#19

 やがて泣き出した空の下で、透は未だベンチに一人腰掛けたままだった。


 老人は言った。


(完全なそら、理想のそらというものは存在しないのかもしれません)


 その言葉と、老人の悲しそうな表情が透の頭の中いっぱいに広がっていた。


 あの老人は知っていたのだろうか。

 それとも、全て絵描きの話としてだったのだろうか。




 自分は自分ではないに憧れていた。

 その憧れは苦しみだった。

 自分ではない何かになる願望よりも、自分ではなくなることを切望していた。


 今の自分から何かが変わることを信じて会社を辞めた。

 自分を変えたいなどという高尚こうしょうなものではなく、自分である苦しみから逃れるために歩んでいる道から外れるための行為だった。


 自分から何かを捨て去れば、自分は大きく変わるものだと思っていた。


 しかし、何を捨てたところで自分は自分だった。

 自分から何かが切り離されていくにつれ、自分が空っぽであることが露見するだけだ。


 恋人、家族、友人。

 それらとの関係性を遮るにつれて、自分の中には何もないのだと気づく。


 自分は自分以外のものにはなれなず、そして自分だと思っていたものは実は空っぽだった。





 雨は降り続く。


 透は足元の水たまりに目を向けた。

 そこに映る男は空っぽだった。

 自分を確かなものとして感じようといろんなものを捨て去った結果、からになった男だった。


 自分を形成していたものは自分が捨て去ったものだった。


 それに気づいた時には自分は、もう何も持っていなかった。




 雨は強く降り続く。


 透は手の中の鍵を見た。

 その鍵についている人形を、見た。


 こんな人形ひとつで、透の心はそれでも救われた。

 何も持っていないのと、思い出を一つまだ捨てていないのでは大違いだった。


 この人形を手にしているだけで、自分はまだ完全に空っぽではないのかもしれないと思うことができた。




 雨は強く降り続く。


 母は怒っているだろうか。

 何度も連絡を貰ったのにあのようなメール1通だけしか送って寄こさなかった自分に腹を立てているかもしれない。心配しているかもしれない。


 聡太朗はきっと母へ連絡しているだろう。

 きっと、母から父へも話は伝わっている。

 なんの行動も起こせない自分を両親は残念に思うだろうか。


 聡太朗から康介や梨絵にも伝わっているかもしれない。

 いや、聡太朗のことだから、こういった話には慎重になるだろう。

 本当に、自分の周りには優しい人たちばかりだ。


 瑞希も――、




 雨は強く降り続く。


 恋人の悲しそうな顔が思い浮かんだ。


 ふいに、雨音が静まり、身体を打つ雨の感触も弱まる。

 顔を上げ、前を見る。


 傘を手にこちらを見下ろす瑞希。


「……」


 言葉を発せずにいる透を、瑞希は黙って見下ろし、そして――、




 雨は強く降り続く。


 絶え間なくひたいを叩く雨の衝撃。

 周りの音を遮る雨音は強まる一方だった。


 目の前には、誰もいない。


 透は別れた恋人の顔を想い、そして手元のキーホルダーを見やった。


(どんなに美しいそらといえども、からっぽになってしまったら空虚なからのかたまりでしかない)


 老人の言葉を思い返す。

 透は空を見上げた。曇天の空には彼の見入った青い色はなかった。


 手で顔を拭うとベンチから立ち上がった。

 彼の手には、まだキーホルダーのついた鍵が握られている。


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