少女神

ノス

1

 その黄金の瞳を開いた時、少女の世界は閉ざされた扉の中にあった。

 温い石床にうつ伏せとなった体は雪花石膏を思わせる白さで、それを覆うものは何もない。

 寝惚け眼にまず映るのは、一羽の鷹が、少女の顔を触れそうな位置から覗きこむ目。視線が合えばついと頭を上向かせ、重たげな大羽を悠々と広げ飛び立つ。一瞬視界を覆った青灰の翼が去ると、次に眼前に広がるのは天まで届く程長く、終わりが見えない岩の扉。

 ……ここはどこだろう。私は何者だろう。

 目を擦りながら見る扉の両端からは、少女の背の百倍はある壁が巨大な腕のように伸びている。

 上り坂になった背後には、丁度中心に石造りの建築群が列になって並んでいる。それは奥へゆく程大きさを増し、最後は頂点が見えなかった。手前には穴が一つ開いた門があり、その表面には、少女の体と造形が似通った者達が楽しげに踊る姿が彫られていた。

 気怠げに吹く風に稲穂のような髪を靡かせ、ここはどこだろうと再び思う。目覚める前の記憶は何一つない。

 やがて門の穴から全身が黒ずくめで、影のような姿の者が現れる。その体も少女と類似した造りで背丈が三倍はあり、異様に手足が長い。少女の足元まで来るとそれは両手をついて深々と額ずいてきた。

 眼裏が痛むほどに眩しい蒼穹の下にあるのは、頭を垂れた一体の影と、影を見る白い裸身の少女自身の姿。今ここに存在するのは、この、たった二つだけ。


 影は何故こちらへ屈んでいるのか。少女にその意味は分からないが、彼が自分に仕える者であるのだという事だけは理解した。

 流れる風に肌をくすぐられた少女が獣めいた身震いをした時。耳が、扉の向こうから音を拾う。石の地面を踏みしめ、土埃を掃いてここへ向かう何か。

 少女は扉に耳を寄せる。何かはやがて扉の前で止まった。反対側にいる少女から遠い位置にいるようだ。息を顰めなければ音が届かない。その距離はそのまま、扉の厚さだろう。

 何も聞き逃すまいと耳に意識を集中させていると、不意に向こうから大きく野太い音が鳴る。それは耳の奥へ入り、鼓膜や腹の内部まで鷲掴んで揺さぶった。少女は思わず両耳を押さえて背を反らせ、石床を玉のように転がる。煩いそれは三呼吸の間を置いて六度鳴り響き、この空間の奥へ吸いこまれ、やがて萎んで聞こえなくなった。

 少女は恐る恐る耳から手を離し体を起こす。安堵も束の間、先程より小さな別の音が聞こえだした。意味の分からない響きを発し続け、一定の調子が突然外れたりと落ち着きがない。

 やがてその何かは重いものを扉の前に置き、来た時と同じように遠ざかって行った。

 静寂が戻ると、影が石床へと体を溶かすように沈める。そのまま表面を這い、少女が瞬きを一つする間に扉へ辿り着く。両腕を伸ばしてまさぐる動作をした後に体を扉から抜き出すと、手に白い絹地の布が抱えられており、跪いて少女へ恭しく差しだして来た。

 何であろうかと影と布を交互に見ると、影が布を広げ、左肩へかけて体に巻きつける素振りをし、再び少女へ差しだす。どうやらその動作を真似て欲しいらしいと理解した少女は布を受け、見よう見まねで身に纏う。布地の冷たい感触が肌を擦り寒気がした。


 影はまた扉へ向かう。抜き出された両腕には一つの銀盆が持たれていた。盆の上には銀の大皿と杯が載せられ、肉の塊と乾酪チーズ、赤い果物、青い花が零れそうな程に山と盛られている。灰色のこの空間の中、少女と、その銀盆の上にだけ鮮やかな色彩が落ちていた。

 影は少女に果実を差しだす。またも何を意図するのか分からず首を傾げた少女に、果実を手で持ち口へ含む動作をした。影を真似、少女は果実を一粒口に入れ歯で潰してみる。すると咥内に甘酸っぱい味が広がった。少女は目を見開き、驚きと共に嚥下する。

 美味しい、もっと食べたい。

 思うが早いか、果実を両手で鷲掴み夢中で食べ始める。その様は飢えた者が見境なく食べるように汚らしかった。果汁が唇から零れ、手から腕へ伝って衣を汚す。

 肉へ齧りつき、花さえも食べ、あっという間に大皿は空になる。満足した少女は濡れた指を舐めながら影へ笑いかけるも、影はくすりともしない。その黒い顔からは、目や口といった部位を見つける事ができなかった。


 少女は影を引連れ空間内を探索する。扉の端から端までは少女が駆け、五十を数えた程の距離。扉の表面は理解できない記号の羅列で埋め尽くされ、上へどこまでも続いている。

 少女が扉に触れても影の様には貫通せず、力の限り押してもびくとも動かない。固く合わされた割目は風も通さない。高い壁に阻まれたこの世界では、扉だけが外界へと通じる唯一の手段であるというのに。

 先程扉の向こうから来た何かの音は、今は聞こえてこない。どれ程遠くに去ったのか。

 少女は扉に背を預け全体を眺める。壁には岩をくり抜いた柱廊があり、高さは影の背の倍以上。柱には、六つの間隔毎に厳めしい獣が彫られている。

 左右の壁幅は奥へゆく程に扇状に広がり、高さを増す。空間の中心にある建築物の群れもそれと同様に。

 眺める少女へ、頼んでもいないのに、影が説明を始めだした。それは声ではなく、頭の中へ直接感情として伝えて来るものだった。

 建築物は全部で八つあり、全て同じ構成。門とその背後に建つ細長い四角の建物と、その後ろにあって五倍の大きさはある、一つの塔からできている。それぞれの中心には前後に穴が開けられ通路となっている。塔だけは前部のみに穴があいており、門以外の頂きには半円の石が置かれていた。

 それらの総称を寺院と言い、手前から順に第一の寺院、第二の寺院と呼び、第八まで続くのだと。だが少女は影の長々とした説明を碌に聞かず、その寺院とやらを眺め続けた。

 寺院全体は浮彫や透かし彫りの装飾で埋め尽くされている。装飾には規則性があるようでない。動植物など様々なものが掘られていたが、少女はどれ一つ名前を知らなかった。

 寺院から視線を落として石床を見れば、網目状の溝が一面に張り巡らされている。だが中には石のように固まった砂埃が詰まり、もはや溝と呼べそうもなかった。

 少女は第一の寺院内部へ足を踏み入れる。門をくぐると、中心の丸い壇上に逞しい獣の石像があり、大きくつぶらな一つ目を塔へ向けていた。少女はふざけてその石像へ吠えてみせるが、獣の目は少女を見ようともしない。

 次の建物の両端には幾つもの石柱が等間隔に並んでいる。少女は中を歩き、石柱の合間に点々と建つ石像達を眺めては寄り道をした。

 そして第一の寺院の塔へ到着した。入口は狭く、入る光が乏しい為に内部は薄暗い。手の届かない上部に縦長の穴が四つ刳り抜かれている。そこから注がれる光が中心で交錯し、少女の体と造形を同じとした石像を照らす。その石像は同じ寺院内にあるものの中で最も大きく、丹念に造りこまれていた。

 溝は全ての寺院内部に通っており、壇や柱は周りを円状に囲んでから四方へ繋がっていた。

 塔以外の寺院内部は明るい。特に、石柱の並ぶ建物が。だが寺院が大きくなるにつれ柱は増え、光は弱まった。塔も同様で、上部の穴が石床から遠ざかり更に暗くなった。

 少女は探検を続けた。石像に触れ、半身の砕けた裸体像を指さして笑い、柱をくるくる回る。影が慌てて追いかけて来るのが面白く、影の前に隠れたり現れたりしながら駆けた。

 造られてからどれだけの年月が経っているのだろう。寺院は数が若いもの程損傷が目立つ。だが最も新しい筈の、第八の寺院の塔内部は瓦礫で入口が塞がれて入れず、そこにあるべきである石像の姿が見えなかった。


 やがて空間の再奥である、第八の寺院の裏手に来る。そこは壁一面を使い、四角い壇が削り取られていた。高さは第八の寺院に及ばないが、影を百名は縦に連ねた程のもの。右端には細い階段があり、壇上まで繋がっている。

 それを見上げた後、少女はふと背後を振り返る。眼前に立ち塞がるのは第八の寺院の姿。頂きは扉と同様に先が見えず、空に触れているよう。そして第八の寺院より低いが、圧倒的な高さでこの空間を包む壁。少女はそれらの下で、自分がほんの小さな塵に過ぎない心地になり眉を顰めた。

 今まで機嫌良く駆け回っていたが、あまりに高いこの空間全てに圧し負けているようで、無性に腹立たしくなったのだ。あの高さに、少しでも近づけはしないか。

 少女は壇上に繋がる階段を凝視してそこへ走り、長い時間をかけ上まで登りきった。辿り着いたそこには放射状に並ぶ八体の獣がおり、その背には場の殆どを占める丸い器が置かれている。鋭い牙を持つその獣の名は虎だと、背後からきた影が告げた。

 寺院と同様、獣と器を囲んで溝が彫られている。そこから伸びた幾つかの線が、壁をつたい、下へと繫がっていた。空間全体にある溝は、全てここが始まりであるようだ。

 少女は壇上から寺院群を眺めるが、まだ高さに満足できない。悩んだ末、自分の背丈より高い虎の前足を攀じ登り始める。落ちる事を心配してか、慌てた様子の影が走って来た。

 八体の虎は全てが大口を開けている。少女は何とか頭まで上り、次に器へ指をかけようとするも、磨きぬかれた器の表面には指をかけられるものがない。何千何万もの装飾がなされた寺院や柱廊に比べあまりに簡素だった。

 それでも攀じ登ろうとして結局ずり落ちる少女を、影が背後から支えた。初めて触れる影の感触は温い石床より冷たく、石よりも柔らかい。少女に例えられるものは少ないが、兎に角、不快さを感じはしなかった。

 影の手を借りて器の縁に立った少女は、腰に手を当て挑むよう前方を眺める。目の前の第八の寺院に邪魔され全体像は分からないが、より高くなった場所から見える景色に悔しさは薄まる。少女は得意気に鼻を鳴らした。

 もっと高く見ようと背を仰け反らせたのがいけなかった。少女の体は均衡を崩し、器の中を跳ね落ちてしまう。落ちるのと影が器に上れたのが同時であったので、影は驚く動作は示しても助けるまではできなかった。

 器の底を塞ぐよう置かれた、丸い大岩にぶつかって少女は止まる。そのままその岩の上へ登り、仰向けに寝転んでみた。器の中には八つの穴があり、位置からして虎の咥内と繋がっているようだ。少女はそれらを一瞥してから、青く澄み渡る空を眺めた。

 真上には、白い球体が息を殺して昇っている。それが月というものであると影が教えてきた。月とは別にもう一つ浮かんだ、激しい光の塊が太陽という名である事も。

 少女は想像する。

 月というものが今、直線を描きながらこの器に落下したとして、見事に嵌まるに違いない。するとどうだろう。この私を押し潰すのだ!

 滑稽で、少女は身を捩り笑いだす。呼吸さえ苦しくて涙が出た。やがて笑う少女と月の間に、一羽の鷹が姿を見せる。壁よりも高い所にいるそれが、目覚めた時傍らにいた者と同じだと少女の目には分かった。

 少女の顔からは、仮面を取替えたよう笑みが消え去る。身じろぎもせず、ぎょろりと剥いた目を横切り去る鷹へ向け続けた。

 長い沈黙が訪れる。青空が紅を帯びた時分となって、少女は足元に侍る影へ尋ねた。

 あの扉の向こうには何かあるのか、食物を運んで来たものは、どこから来て、どこへ去ったのか。

 声ではなく影の頭へと、直接その感情を伝える。少女に言語という概念はない。少女が発する声はただの音の塊に過ぎず、その響きは嬰児のそれと酷似していた。

 影は少女と同様に自身の感情を伝えて来た。

 扉の向こうにとりたてて語るものはなく、気にかける程のものはない。貴女が関心を持つ必要はありません。

 向こうからは七日に一度、今日のように供物が捧げられるのですと。何に対してかと問えば、他でもない貴女へと影は答えた。少女は指先に髪を絡ませ、影の告げた事を理解したともせぬとも分からぬまま頷く。

 扉の向こうに対して爪先程の興味を覚えるが、暗くなりだす空に浮かび上がった数えきれない光の瞬きを見つけ、そちらに気を取られた。瞬きは星というものだと影から教わり、少女はそれを指で数えながら眠りに落ちていった。


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少女神 ノス @tenpe

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