八話 月下にて 下

 じり、とも動けぬ。

 アラストール卿の前に立てば、ひっしと肩に重圧がのしかかる。

 先に動いた方が格下、などという道場剣法のくだらない世迷い言に付き合う気はないが、迂闊に踏み出せば、それすなわち黄泉路への誘い。

 アラストール卿のぐいぐいと押してくるような剣気は、僅かながらの濃淡があり、気を抜けば淡い部分を目掛け飛びかかりたくなる。

 だが、それが真実、隙であるのか、はたまた恐るべし罠であるのか、虚実定かではなく飛び込む事を躊躇せざるをえない。

 そして、その迷いは足と剣を鈍らせ、気の緩みとも言えぬ隙とも言えぬ隙をアラストール卿ならば、必ずや食い破ってくるだろう。

 攻め手はなく、防ぎ手も破られる事もこのままでは確実。


「はっ」


 故に私は笑った。

 強張っていた肩の力は抜け、根を張ったかのように動きを止めていた足も動く。

 ゆったりとした心地で見るアラストール卿は、若い頃はさぞかし女に騒がれた事だろうな、と脳裏に浮かび、泡のように消え去る。

 ここまでよくぞ己を練り上げて、私の前に立ってくれた。 そう思えば下腹に熱を感じるような愛しさすら覚え、そしてその熱すら泡と消えた。

 世界の危機あろうとも、もはや私の心に細波一つ立たず。

 瑣末な雑事は消え、愉悦の熱は消え、如何にして攻めて守るかという迷いも消えた。

 明鏡止水はとうに過ぎ、全ての想いは泡と消え、残るはただの私のみ。

 勝負の潮合いは満ち引きを繰り返し、私を誘ってやまぬ。

 しかし、私は無理にそれに乗りもせず、抵抗もせず、ただ浜辺に心地よく佇むように。

 だがアラストール卿の気は、最初から焦りを含み、その焦りは悲しく、その悲しみは等しく私の悲しみだった。






















「儘ならぬなあ……」


「仕方あるまい」


 自分でもいつチィルダを振ったのか、それすらわからない中で私は確かにアラストール卿を斬っていた。

 鎧ごと深々と腹を斬り、中からは腑がはみ出し、アラストール卿は空を仰ぐように倒れている。

 どれだけ優秀な魔術師であろうと、助ける事は出来ない深手を負いながら、アラストール卿の声は、むしろ深い落ち着きすら感じさせてくれる。

 王都でアラストール卿の剣気に浴びせられ続けた私は、剣気に実体こそなくとも、アラストール卿の剣を百振りや二百振りは見てしまった。

 それでは如何なる剣聖と言えど、技を盗まれて当然だった。


「理想全てが叶う立ち合いなど、生涯に一度あればいいだろう」


「……はい」


 どちらが勝って、どちらが負けたのか。

 死に向かっているのはアラストール卿だが、負い目を感じる私を諭す言葉には温かみすら感じられ、それがなお一層、私に負い目を感じさせる。

 手を読んだのは決して卑怯ではない。

 むしろ意味もなく手の内を晒す武芸者こそ、悪と言い切ってすらかまわないだろう。

 だが、お互いに何も知らず、ただぶつかり合えば、より素晴らしい立ち合いになっただろう。

 繰り言にしかなりはしないが……そうであれば、剣の極致が見えていたかもしれない。

 それを台無しにしたのは私と、


「最初から最後まで一人の武芸者として、立ってくれませんでしたな」


「そう言わないでくれ。 剣の道も、騎士としての道も、私には同じくらい重い」


 拗ねるように、甘えるように言葉を紡いだ私に、明らかな死相を浮かべたままアラストール卿は苦笑いを作る。

 勇者を守るために剣気を発しなければ、こうはならなかった。

 その行動は、武芸者には相応しくない。

 そして、今だって私の弱みに付け込んで、どうしようもない物を背負わせようとしている。


「勇者様を、頼む」


「はい」


 どちらが悪いというわけでもなく、お互いに正しくて、お互いに間違えて、アラストール卿は死に、私は生き残ってしまった。

 ならば、せめてそのくらいは背負わなければいけない気がした。

 貴族達は何もわかっておらず、アラストール卿がどうしようもなかった貴族達を、弟子達が何とか出来るとも考えにくい。

 頼む相手が風来坊の野良犬しかいない、というのも理解は出来てしまう。

 だが、


「まったく……これでは惚れた弱みに付け込まれる乙女のようですな」


「ははは、すまんな。 だが、他に任せられる者がいない」


「私は育て、導くような事は出来ませんよ」


「私とて元はただの傭兵だった。 貴様も野良犬だ。 甘ったれた餓鬼でも生き続ければ、どうにかなるかもしれん」


「野良犬なら野良犬なりに、自由に生きればよかったものを」


「先代がな」


 アラストール卿の目が、どこか遠い、この世ではないどこかを見ていた。

 すでに私を見てはいない。


「戦場を駆ける先代の王が、どうにも格好よくてなあ」


「死人に嫉心を抱いても、私に勝ち目はないではありませんか」


 言葉は尽きた。

 いや、私達の間に語るべき事などはない。

 私達はただ、別れを惜しんでいただけだ。


「おさらばです、アラストール卿」


「さらばだ、ソフィア・ネート」


 目を閉じたアラストール卿に背を向け、私は天を仰ぐ。

 大きな月が出ている事を、今になってやっと思い出した。

 気付かなかった疲れが、どっと両肩にのしかかってきて、いっそへたりこんでしまいたいが、私にはまだやる事が残っている。


「魔剣チィルダが主、ソフィア・ネート」


 月がとても綺麗だな、と思い、


「剣聖アラストール、討ち取ったり!」


 月下に響く私の声は、どこか虚しく聞こえた。

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