風俗は貧者の最後のセーフティネット、江戸時代からそれは変わらない

 さて、ある日のこと、俺は藤乃付きの禿の桃香に呼ばれて揚屋に向かっていた。


「お客はんが、戒斗様とお話しをしたいそうでありんすよ」


「今日の藤乃のお客って大名だったような気がするが

 俺になんで会いたいんだろ?」


「さあ、わっちも良くはわかりんせんのです」


 とりあえず、俺達は揚屋の藤乃が持ってる部屋へ向かい、座敷に上がることにする。


「三河屋楼主戒斗、失礼致します」


 すっと障子を開けて中を見る。


 遊郭では武士であろうと刀は持ち込めないのだが、間違いなくいいとこの大名なり江戸留守居役なんだろう、でもなきゃ太夫と何度も遊べないからな。


「若旦那、こちらは水戸徳川家の御当主・徳川頼房様の御世子(ごせいし)

 徳川光圀(とくがわみつくに)様でありんすえ」


「ほほう、そなたが藤乃太夫の言う若旦那か、なるほどなるほど」


 こりゃいったいどういうことだ?

徳川光圀って水戸黄門だよな。

まあ、まだ水戸藩主になってるわけでもないし、全然若いけど。

テレビの時代劇とかと違って結構人を斬り殺したりしてるらしいし、ちょっと怖いんだがな。


「うむ、なんで俺がこんなところに呼ばれたのだと思ってるようだな」


「え、ええ、藤乃太夫に何か落ち度でもありましたでしょうか?」


「いんや、そんなことはまったくないぞ。

 太夫のもてなしは素晴らしい。

 しかも最近は特に良くなっておる」


「は、それはありがたきお言葉で」


そこで徳川光圀はニンマリと笑う。


「で、だ、そなたのこの揚屋の厠が臭くないことや

 この揚屋の内湯の素晴らしさ、もとは皆そなたが考えたそうだな。

 最近は遊女を片番だけにすることで十分睡眠をとることで

 疲れが取れるような心配りもしておるとか」


「ええ、そうですが……何か問題でもございましたでしょうか?」


 もしかすると贅沢がすぎるとか言われるのかな?

内湯で総檜造りで肩までつかれる湯船なんてなかなかないしな、こいつはまずったかな?


「いや、そうではない、水戸藩の藩邸にもあれと同じ厠を作りたいのでな

 どうだ、よければ私に仕えぬか?」


 こいつは驚いた、まさかスカウトされるとは思ってもなかったぜ。


「私は吉原生まれの吉原出、非人身分のものでございますが……」


 徳川光圀はカラカラと笑う。


「なに、南蛮黒人(なんばんくろびと)でも漢人(からびと)でも

 使えるものは使うのが私の主義でな。

 そんなことは気にしないで大丈夫だ」


 そういえばこの人は黒人を雇ったり中国人を雇っていたりしたか。


「とてもありがたい言葉ではあるのですが……

 私にとってここで働いている者は全て家族のようなものです。

 その家族を放り捨てていくことはできません。

 それに遊郭は生活苦に陥って心中しなければならないような

 状態になった家族の最後の命綱でもあると思います。

 子を売ることで命を食いつなげたものも少なくないでしょう。

 それが良いこととは思いませんし、

 俺達は女を食い物にする輩と嫌われてはいますがね」


 俺の言葉にふむと考えたようだ。


「うむ、心中や捨て子、姥捨てについては私も思うところはある。

 上様も同じように思われているようだ」


「それはまことによいことかと」


 徳川幕府の支配体制がまだ盤石と言えない江戸時代初期の、幕府の成立から3代将軍徳川家光の治下にかけては武断的な政策が行われ、それにより石高を縮小されたり取り潰される大名家が続出した。

これは徳川幕府の幕藩体制を確立するために大いに役立ったが、取り潰された大名家に仕えていた武士たちは浪人となり、食い扶持にあぶれた彼等の存在により社会不安を増すことになった。


 それが極致に達したのが、慶安4年(1651年)に起きた慶安の変、いわゆる由井正雪の乱だ。

寛永14年(1637年)から翌年にかけて起こった島原の乱でも多くの浪人が一揆に加わったことがその鎮定を困難にしたとされるが、慶安の変では大名などではなく浪人が徒党を組んで幕府転覆を図ったことで、大名家を潰してしまうことでの新たな不安定要因を生み出していたことをはっきりとわからせた。

慶安5年(1652年)の承応の変と合わせて、これらの出来事が武断政治から文治政治への転換を促したのだな。


「しかし、はっきり断られるとは思わなかったぞ」


「申し訳ございません、身に余る光栄とは思いますが

 このような立場で遊女屋の環境の改善を

 図るものがいても良いと思うのです」


「うむ、それは一理あるかもしれぬ」

 

 江戸時代から戦前ぐらいまで、子供の数は資産家の家庭で多くて5~6人、普通の家庭では2、3人が普通だった。


 江戸時代初期から中期に掛けては治水も進み、開拓や干拓などにより新田開発が盛んに行われ、農村は比較的豊かになっていった。

木綿やイグサなどの商品作物を作ったり、織物を作る手工業などを行う程度の余裕もあり、時にはその交易も行うなど、米や野菜などを作るだけではなくなってきていた。


 しかし、江戸時代は寒冷期で、農民や漁民は冷夏、旱魃、台風、地震、噴火と行った天変地異に度々悩まされ、年貢と労役にも苦しめられた、要は農民でも貧富の差が激しくなったんだな。


 農地などを相続するものは1人でよく、例えば最初に生まれた子が男の子であれば、跡取りだから育てる、しかし、次に生まれた子がまた男の子だと財産争いのもとになったり、育てるのが大変だから殺す場合もあった、余裕があればある程度の大きさまで育てて、江戸に奉公に出した場合もある。

この時代の江戸は開拓と建設の現場はいくらでも有り、健康で体力のある男であれば仕事には困らなかった。


 しかし、女の子の場合は働き手として必要とされる職業は殆どなかった。

なので育てるのが大変だから生まれたばかりで殺す場合もあった、余裕があればいざという時売ればお金になるから一人二人は残すという具合になるわけだ。


 悪法として有名な生類憐れみの令だが、本来はこういった子殺しや姥捨て、年を取って働くことができなくなった牛馬などを捨てたり、大衆の前で犬を斬り殺して犬鍋にすると行った傾奇者などの行動を掣肘し、戒めるためのものでも有ったし、武士や町人のちょっとした喧嘩で刃傷沙汰になり死人が出るような状況を変えるためのものでも有った。


 俺達の遊郭に幼女を売りに来る女衒(ぜげん)と言うのは、飢饉などで生活するのが苦しくなった農村や漁村などに幼女を買いに行くのが仕事だ。

彼等は買い取った子どもたちを引き連れて、吉原にやってくるが、売られて生まれた村を去ることになり悲しい思いをする娘達は村を振り返りつつ泣きながら、お互いに手を繋いでここまでやってきたりするわけだ。


 現代でも低学歴でなかなか働き場所がなかったり、親や旦那が入院したり、離婚してシングルマザーになったなどいろいろな理由で風俗で働くことになる女性が居る。


 風俗は住む場所としての寮を用意してある場合が多いし、食事に困らない程度は稼げることも多い。

託児所を店が持ってることは少ないので店の近くの託児所に預けることになるが。

託児所に預ける費用分稼げるかはルックスや適性もあるからかならず大丈夫とはいえないがな。


 水商売や風俗がセーフティネットとなるというのは無論いいことではないが、そうならざるをえないというのも現実だったりする。

無論年をとると風俗でも難しいのはいうまでもないから、嫁ぎ先や働き口を見つけてやれれば、もっといいんだがな。


「まあ、でも、厠の改装とかのお手伝いくらいはさせていただきますよ

 俺が頼んだ大工に話しておきましょう」


「うむ、それは助かるぞ。

 もし、私の助力が必要な場面があれば太夫を通じて

 文を送るが良い」


「は、ありがたきお言葉でございます」


「そういえばそなたはもふもふ茶屋としょうして

 カイウサギを膝に乗せて、歩鈴を食べられる茶屋もやっておったな。

 西洋菓子や大陸料理をもっと作って出せるようにしてみてはどうだ?

 食材は私が手配させるが」


「はい、そうしていただけるならばありがたいことです」


「うむ、私は葡萄酒(ワイン)がすきでな。

 大陸料理はうまいものが多い。

 そういうものを扱ってくれれば楽しみもまた増えるというものだ」


 なんとも予想していなかったが、中国料理や西洋料理の食材を手に入れられるかもしれない。

まあ、俺が作り方を知ってる物はそんなにないけどな。

あとバイオトイレがあんまり普及しすぎて、おがくずが手に入らなくなったりしても困るんだが。

まあ、水戸藩藩邸で使うくらいなら大丈夫だよな。

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