#02

 透が自宅のマンションに帰ってきたのは夜中の20時を回っていた。


 職場での挨拶にそれほど時間はかからなかった。

 働いていた年月は決して短くはなかった。

 自分は特別社交的というわけではなかったがそれなりに知り合いはいた。

 しかし一人一人とそれほど長い時間話すことはなかった。


 この一週間にしても、上司の松野以外に自分を引き留めるものもいなかったし、退職の理由を詳しく聞こうとする者もいなかった。

 同じ笑顔で「寂しくなる」「残念だ」という顔が返ってくるだけだった。


 会社を出ると駅に向かい電車に乗ったが、急に何とも言えない不安感に駆られ、透は最寄り駅の一つ手前の駅で下車した。

 適当な店に入ると酒をあおったが、思考が纏まらないのを自覚すると早々に切り上げ、家まで徒歩で帰ってきたのだった。


「はぁ……」


 部屋に帰り着くと、透は電気も点けずにベッドに倒れこんだ。


 会社を辞めた。


 理由はない。

 上司に伝えた言葉に嘘はない。

 ただ辞めたかった。


 『辞めてみたかった』。


 会社を辞めたら……、自分の生活の中でも一際ひときわ大きい存在だと言える「職」を手放したら、自分は果たしてどうなるのだろうか?

 その興味だけで、辞めた。


 一度それが頭に浮かぶと、実行せずにはいられなかった。

 周りの迷惑をかけるかもしれないなどということは大したことには思えなかった。


 実際に辞めてみたが実感がまだ沸かなかった。

 自分とあの職場とはもう関係がないということが、明日はもう同じ時間に電車に乗ることもないということが、取引先とももう会うことがないということがいまいちよくわからなかった。


 辞表を提出したときは少し快感だった。

 なんの予定もない来月の予定に少し期待した。

 来月には収入がなくなり貯金を崩しての生活になるだろうと少し不安に思った。

 家族への説明はどうしようと少し億劫にも感じた。


 その全ての感情がで、どこか現実味を帯びていないのだった。


瑞希みずきに何て説明しよう……」


 家族のことを思ったからか、次に頭に浮かぶのは交際相手の顔だった。

 彼女がどんな反応をするか、全く想像できなかった。

 もっとも、想像力さえあればこんな衝動的な想いで会社を辞めたりはしないのだろうが。


 働くことは楽しくはなかった。

 どちらかというと辛かった。

 が、耐えられない程でもなかった。


 明日からはその職場に行かなくても良い。

 そう考えると、清々しい気持ちが勝った。


「はぁ……」


 ……にもかかわらず、ため息ばかり出るのだ。

 きっと、自覚できていないだけで社会的な不安は確かに感じているのだろう。

 にもかかわらず、自分はどうしてこのような行動を行っているのか。


「俺は、おかしくなったわけじゃない」


 ぽつりとそう呟くと、少し緊張が緩んだ気がした。

 

(明日からのことは明日から考えれば良い)


 そう心の中で言い聞かせると途端にまぶたが重くなった。

 胸の内でぐにゃぐにゃとかき混ざる思いを追いやるように、透はゆっくりと眠りに落ちた。



 こうして、上原透は「仕事」を捨てた。



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