空のかたまり

とものけい

#01

「これまでお世話になりました」


 平坦な声でそう告げ、上原透うえはらとおるは静かに頭を下げた。

 課長席の松野は困ったように見つめていたが、顔を上げた透の口からそれ以上の言葉は出ないとわかると堪えていた溜息が思わず溢れ出た。


 透が退職を申し出たのはほんの一週間前であった。

 ほとんど手を付けずに残っていた有給休暇を消費すると、約一か月後が正式に退職日となる。

 出社する日としては今日が最後であることはこの松野も知れていたが、それでもまだ状況を飲み込むには至っていなかった。


「やはり考えは変わらないのか?」


 聞いてみたものの、声には諦めの色が出ていた。

 何しろ、この一週間、説得に当たったのである。

 今さらどうなるとも思っていなかった。


「……はい」


 即答、というわけではなかった。

 その様子に松野はますます困った顔になる。


 営業職に就く透の能力は、松野から見ると「可もなく、不可もなく」といったところだった。

 しかし、5年以上自分の下で働く透は単なる部下というわけでもなかった。

 少なくとも自分には仲間意識の様なものがあった。


「もう一度聞くが、せめて理由を教えてくれないか」


 止められないのであればせめて納得させてほしい。

 そう思う松野に透は「いえ、特に」と応えるのみだった。


 一週間この調子である。

 理由を聞いても無いと言い、辞めてどうするのかと聞いても決めていないと言う。

 「わからない」それは松野の心底からの気持ちだった。


 困り果てた、という目で松野に見つめられた透は伝染したように困った表情を浮かべた。


「本当に特に何もないんです。ただ、辞めようと……。

 松野さんには本当に良くしてもらいました。

 こんな形になって申し訳ありません。でも、辞めたいんです」


 そう言うと透は更に困ったように松野の目を見つめた。

 まっすぐに。

 松野はその視線を受け止めるつもりで目を見たが、こちらを見る透の視線は自分を見ているようには感じられなかった。


 松野は諦めたように目を閉じると、また溜息が出た。

 今度は深く、長い溜息だった。

 その溜息が聞こえなくなる前に、透はもう一度頭を深く下げた。

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