消できる。
戻って店を開けば夜見世では客がホオズキなどを片手に吉原に流れ込んできた。
「さあ、忙しくなるぞ。
みんな頑張ってくれ」
「あい、がんばりんすよ」
こうやってまた夏の一日が過ぎていく。
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