江戸の水事情、風呂事情、氷事情

 さてある日のこと、俺は茶の点て方を桃香に教えていた。


 そして一通り教えたあとで桃香が言う。


「戒斗様、わっちの点てた茶を一杯いかがでありんすか?」


「おう、ありがたいね。

 それじゃあ一杯貰おうか」


「では、ちょいとおまちになってくんなまし」


 桃香は茶釜などを使って頑張って茶を入れているが、まだまだぎこちない。


 まあ筋は悪くないと思うがな。


「では、どうぞ」


「おう、ありがとな」


 桃香の点てた茶だがまあまあ悪くない。


「まあ、結構うまくなってきたな」


「藤乃様にいろいろこってり鍛えられたでやんすから」


「なるほどな、まあなかなか筋はいいと褒めていたぞ」


「えへへ」


 ……


 一方、なじみ客の接客中の藤乃


「旦那は茶と酒どちらが良うござんす?」


「今日は茶にしておくかね」


「あい、わかりんした」


 シャカシャカと抹茶を立てていく藤乃。


「おまたせいたしやした。

 どうぞ」


「うむ、名高き藤乃太夫の手ずから入れた茶となれば

 周りに自慢もできるのう」


 旦那と呼ばれた人物は徳川光圀、世に言う水戸黄門である。


 彼はこの江戸時代から名君伝説が確立しており、白髭と頭巾姿で諸国を行脚しお上の横暴から民百姓の味方をする、水戸の御老公の黄門漫遊譚が有名だが、実際の光圀は日光、鎌倉、金沢八景、房総、勿来、熱海などしか訪れたことがなく、現在の関東地方とその隣接地の範囲から出たわけではない。


 武士は旅行に対して細かい定めがあるが、当然それは彼にも適用されたからだ。


 少年の頃の光圀の振る舞いは乱暴者で自ら辻斬りを行っていたとも言われるが、光圀が17歳頃のとき、傅役の小野言員が「小野言員諫草(小野諫草)」を書いて自省を求め、光圀が18歳の時、司馬遷の『史記』伯夷伝を読んで感銘を受け、これにより行いを改め儒学を尊重するようになる。


 これによりそれまで朝敵とされていた、楠木正成は再評価を受けることになる。


 これは室町幕府が北朝の正当性を強調する中、足利軍と戦った正成を『逆賊』として扱ったためで、楠正成の朝敵認定は、楠正虎(楠 長譜・くすのき ちょうあん)が戦国時代、永禄2年(1559年)に楠木正成の子孫と称し、朝廷に正成の朝敵の赦免を嘆願。


 正親町天皇の勅免を受けた、しかしながら戦国の時代であれば、一般にはあまりそれは伝わっていなかった。


 朱子学を好んだ徳川光圀は自筆で「嗚呼忠臣楠子之墓」と記した墓石を建立、整備した。


 このときの工事の監督を指揮したのは“助さん”こと佐々介三郎である。


 光圀は「世間的には逆賊とよばれていても主君に忠誠を捧げた人間の鑑であり、全ての武士は正成の精神を見習うべし」と正成の名誉回復に努めた。


 とは言え、彼は相当な変わり者であり、女好きで吉原遊郭にも度々訪れていたりする。


 また日本の歴史上、最初に光圀が食べたとされるものは、ラーメン、餃子、チーズ、牛乳酒、黒豆納豆などがあり、肉食が忌避されていたこの時代において、光圀は牛肉、豚肉、羊肉なども食べていた。


 その他にもオランダ製の靴下、すなわちメリヤス足袋を使用したり、ワインを愛飲するなど南蛮の物に興味を示したり、海外から朝鮮人参やインコを取り寄せ、育てていたりもする。


 蝦夷地(北海道)探索のため黒人を2人雇い入れ、そのまま家臣としており、この二人の黒人が助さん格さんのモデルだとも言われている。


 なお、水戸徳川家は参勤交代を行わず江戸に定府しており、常に将軍の傍に居る事から水戸藩主は俗に「天下の副将軍」と呼ばれるようになる。


 要するに副将軍という役職は実際にはないのである。


「ほほ、そんなこともありまへんえ」


 茶器を回して抹茶を口にする徳川光圀。


「うむ、良い水と茶葉であるな」


「楼を継いだ若旦那はんがな”客から高い金をもらう以上、最高の物を出すのが見世として当たり前だろ”っていいはりますからな」


「うむ、忘八にしてはなかなか良い考えを持っているようじゃな」


「ほんに若旦那がええ人でわっちらも助かってます」


 ……


 こうやって遊郭では普通にお茶を飲んでいるが、江戸、特に下町はもともとは湿地帯だったり埋立地だったりする場所が多い。


 なので最初は神田川や隅田川、赤坂溜池などの水を樽で砂や炭を通して濾過して飲用水としていたりしていたらしい。


 そこで徳川幕府が真っ先に整備したのが上水道だ。


 玉川上水や神田上水の2大上水に加えて、本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水、千川上水が引かれるのだが、ここ新吉原に現在は上水はひかれていない。


 ここらへんは新しい埋立地ではないから井戸を深く掘れば真水が出るからな。


 それでも浅井戸の水はまだ塩気がある。


 地中の岩を貫いた堀抜井戸からは冷たい清水が得られるが、井戸を掘るのに大変費用がかかる。


 地中岩より上の水を汲む井戸を中水の井戸といい、この水は夏に鮮魚などを冷やすのに使うんだ。


 井戸水は年間を通して10度以上20度以下の15度程度の温度を保つからな。


 飲用可能な共用の井戸の水をつるべで汲んで普段は水瓶にためておき、必要なときはそこから柄杓で茶釜などに汲んだりするわけさ。


 もちろんそんな感じだから夏は水は生ぬるい。


 ちなみに本所上水(亀有上水)、青山上水、三田上水、千川上水の4つは享保七年(1722年)には廃止される。


 これには井戸掘りの技術が向上して、岩盤をぶち抜いて深い井戸を掘ることできれいな水を汲み出せる井戸を比較的安く作れるようになったことが大きいらしい。


 なので、現在吉原は共用の飲用や炊事に使える水を汲み上げられる共同井戸は当然あるが、湯屋や内湯がある建物は、それぞれ専用の井戸を掘り、その水を使用することになっている。


 ちなみに江戸時代は大変火事が多かったので、内湯を持つにも、幕府の許可が必要なんだ。


 しかも飲用に適した良水を得られるだけの深さの井戸を掘るには二百両もの費用がかかったので、湯屋や内湯などの水は塩気・金気が強く掃除洗濯打ち水などにしか使えないとされる浅井戸である「雑水井戸」の水を使っている。


 まあしかし、多少しょっぱくても風呂の水なら問題ないからな、むしろ肌が綺麗になるくらいだ。


 江戸時代における江戸の内湯は鉄砲風呂と呼ばれるもので、関西の五右衛門風呂とは違い、風呂桶のしたの鉄の平釜で薪を燃やすのではなく、鉄や銅の上に穴の空いた太めの筒に接触防止の柵のようなものを設けてそれを湯船の中に下の方を沈め、上は空気中に出しその筒の中で炭を燃やすことで水を温めた。


 うちにある内湯はそれなりの大きさの檜風呂でなかなかいい匂いがするんだぜ。


 湯船の狭い銭湯なら勝てる……はちょっと誇張し過ぎか?


 俺を含めて男が風呂に入るのは女のあとだがな。


 水をくみかえるのも沸かすのも大変だから、体を洗うために減る水を、ちょっとずつ井戸から継ぎ足し継ぎ足して、うちに在籍してる全員が入ったら水は捨てて、翌朝早くから井戸から水をくんでくるわけだ。


 この時代手押しのポンプすらまだ無いので、井戸から水を汲み上げるには釣瓶桶しか無いわけだが、これで汲み上げるのはけっこう大変なんだぜ。


「まあ、それでも肩まで浸かれる内湯に入れるのはありがたいこった。

 なんせ寒くても湯冷めの心配がないからな」


 お湯には薬湯としてゆずを入れたり、菖蒲を入れたり、ヨモギを入れたりもする。


 ちなみに湯船の残り水や台所の調理後の水、洗濯などで流した下水は木製の下水管を通して吉原の周りを囲んでいる鉄漿溝おはぐろどぶに流れ込む。


 鉄漿溝は吉原を囲む本来は用水路なんだが遊女がおはぐろを捨てることで、そのために水が黒く濁ったとされるな。


 が、実際はお歯黒のせいだけではない


 新吉原は浅草寺の北の田んぼを埋め立てて作ってる。


 そこを流れていた用水路を整理して、脱走や侵入防止のための堀兼下水の排水路に仕立てたわけだが、地形的な要因で淀んでしまい、その上に下水が大量に流れ込むから臭いドブになっちまうわけだな。


 ・・・


「ほう、ここの内湯は肩まで湯につかれるとはなんとも豪勢よなぁ」


「ええ、お陰で肌がすべすべになりんしたな」


 石鹸の泡をつけた藤乃の手で全身を洗われている徳川光圀はなんとも気持ち良さそうにしている。


「うむ、それに体の手洗いも素晴らしいぞ」


「しゃぼんを若旦那が自分で作り始めたときは

 わっちらもびっくりでありんしたな」


 湯船から木桶でお湯をすくい、泡と垢を流すと、二人で浴槽に入る。


「うむ、実に良い湯だ。

 熱すぎもせずぬる過ぎもせぬな」


「風呂焚きももうなれたもんですさかいな」


「それにこの廓は便所が臭くないのが素晴らしい」


「あれも若旦那の考えはったことでありんすな。

 椅子みたいな便器の下におがくずを入れて在るんですわ。

 それを細々とかき混ぜていると、臭くならんらしいですわ」


「うむ、それは素晴らしい。

 我が藩邸にも是非取り入れたいものだ」


「ええと思いますえ、女人は特に裾が汚れず

 喜ぶと思いますわ」


「うむ、そうであろうな」


 ……


 この時代における江戸の街に氷はなかったと思われるかもしれないがそうでもない。


 信濃や甲斐、上野や下野などの山の奥の氷室の氷が大名屋敷や市中に設置された氷室に毎年6月1日に届けられていたりするのだ。


 江戸は水事情が良くなかったことも在るので、主に深川に水を売りに行く水売りやちょっと暑くなってくると、子供向けには砂糖や白玉の入った、大人には何も入っていない冷水売が水を売り歩く。


 江戸市民の飲料水は、神田上水、玉川上水などの水道管で供給されていて、神田上水は井の頭池を主要水源、玉川上水は多摩川の水を水源としている。


 ともに農村部では上の開いた開削水路かいさくすいろで、市街地に入ってからは地中に埋設した木や竹製の配水管で給水していて、共用の水を溜めた水道井戸があり、人々は釣瓶つるべで水を汲み上げて使うわけだが、なんせもとは川や池の水で自然に流れてくる水なので、夏はなまぬるく、ごみもまじっていたから、生水は体に毒とされて、必ず沸かして飲んだ。


 そのため夏になると冷水売りが繁盛したんだ。


 まあ、冷水と言いつつも実際はぬるい場合もあるし、深井戸の井戸水じゃなく 河の真ん中の水は毒が無いと言う迷信を信じて、神田川や隅田川などの真ん中から船で水を取って売り歩いたりもした。


 まあ若者は普通に飲んでいても、年寄りが飲めば腹を壊す元になったのは、当然だな。


 そんなこともあり年寄りが冷水を飲むと腹を下すということで、年寄りの冷水とか呼ばれるようになったわけだ。


「ま、うちには氷室も在るし、井戸水も綺麗だから問題無いけどな」


 この時代は寒い、その寒い冬に飲むことができる水をタライなどにいれて夜の間に放置して張った氷を、煮沸消毒した麦わらで包んで、地下の氷室に入れておく。


 藁は断熱効果が高いのでこれでも意外と溶けなかったりする。


 ワインセラーなどを思い浮かべてもらってもいいが地下と言うのは温度が15度にキープされるので、天然の冷蔵庫のように使えるのだな。


 もちろんそれだけで秋口まで持つわけでもなく、春先に各地に在る氷室から氷を買い付けるのだが、これがあれば魚なども比較的低温保存が可能なわけだな。


 まあ、勿体無いから普段は井戸水を使うわけだが。


 まあ実際は魚河岸は朝夕在るから、そこまで神経質にならなくても大丈夫なんだがな。

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