建物の防火対策をとっとこう
さて、翌日のことだ。
俺は大工を呼んで話をしていた。
俺に会ったなり上機嫌で大工の親方が言う。
「いやあ、あの厠。
水戸藩だけでなく、会津藩や将軍様の大奥、尾張藩の厠も同じようにしましたが、どこも評判が良いようですよ」
まあそりゃそうだろうな、汲み取りトイレの臭さはひどいもんだ。
それに着物が汚れることもなくなれば誰だって喜ぶだろうさ。
それに、大便に含まれるノロウイルスや赤痢、その他の病原菌などのもらい事故もなくなるしな。
しかし、洋式だとしゃがんで踏ん張るということが少なくなるし、普段からそういう姿勢を取るように奥女中に伝えたほうがいいかな。
今度水戸の若様なり誰なりが来たら伝えてもらうようにするか。
もしくは美人楼であそこの締りを良くするためにも、遊女のやってるような膣圧アップ方法を勧めるかね。
「おう、そうか、そいつは良かった。
でだな。
今日呼んだのは2つ頼みたいことが在るからだ。
一つは俺の持ってる見世の外壁に漆喰を厚く塗り込めてほしい。
特に軒先に行灯が在るところと、俺の見世以外と隣接してるところの壁を優先してほしい。
板葺きの屋根には土を同じように厚く塗り込んでくれ」
「へえ、わかりやした」
これは防火対策だな。
漆喰は主に石灰から作る建材の一つで防火性、吸湿性に優れ塩害にも強く、この江戸時代には物品保管用の土蔵や穴蔵などにも使われる。
屋根には明暦の大火の際に全焼した建物の瓦に押しつぶされて死んだ人間が多かったのと、瓦を焼く時の燃料となる薪の不足により、現在瓦葺きは禁止されているのでこうするしか無いのだ。
旧吉原に遊廓が転移する際には遊廓を華美な建物にすることや遊女が華美な服を着る事は禁止されていたり、客を一晩のみ泊めて、連泊を許さない、売られてきた娘は、調査して親元に返すなどと言われたりしていたが、実際にはそこまで守られていなかった。
太夫のような上級遊女はきれいな服を着ていたし、禿などはほとんど売られてきた娘だ。
建前的には給料の前貸しとしていたがな。
もっとも”吉原の外にては一切遊女商売を許さず、遊女を囲外へ遣すことも相成らぬ”と言うものだけは厳密に守らないとまずかった。
そうでないと吉原に集めた意味がないし、これは遊女の脱走防止にも役に立ったわけだ。
火事と喧嘩は江戸の華と言われるが、土蔵や穴蔵などを除いた、殆どが木造の建物で住宅が密集している江戸ではボヤから大火になることも少なくない、京、大阪、金沢といった大都市と比較しても江戸の火事の数は抜きん出ていて、それだけ江戸は人口が多く、繁盛していたというのも在るが、他にも理由はある。
火事の原因は失火と放火が在るが、江戸時代では放火はとんでもない重罪で、火事場泥棒は捕まれば市中引き回しから衆目に晒されての火あぶりでの死罪だった。
一方失火の場合は基本はお咎めはなかった。
失火は行灯を倒したり、火鉢の炭が燃え移ったり、天ぷら油を熱しすぎたりなどだな。
この時代は調理、暖房、照明に全て薪、炭、行灯、ろうそくなどが使われていたので何かの拍子に燃え広がることも少なくなかった。
そして、こういった失火からの延焼を幕府は恐れていたので、江戸の町では色々規制が有った。
湯屋や風呂屋は、その営業に届け出が必要で防火のため暮六つ(午後6時ごろ)までしか焚いてはならないと命じられた。
内湯は厳しく制限され、花火は江戸町中での制作が禁じられ、隅田川以外での打ち上げも禁じられた。
一方の放火だが、放火犯は、地方から出てきたり、売られたりした後に江戸の物価の高さや保証人がなく奉公に出られないことなどにより、困窮し江戸で生活していけなくなったものが多かった。
放火の動機としては一番多いのは平安時代から続く火事場泥棒だ。
裕福な家に火をつけて家主が逃げている間にその家から金品を盗み出すというものだな。
その他にはあまりにもひどい扱いをされた奉公人による主人への報復もある。
これは遊廓も例外ではなく江戸後期では遊女による放火も結構有った。
その他は男女関係のもつれによるもの、商売敵の店への放火”火っていうのは綺麗でしてね。ふと火をつけたくなったんですよ、うふふふふ”という供述が残る放火なども在るらしく、放火の動機は様々だ。
吉原でも度々火事が起き全焼しているが、これは新吉原へ移転する際の”吉原遊郭連座の周辺の火事・祭への対応を免除する”という、幕府との取り決めによるものも在る。
これにより吉原の周辺で祭りや火事があっても、それに対する資金や人員の提供をしなくても良いとされたわけだが、これが周りに大きな反感を買ったのは言うまでもない。
特に浅草は寺社が多いからな。
祭に対応しないというのは寺社に対する不信心とみなされ、吉原の男が”吉原出”と穢多非人の中でも特に下に見られたのはこれが原因だ。
同じ芸事に関わる歌舞伎役者も非人であって、非人を統括する浅草弾左衛門の支配下にあるが、後に非人から離脱でき町人からはアイドルのように思われていたのは、このあたりにおける対応の差だろうな。
しかし実は、明暦3年(1657) 正月の明暦の大火のあとの新吉原への移転後は延宝4年(1676)、さらにその後は明和元年(1764)までは長い間全焼していない。
しかし、その後はほぼ5年毎に全焼するようになった。
様々な火消しが誕生してからも、火消しは吉原の消防活動に消極的だった。
火消しが消極的だったのは、一つには、この頃の吉原はすでに不浄の地と見なされていたから。
もう一つは資金を提供されていないから。
もう一つは、吉原が丸焼けになると、いろいろな人間が得するからだ。
楼主は吉原が全焼すれば、当然自分の建物も焼けて大損を被ると思うだろうが、じつは儲かる仕組みになっていた。
吉原に新たに建物ができるまでに、営業が可能になるように幕府は一時的な営業が可能な代替地を用意してくれ、代替地での仮営業では小屋ですむから、運営のためのコストが少なくすみ、さらに代替地で営業しているかぎり、冥加金や間代などの幕府に取られる金、つまり税を取られなかった。
要するに火事になれば合法的に脱税できたということだな。
ただし、太夫が居た頃は教養を得るための手本がばかみたいに高かったから、損失のほうが大きかった。
だからそれまでは皆で必死になって火消しをしたわけだ。
また江戸の材木商人や呉服商人、大工、とび職たちも、吉原が焼えれば、そのたびに復興のために潤った。
とび職が本業の町火消も、当然得をした。
さらに火消しが形ばかりの消火活動をし、燃え残っていてもそれを破壊した火消しには、遊廓の楼主から礼金が支払われた。
もちろんその礼金の意味は、火事を放っておいて、見世を焼いてくれたことへのお礼である。
火消しの中には、楼主の意をくんで、消火活動中、焼け広がるような行動をとる者さえいたという。
しかし、客を案内する引手茶屋にはこれはとても迷惑なことで、茶屋からそういった行動を取った火消しが密告されたりもした。
とりあえず誰哉行灯の設置からの失火で見世が焼けたように見せかけられての放火とかをされてもたまらんからな、できるだけ対策は取っておかないと。
ああ、ちなみに若い衆の寝ずの番は別に在るぜ。
もっともこれは客と遊女が夜中に抜け出して脱走を企てたり、心中したりしないようにや、行灯油を定期的に継ぎ足すのが主な役割で外からのアクシデントの対処のためじゃないがな。
「それから、もう一つは俺が切見世の一つを見ることになったんでそこの厠も同じようにしてほしいんだ。
あと今のようにおがくずは俺のところへ優先してただでわけてもらいたい。
で、便器は大小でわけてほしい。
小便のときは今と同じで座れるように。
大便のときは便器を一段高くしたうえで樋箱のように衣隠しをつけてしゃがんでできるようにしてくれ」
汲み取り式は臭いが酷いのも在るがやっぱウジが湧いてハエも大量に発生する。そしてたまった肥に排泄した人間が持ってる病原菌が繁殖していれば、ハエを媒介して人に広まる可能性があるし、お釣りでのもらい事故もあり得る。
「へえ、構いませんが、場所はどちらで?
おがくずは俺たち大工から見ればゴミですから、全然構いませんぜ。
なんせ江戸市中で燃やすわけにも行きませんからな」
「ああ、場所は……」
と俺が大工に切見世の場所を書いてやっているところで声がかかった。
「楼主様おはようござんす」
なんか寝ぼけ顔で鈴蘭が起きてきたぞ。
この時間他に起きてくるのは、昼間に武家から予約の入った昼番の奴やまだ客を取らないので早く寝る代わりに早く起きて、雑用や習い事をする見習いばっかりなんだが。
厠に行こうとして寝ぼけたか。
「おう、鈴蘭どうした?
厠はこっちじゃねえぞ」
鈴蘭は、ん? と小首を傾げた。
そして、赤い顔になって慌てて言った。
「え、あ、そうでした、こちらの見世ではまだ寝ていていい時間でやんしたな」
どうやら前の見世の時の癖で起きちまったみたいだな。
「ああ、なんだ前の見世の時の癖か。
まあ、すぐにゃ直らんよな」
恥ずかしさからか頭を掻いている鈴蘭だが、目に生気は戻ってる。
たっぷり飯をくい、一昨日はたっぷり寝て、昨日の夜は無事客もついた。
流石にまだ体はふくよかにとは行かねえが一月もすれば体つきも
女らしくなるんじゃねえかな?
「ほんに、楼主様がええ人でよかったでありんす。
わっちは運がええでんな」
「まあ、そう言ってもらえるように努力はしてるつもりさ。
鈴蘭眠けりゃもう一度寝てくるんだな。
眠れんなら禿たちに三味線でも教えてくれりゃいいし」
少し考えたようだが、やっぱりまだ眠いのだろう。
「すんまへん、わっち一度厠に行ってもう少し眠らせていただきやんす」
「ああ、そうしろ。
そして無理しない程度に頑張れ」
「あい、ほんとうにありがたいことでありんすな」
そういって俺にぺこりと頭を下げた後で鈴蘭は厠に向かった。
まあ、まだ完全に馴染んでは居ないが、そのうちにうちの見世の雰囲気にも溶け込めるだろう。
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