#18
公園のベンチに腰かけて家の合い鍵につけられたキーホルダーを触っていた。
麻糸で作られた黄色い
瑞希とお揃いで買ったもので、失くした鍵にも色違いで緑のものがついていた。
随分と長い時間こうしている。
やって来たのはまだ夜も明けきらない時間だったのに、すでに太陽は頭上高くに昇り薄く広がった雲の向こうからぼんやりと地上を照らしている。
「おや。お散歩ですか」
鼓動を落ち着かせてくれるような優しい声に透は顔を上げた。
目の前には白髪頭の老人が穏やかな笑顔を浮かべて立っていた。
「はい」
透も笑顔で応える。
老人は、手ぶらだった。
「今日は、絵は描かれないのですか?」
「ええ。雨が降ってはいけませんから」
残念そうな
「それに今日の空は筆を取りたいと思わせるものではない」
後ろ手に見上げる。
動いていると僅かにわかる速さで、雲は少しずつ濁った色へと姿を変えていく。
「そうですね」
透も頭上を見上げて同意した。
「……」
少し空いた間を嫌うように透は話を振った。
「先日伺った話ですが」
「ええ?」
「何もない空の方が素敵だと感じるかもしれないが、そんなことはないと」
「……ああ」
顎に手を当てて記憶を
「あれは、一体どういう意味なのでしょう。
何もなくなった空は魅力に欠けるという事でしょうか?」
感情的になってきた自分を律しながら話す。
老人は、なおも優しく応えた。
「そういう意味ではありません」
「であれば一体?」
ゆっくり目をつぶり、自らの白髪頭を手で撫でてから老人は応えた。
「何もなくなってしまったとき、それは
そう言うと顎を上げて宙を見やる。
透もそれにつられて上を見た。
「
どんなに美しい
老人は眉根を下げて笑う。
「完全な
……近づこうとすると、追い求めたものと実際のものとの違いに苦しむことになる」
「そうなんですか」
乾いた声で透は尋ねる。
自分が欲しい答えが何かはわからない。
ただ、自分を満たしたいという一心で老人の言葉を求めた。
「ええ。実際に描いてみた私が言うのですから、間違いありません」
老人はそう言うとひと際、悲しそうな、それでいて穏やかな笑顔を浮かべた。
それを見ているのが辛くなり透は目を伏せた。
老人の足が遠ざかっていくのが見えたが顔は上げられなかった。
もう一度あの顔を見てしまうと泣き出してしまう気がした。
去り際に、老人はぽつりと
「あの絵。もし完成したら見てやって下さい」
その声に、老人にいつものの温かい笑顔を感じて透は顔を上げたが、その時には歩み去る老人の背中しか見ることはできなかった。
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